第2話 取引 ④

 田んぼを貫く舗装路だった。片側一車線であり、センターラインのある道だ。ときおり車が行き交うが、交通量は多くなかった。前後左右の遠くに家並みは見えるが、少なくとも数百メートルの範囲内に建造物はない。そんな道の左端でコンパクトカーは停止した。

「ここで降りてくれ」

 エンジンをかけたまま、榎本は言った。

「田んぼ以外に何もないじゃないですか。ここはどこなんです?」

 助手席の後ろの蒼依は、声に険を込めて尋ねた。東か南に向かっていることは察したが、いかんせん、位置の把握ができない。加えて市街地から離れすぎているため、特機隊第六小隊管制室に連絡するにも、スマートフォンがないのだから公衆電話が頼りなのだ。ならば歩く必要があるが、負傷している恵美にそれをさせるのは酷だろう。ゆえに蒼依は、憤っているのだ。

こう駅の、西のほうね」

 運転席の後ろの恵美が、車外に視線を走らせながら告げた。

 小津港駅は神津山市内を南北に通るJR常磐線において、四つある駅のうち、一番、北に位置する。ここから一、二キロも北上すれば、福島県いわき市だ。

「暑くてかなわないだろうが」榎本は振り向いた。「車から降りたら、ここから動かないでじっとしていてくれ。迎えが来るように、連絡を入れておく」

「特機隊の連絡先まで知っているんですか?」

 嫌みのつもりで蒼依は口にした。

「それを知っていたら、手段は変わっていたかもしれないな」榎本は苦笑した。「特機隊の連絡先は調べようがなかったが、神宮司家の固定電話の番号なら調べてある」

 神宮司家はあくまでも民間なのだ。蒼依は把握していないが、神宮司家の電話番号が電話帳に載っていてもおかしくなければ、もしかするとインターネットで検索しても見つかるかもしれない。

「神宮司家に電話するんだったら、一つ、頼みを聞いてほしいわ」

 恵美が言った。

「面倒ごとなら願い下げるぜ」

 そう返して榎本は正面に向き直った。

「簡単なことよ。電話に出た相手の誰でもいいから、こう言づけてほしいの。泰輝くんに瑠奈さんのいどころを捜してもらって、とね」

 その手段があったのを、蒼依は忘れていた。以前にも泰輝は、敵にさらわれた瑠奈の所在を感知していたのである。

「タイキ?」

 榎本は問い返した。

 恵美が「ええ、そうよ」と答えると、榎本は「わかった」と首肯した。

「降りましょう」

 蒼依にそう促した恵美が、右のリアドアを開けて先に車外に出た。

 この状況に得心がいかないが、左のリアドアを開け、蒼依も車外に出た。

 エアコンの効いた車内から出たばかりという状況でもあり、この暑さは地獄である。

 二人がそれぞれのドアを閉じると、コンパクトカーは走り出した。

 腕時計を見ると午前十時三十一分だった。

「どうします?」

「彼を信じて、ここで待ちましょう」

 走り去るコンパクトカーを見送りながら、恵美は答えた。

「でも、尾崎さんのけがが……」

「じゃあ、このわたしに何百メートルも歩け、って?」

 恵美は真顔でそう切り返した。

「そ……それは……」

 冷静な判断ができない状態であるのを悟り、蒼依は自戒した。

「それにしても暑いわね」

 手をかざして空を仰いだ恵美はそう言うと、上着を脱いだ。そして左足を引きずりつつ蒼依に近づくと、それを頭上で広げて影を作り、自分の右に立つ蒼依をも覆う。即席の日傘だ。

「そっち、持って」

 右肩を負傷しているのだから、蒼依のほうまで右腕を伸ばすのはつらいに違いない。蒼依はすぐに右手を上げ、恵美の上着の右端をつかんだ。

「気が利かなくて、すみません」

「こんなときに気が利かなくて、当然よ。でも、気は抜かないでね。まだ始まったばかりだから」

 恵美は神妙な趣だった。

「はい」

 即席の日傘の下で、蒼依は静かに答えた。


「佐川さんは見たんでしょう?」

 国道六号を北へと走る三号車を運転する池谷が、助手席の佐川に尋ねた。

「矢作のことか?」

「はい」

「なんだよ、今さら」答えてもどうしようもないが、進んで剣吞な雰囲気にする必要はないはずだ。「見たよ。じっくりと確認したわけではないが」

「そうですよね。おれは、GPSで割り出された位置に向かわされたし。現場を迂回したから、矢作の遺体の状態なんてまったく見ていません。あのあと、遺体は処理班に運ばれてしまって……おれはこのまま遺体と対面できないかもしれないんです」

 池谷は悔しそうに言った。

 閉鎖位置の警戒に就くはずだった池谷は、急遽、恵美のスマートフォンのある位置に三号車で向かったのだ。しかしそこに恵美や蒼依の姿はなく、スマートフォンや警察手帳、センサーグラス、インカムのマイクなど、恵美の所持品が草むらの中に並べてあるだけだった。同じ頃、事件現場に処理班が到着し、現場の鑑識や痕跡処理はもちろん、二カ所の閉鎖位置の警戒をも彼らが担ったため、小野田と佐川は分註所に帰還したのである。

