第2話 取引 ⑥

 第一別宅の一階にある応接室の前に、蒼依は立った。ノックをし、「どうぞ」という恵美の声を確認したうえで、ドアを開ける。

「部屋にいなかったから、ここかな、と思ったんです」

 応接室に入った蒼依は、言いながらドアを閉じた。

 コの字型に据えられたソファの端で恵美はくつろいでいた。制服ではあるが、ジャケットは横にたたんでおいてある。シャツのボタンの一番上を外し、スマートフォンの画面を見ていた。彼女の所持品も返却されたようだ。

 室内は冷房が効いていた。勧められるまでもなく、蒼依は恵美の向かいに腰を下ろした。

 掛け時計は午後二時十五分を指している。

「昼食は?」

 スマートフォンをテーブルに置いて、恵美は蒼依に尋ねた。

「いえ」蒼依は首を横に振った。「食欲がなくて」

「気持ちはわかるけど、特機隊隊員になったら、食べられるときに食べておくようになるわよ。任務に差し支えるからね」

「はい……気をつけます。尾崎さんは食べたんですか?」

「蒼依さんが聴取を受けている間に、自分の部屋でいただいたわ」

「そうでしたか」

 話したいことはほかにあった。しかし、きっかけがつかめない。

「FA0833のことを聞きたいんじゃないの?」

 やはり恵美は敏腕の特機隊隊員なのだ。蒼依の思惑など手に取るようにわかるのだろう。

「尋ねたって、教えてくれないんでしょう?」

「ということは……というより、当然だけど小野田隊長は話さなかったわけね」

「はい」

「悪いけど、先にも伝えたとおり、わたしだって話せない」

 いつものごとく、恵美は表情を変えずに伝えた。

「ですよね」

 FA0833についての諸々を蒼依が知ったところで、特機隊が動いてくれるわけではない。禁断の区域に拘泥する気力は失せていた。

 蒼依は話題を変えることにした。

「尾崎さん、手当ては家政婦の誰かにしてもらったんですか?」

「管制室で小野田さんの聴取を受けながらだったから、さすがに家政婦には頼めなかったわ。だから三上さんに頼んだの。湿布を貼ってもらうだけだったし」

「三上さんに?」蒼依は眉を寄せた。「だって、足首ならともかく、肩はシャツを脱がなくちゃ手当てができないじゃないですか」

「ああ、そういうこと」

 こちらの憂慮を察したらしく、恵美は独りごちた。

「そういうこと……って、尾崎さんは女性なんですから、もっと意識してください」

「大丈夫よ。慣れているし、それにシャツのボタンを三つ外して肩を出しただけだから」

「それでも」蒼依は言い募った。「今度、こういうことがあったら、あたしか家政婦に声をかけてください。もう男の人に頼まないで……」

 この問題だけで興奮したのではない。瑠奈がさらわれたこと、矢作の死、動こうとしない特機隊、開示されない秘密――さまざまな要因が積み重なって、蒼依は折れそうになっているのだ。

 ソファから立ち上がった恵美が、蒼依の斜め前で腰をかがめ、片膝を立てた。

「涙、拭きなさい」

 スラックスのポケットから出したハンカチが、蒼依に差し出された。

「涙なんか……」

 言いかけて、自分の涙に気づいた。

「わたしが悪かった。今度からは蒼依さんの言うとおりにするわ」

 久しぶりに見る恵美の優しい表情だった。

 蒼依は頷き、ハンカチを両手で受け取った。

「ありがとうございます」

 ハンカチで涙を拭きつつ、蒼依は言った。

 うつむいてため息をついた恵美が、顔を上げた。

「一つだけ、教えてあげる」

 涙を拭く手を止めた、蒼依は目を丸くした。

「FA0833には」恵美は言った。「警察関係ではない特殊部隊が立ち入っているの」

 小野田が口にしていた「彼ら」がそれに相当するのかもしれない。それにはふれず、蒼依は問い返す。

「その特殊部隊って、無貌教の仲間ではないんですよね?」

「特機隊と連携しているわけではないけど、特機隊と似たような目的で結成された部隊なの。特機隊もその特殊部隊も、互いが直接交渉することは認められていない。特機隊の上層部……警察庁の官僚でなければ、そっち側の上層部との意見交換はできないの」

「その特殊部隊って、まさか……」

「それ以上は蒼依さんでも口にしてはいけないわ」と釘を刺され、蒼依は息を吞んだ。

 蒼依の憶測どおりなら、その特殊部隊は特機隊よりも戦闘に長けているはずだ。恵美はそれをほのめかし、蒼依を安心させようとしたのだろう。

「とにかく、事情はそういうことなの。安心できる材料とは言いがたいけど、光明はない、というわけじゃない。それだけは、わかって」

 そう訴えられたが、確かに蒼依の不安は払拭されなかった。その特殊部隊が瑠奈を救出してくれるとは限らないのである。

 それでも恵美の心遣いに感謝し、蒼依は頷いた。

 瑠奈が救出されるまでは絶対に泣くまい――そう心に誓った。


 恵美から借りたハンカチを洗面所で手もみ洗いし、それを乾燥機にかけてからら、蒼依は二階の自室へと向かった。部屋に入ると、学習机の上に置きっぱなしだったスマートフォンを手にして、ベッドの端に腰を下ろした。

 暗記しておいた電話番号をタップした。

 呼び出しが一回だけで、相手は電話に出た。

「どちら様?」

 榎本だった。

「神宮司蒼依です」

「こりゃまた驚いたな」榎本は言った。「特機隊がよくおれのケータイ番号を教えてくれたもんだ」

「名刺にあった番号を、暗記したんです」

「あんな短時間で……か? 特機隊が教えてくれるよりそっちのほうがすごいよ。なら内緒なんだろう? 盗聴とかされていないのか?」

 当然の危惧だ。蒼依は答える。

「盗聴はされていません」

「ふーん」

 信じていない様子だった。それでも、話を進めなくてはならない。

「特機隊からFA0833の場所を教えてもらったんですか?」

「どうしてそんなことを訊く?」

「大事なことなんです」

 しばしの沈黙があった。相手の息づかいさえ聞こえない。

「教えてもらったよ」十秒以上も待たせてから、榎本は答えた。「小野田隊長から電話があった。本部の判断らしい」

「そうでしたか」

 障害の一つ目は消えたことになる。ゆえに、蒼依の緊張は高まった。

「で、それがどうした?」

 榎本は蒼依の返答を促した。

「今、どこにいるんですか?」

「それは言えないな」

「FA0833に向かっているんですか?」

 蒼依は問い続けた。

「なんでそれを訊くのか、先に答えてほしい」

「あたしもそこに連れていってほしいんです」

 それがこの電話の目的だった。あとの流れは、榎本の答え次第だ。

「特機隊が動けないから、自分が瑠奈さんを助けに行く、と?」

「はい」

「君がおれの足手まといになる可能性は、あるよな」

 迂遠な拒否反応だった。しかし蒼依にはカードがある。

「役に立つ人を連れていきます」

「役に立つ?」

「特機隊よりも役に立つ人です」

 とはいえ、勝手に助っ人と決めつけただけだ。その「彼」がついてきてくれるのか、自信はない。

「すごい武器を持っている、とか?」

「それは事実です」

 蒼依は即答した。

「事実、と君は言うが、どういうことかな?」

 当然の反応だろう。しかし蒼依は、引くわけにはいかなかった。

「FA0833と同じように秘密扱いですが、たくさんの幼生……怪物たちを斃した実績があります」

 またしても沈黙があった。今度の沈黙は長かった。一分程度は待っただろう。

「まだFA0833には向かっていない」榎本は言った。「今からだと夜になってしまう。明日の朝早く、そこに向かう。どこかで、君と……そのすごい人を拾う」

 震えながら、蒼依は頷いた。

「あ……は、はい。お願いします」

 ならば次は、彼を説得しなければならない。

 待ち合わせ場所と時間を榎本から聞いた蒼依は、通話を切り、念のためにスマートフォンを持ったまま、部屋を出た。

 一階の応接室に顔を出すと、恵美はまだそこにいた。ソファでスマートフォンを見ている。

「本宅のおばさんのところへ行ってきます」

 蒼依がそう告げると、恵美は顔を上げて「ええ」と答えた。

 第一別宅の玄関を出た蒼依は、すぐに足を止め、自分以外に人の姿のない敷地を見渡した。前庭やそれぞれの建屋、塀の内沿いに連なる疎林など、監視カメラのレンズがこれらのほとんどをカバーしている。ここを明日の早朝に抜け出さなくてはならないのだ。