「あの遺体の状況では対面しないほうがいいぞ。ドライブレコーダーの映像では見ることができなかったが、それでよかったのかもしれない」

 特機隊専用車のドライブレコーダーは全方向型であるが、二号車は道から外れてやや傾斜した状態だったため、そのドライブレコーダーの映像に一部の路上の低い位置は入っていなかった。佐川も池谷もその映像の解析に立ち会ったが、幼生の出現も瑠奈がさらわれる様子も恵美と蒼依がコンパクトカーで現場を離れる様子も確認できたにもかかわらず、事件の顛末で矢作の最期だけが把握できなかったのだ。

「それでも、矢作なんですよ」

 強い口調だった。

「指紋による身元照会の結果が、まだ届いていない。DNA鑑定はそのあとだろうが、とにかく、現状ではあれが矢作だとは断言できない」

「そうですが……というか……」

 そんな踏ん切りがつかない様子に佐川はいらだちを覚えた。

「なんだよ?」

「小野田隊長が佐川さんを心配しているんですよ」

「おれを?」

 怪訝に思った次の瞬間に、佐川は得心した。山野辺士郎事件における高三土山強襲作戦で特機隊の須藤が殉職した件だ。

「おれが第六小隊に配属される前に……」池谷は言った。「というか、当時は第一小隊だった神津山支部が高三土山を強襲したときに、その一行のほとんどが殉職しました。その中の一人は、けがで出動できない佐川さんの代わりに強襲班に入った須藤という隊員だったらしいですが、佐川さんは今でもそれを悔やんでいる、ってみんなが言っています」

「みんな……か」

 佐川は失笑した。おそらく小野田が吹聴したのだろう。だが普段の小野田の佐川に対する接し方からしても、「心配している」というのは事実に違いない。

「余計なことだ。池谷は気にしなくていい」

「はあ……」

 立つ瀬がない趣で池谷は答えた。

 出鼻をくじいてしまい心苦しいが、この話題を続けるつもりはない。軽く息を吐き、佐川は口を閉ざした。

「また最年少になっちまったな……」

 そうつぶやいた池谷は二十八歳だ。わずか一歳の差だが、後輩が配属されたときに一番喜んでいたのは、この池谷なのだ。

 そんな池谷にかけてやる言葉が見つからず、佐川はただ、車外の景色を見ていた。

 進行方向の右は、田んぼの向こうに松林がある。その先に広がっているはずの太平洋は、垣間見ることさえできない。左にも田んぼがあり、その先には山並みとの間にJR常磐線がこの国道と並行していた。まだみなみなかのごう駅の手前である。目的地は遠い。

 待ち人はこの炎天下にいるのだ。それを思えば速度をもっと上げてもらいたいのだが、どちらの車線も交通量は多く、信号機を操作したとしても、カーチェイス張りの走行は無理だろう。

 常磐自動車道を使えば時間短縮に繫がるが、玉突き事故の発生により、下り線は神津山南インターチェンジと神津山北インターチェンジとの間は通行止めとなっていた。一般道であれば県道のほうが空いてはいるが、路程は蛇行や右左折が多く、距離も長いため、到着時間がそれなりにかかってしまう。この国道を使うのがもっとも無難な選択だった。

 恵美と蒼依が小津港駅の西――田んぼを貫く農道にいる、という連絡が神宮司邸の固定電話に入ったのは、小野田と三上、佐川、池谷ら四人が分註所の管制室で二号車のドライブレコーダーを解析している最中だった。それを真紀が本宅からスマートフォンで通報してきたのだが、神宮司邸への電話は、一方的に要件だけを伝えるとすぐに切れてしまったらしい。

 無論、それより先に真紀には二号車が襲撃された事実が伝えられていた。真紀からの電話に出たのは佐川だったが、真紀は自分の娘が幼生によってさらわれたにもかかわらず気丈に対応していた。

 真紀からの報告を頼りに発信元の電話番号を照会すると、榎本宏武という人物のスマートフォンであることが判明した。特機隊がマークしていたフリージャーナリストだ。GPSをオフにしているのは、マークした当時からわかっていたが、今回もやはり、電話をかけた位置がどこなのかは突き止められなかった。しかし間違いなく、ドライブレコーダーの映像に映っていた男がその榎本だった。恵美と蒼依が榎本の車によって連れ去られた、と判明した直後の知らせだったため、管制室の一同は啞然としたのだった。

 榎本が特機隊や輝世会を嗅ぎ回っているのは、小野田以下第六小隊の全員がすでに把握していた。特機隊においては第六小隊だけでなく、本部やそのほかの小隊も探りを入れられていたのだ。神出鬼没であり、なかなか尻尾をつかめなかったが、榎本の行動を総合的に考察するに、特機隊に敵意を抱いているというよりは、なんらかの取り引きを望んでいる可能性がある。恵美と蒼依が榎本からのメッセージを持っている、ということが容易に想像できるわけだ。これは小野田を始め、佐川やほかの者の共通した意見だった。