 ――それでも、絶対に瑠奈を救い出す。

 そう決意し、蒼依は本宅へと歩を進めた。


 筒の内側のような空間だった。天井までの高さは十メートルはあるだろう。床の直径は五十メートルほどであり、天井は穹窿のごとく上へと湾曲している。内壁の二メートルほどの高さには等間隔に数十本の電灯が設けられ、白色の明かりを落としていた。天井も壁も床も、打ちっぱなしのコンクリートだ。冷房でも働いているのか、ひんやりとしているが、エアコンの本体は確認できない。照明器具以外にあるのは、等間隔に据えられた四枚のドアと、それぞれのドアの真上――天井に接する辺りにある換気口もしくはエアコンの吹き出し口とおぼしき横に細長い長方形の開口部だけだ。窓は一枚もなく、照明器具のスイッチもない。監視カメラと思われるものも見当たらなかった。

 ミミズのようなあの化け物は、この筒状空間に生じた出口の門を通過するとすぐに瑠奈を解放し、再度、門に入ってしまった。そしてその門もすぐに消失した。出口となった門は直径が三メートルほどであり、この空間に余裕で収まっていた。

 すべてのドアは外から施錠されていた。門が消失してすぐに、不安を感じながらも一つ一つのドアノブを握り、それを確かめたのだ。四枚のどれにも鍵穴もサムターンもなかった。内側からは解錠できないわけだ。

 所持品といえばこの腕時計だけだ。スマートフォンや財布は、それを入れておいたショルダーバッグごと、二号車の中に置いてきてしまった。

 スマートフォンがなければ、外部への連絡もできず、緊張からか疲労を感じ、ときどきうたた寝をしたが、ドアを確認してからこれまでの間、瑠奈はほぼ、この場所でこの体勢を維持していた。巫女姿の女が声をかけてきたとき以外は――。


 今は瑠奈だけがこの空間にいるが、まずは五時間ほど前――到着してから一時間が経過した頃に、一人の女がここに入ってきた。瑠奈が座る位置の真向かいのドアを開けて入ってきた女は、神社の巫女のような姿をしていた。ドアは開けたままであり、逃げ出せそうにも思えたが、よく見れば、カジュアルスタイルの屈強そうな二人の男がドアの外に待機しており、とても逃げ出せるような状況ではなかった。

 黒髪を後ろで束ねた二十代とおぼしき女は、「トイレに行きたくありませんか?」と慇懃に尋ねてきたが、その必要を感じず、瑠奈は首を横に振って遠慮した。それよりも蒼依と恵美の様子が気になり、「自分と一緒にいた人たちはどうなりました?」と尋ねたものの、女は答えないばかりか、断りを入れたうえで瑠奈のボディーチェックをおこなったのだ。女は瑠奈の所持品が腕時計以外にないのを確認すると、すぐにこの空間から出ていった。腕時計は取られなかったが、スマートフォンを持っていたなら、おそらくは没収されただろう。閉じられたドアを確認してみれば、案の定、そのドアは施錠されていた。

 それからさらに一時間が経過した頃に、同じドアから同じ女が入ってきた。そして女は同じ質問を瑠奈に向けた。小用を足したくなっていた瑠奈は無言で頷き、その配慮を受け入れた。

 ドアの外に通されると、そこは屋外ではなく薄暗い通路だった。このドアから一直線に伸びる通路である。逆に見れば、このドアが突き当たりなのだろう。通路の奥は闇に包まれて様子が窺えない。ドアの外で振り向けば、開けっぱなしのドアの右横に、照明のものらしいスイッチがあった。

 例の二人の男が通路の先を塞いでいた。男はどちらも三十代らしかった。彼らの手前の左右にドアが一つずつあり、巫女姿の女は左のドアへと瑠奈をいざなった。そのドアの内側が洋式トイレの個室となっており、瑠奈はそこで小用を済ませた。最中にはドアを閉じることを許されたが、ドアロックがついておらず、施錠はできなかった。しかも、換気扇はあるものの、窓がなかった。トイレが清潔に保たれているのが救いではあった。

 そのあとは元の筒状空間に戻され、その際に食べ物と飲み物を提供する旨を告げられたが、瑠奈はそれを断った。矢作が惨殺されたうえ、蒼依と恵美の安否がわからないのだから、食べ物など喉を通るはずがない。まして自分を拉致監禁する集団から提供される食事など、手をつけたくなかったのだ。

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