 ――双方とも慎重なんだろうな。

 車外の景色を眺めながら、佐川は思った。

 第六小隊へ直接に電話でコンタクトを取るのは一般人には不可能である。しかし榎本は、神宮司家を介する手段を用いた。取り引きがあるのならその手段を最初から使えばよさそうだが、固定電話にしろスマートフォンにしろ利用者からすれば目に見えないシステムであるため、想定外の落とし穴がある可能性を警戒したのかもしれない。

 しかし、慎重なのはこちらも同じなのだ。特に隊長たる小野田はそうである、と佐川には窺えた。解放されたとされる二人を迎えに行くためだけに、人員が減った現状であるにもかかわらず二人の隊員を遣わしたのだから。

 南中之郷駅の東に差しかかった。駅自体は見えないが、何度か足を運んだ佐川は、そこが田舎然としたみすぼらしい駅であるのを知っている。

 車の流れがわずかに速くなった。

「到着まであと二十分くらい、だと思います」

 進行方向に顔を向けたまま、池谷が言った。

「ああ」

 答えて佐川は、目を閉じた。

 恵美と蒼依が無事に解放されているとしても、神宮司家の令嬢がいずこへ連れ去られたのかは不明のままだ。早期に事件の真相を解明し、彼女も救い出さなければならない。

 半年ぶりの幼生出現だが、これは発端にすぎない――と佐川には思えてならなかった。


 即席の日傘の下で待つこと約四十分――ようやく蒼依と恵美は三号車に拾われた。

 運転席の後ろに座った恵美は、さっそく、榎本からの要求を佐川と池谷に伝えた。そしてその内容は、池谷によって管制室の小野田へと報告された。

 常磐自動車道上り線は順調のため、帰路はそれを使った。二人を拾った三号車は、それから三十分以内に神宮邸の正門を通過した。

 本宅の車寄せで待っていたのは、真紀と藤堂、神宮司家の三人の家政婦では最年長のかわようだった。

 助手席の後ろから蒼依が降りると、運転席の後ろから恵美が降りようとした。

「いいのよ、このまま行って。早く手当てを受けなさい」

 真紀はそう訴えて恵美を制した。

「しかし――」

 言いかけた恵美を、真紀はやんわりと押し戻した。

「まずはちゃんと動けるようにしなさい。そして、また現場でしっかり働いて。……蒼依ちゃんを守ってくれて、ありがとう」

 そして真紀は、そのドアを閉じた。

 三号車が別宅のほうへ走り出すと、真紀は蒼依に正面を向けた。

「大変だったわね」

「そんな」蒼依は首を横に振った。「あたしはなんともありません。でも、瑠奈と矢作さんが……」

 抑えきれずに声を詰まらせてしまった。

「矢作さんの件は、不幸としか言えない。でも、瑠奈は助けることができるかもしれないのよ。諦めるのはまだ早いわ」

 どうにか涙をこらえ、蒼依は頷いた。そして問う。

「榎本さんから、たいくんに瑠奈を捜してもらってくれ、っていう話はありませんでしたか?」

「あったわ」真紀は答えて、表情を曇らせた。「すぐに泰輝の部屋へ行って、瑠奈がどこにいるのかを尋ねたの。でも泰輝は、何も感じない、って」

 愕然とするしかなかった。ややもするとへたり込んでしまいそうだ。

「蒼依お嬢様、お荷物があります」

 藤堂がそう言うと、蒼依に近づいた洋子が、両手でまとめて持っていた二つのものを、そっと差し出した。

「帽子とバッグです」

 そう告げた洋子から、蒼依はそれを受け取った。確かに自分のつば広ハットとショルダーバッグだ。

 ――今日は楽しんでくるはずだったのに。

 自分の両手にあるそれらを見下ろし、蒼依は涙をこらえた。そして、真紀に顔を向ける。

「あたしも諦めません」

 密かなもくろみがあった。特機隊がFA0833という区域に入れないのなら、ほかに手立てはないだろう。無論、それを表白するわけにはいかない。

 そんな蒼依を、真紀は憂いの表情で見つめ返した。複雑な思いがあるようだが、それでも真紀は、頷いてくれた。

「決して無謀なまねだけはしないでね」

 やはりそれを危惧しているのだ。蒼依の一言は軽はずみだったに違いない。

「はい」蒼依は答えた。「そのうち第六小隊から声がかかるはずなので、自分の部屋で待機していますね」

 事情聴取は恵美から始まる、という管制室からの連絡は、帰路の三号車の中で確認していた。蒼依は恵美が意識を失っている間の様子を証言するだけでよい、とのことであり、それまでは休憩を兼ねての待機時間だった。管制室から声がかかるまでは冷たい飲み物でも飲みながら本宅で休むとよい、との真紀から誘われたが、蒼依はそれを遠慮した。

 真紀らに会釈し、蒼依はつば広ハットとショルダーバッグを持って第一別宅へと向かった。

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