第2話 取引 ③

 蒼依も恵美も榎本も、コンクリートの床に座ったまま動かなかった。

「わたしの一存では無理ね」

 蒼依に肩を支えられて背中を鉄柱に押しつける恵美が、そう断言した。

「何度も言うようだが、こっちには特機隊の情報があるんだぞ」

 眉を寄せて榎本は反駁した。

「それがはったりじゃない証拠を、示してください」

 蒼依は割って入った。

「そうね」恵美が追従する。「そちらの手の内にある駒を見せてもらいたいわ」

「時間稼ぎかよ。おれのほうが不利になってしまう」

「時間を稼いだところで、わたしには仲間に連絡する手段がない」

「あんたがGPS発信機を隠し持っていない、とは限らない」

「でもね」恵美は言った。「そちらのネタをあからさまにすれば、わたしだって、あなたを疑うことは難しくなる」

「そりゃそうだな」

 苦笑して肩をすくめた榎本を、蒼依は睨んだ。

「ジャーナリストって、みんなこうなんですか?」

「こう……って?」

 自分が有利である、と誇示しているのか、榎本は表情を崩さなかった。

「ふてぶてしいところです」

 蒼依がそう答えると、榎本は片手で頭をかいた。

「まいったね」そして表情を改める。「とにかく、おれの頭に入っているだけでも話しておこう」

 蒼依と恵美は沈黙した。

 聞き逃すわけにはいかない。場合によっては、特機隊がこの男との取り引きに応じなければならなくなるのだ。

「空閑蒼依さん」榎本が蒼依を見た。「君の祖父である空閑孝たかよしは、二十七年前、とある信仰を興した」

 恵美は平然としているが、蒼依は動揺を隠しきれなかった。特機隊隊員や空閑家、神宮司家など、一部の人間だけが知ることなのだ。少なくとも、話の出だしは事実である。

 蒼依は榎本の話に耳を傾けた。

「表向きには天狗……づなごんげんを祀る信仰だが、実際には邪神を崇拝する邪教集団であり、邪神を崇拝するだけではなく、社会の転覆をもくろんでいた。すなわちそれが、無貌教だ。そして空閑孝義はたかさんの麓に高三土神社を建立し、その後、病死した。しかし無貌教は終わらなかった。君の伯父……空閑てるが、孝義の意志を受け継いだんだ。その輝男は、君の伯母になるはずだったやまなおに何やら特異な資質を見いだし、自分の子を孕ませた。だが邪教崇拝の恐ろしさを知った山野辺直子は、結婚の直前になって、空閑輝男から逃げた。そして山野辺直子が産んだのが、君の従兄である山野辺士ろうだ。やがて空閑孝義も空閑幹夫も山野辺直子もこの世を去り、山野辺士郎が無貌教の指導者となった」

 これも事実だ。蒼依は二の句が継げなかった。

「空閑幹夫の弟である空閑いくと、行人の妻のさき……つまり蒼依さんの両親は、無貌教がテロまがいの凶行をなす可能性がある、と知っていた。そこで知人の神宮司せいいち……警察庁勤務の警察官僚である彼に、援助を申し入れた。その神宮司清一の奮励によって創設されたのが、警察庁直轄の特殊部隊、特殊機動捜査隊……すなわち、特機隊だ」

 この男から目を逸らしたかったが、硬直のあまり、それさえできない。榎本の口が綴る暗い歴史を、蒼依はただ聞くしかなかった。

「しかし、特機隊が創設される以前に、いくつかの事件があった。空閑行人は自分の家系と決別すべく、神津山市下君畑の実家を出て市内のアパートに移ったが、しばらくして、空閑幹夫が交通事故で命を落とした。その後、蒼依さんの兄である空閑隼人、そして蒼依さんが生まれたが、確か蒼依さんが幼稚園児の頃だったな……君の母、空閑咲子は心臓発作で他界した。しかし、おれの友人……これらの情報を集めた男は、空閑幹夫の死と空閑咲子の死には不審な点がある、と言っていた」

「ちょっといいかしら?」恵美が口を挟んだ。「あなたのお友達の名前は、秘匿なの?」

恵美の問いを受けた榎本は、寸刻、考えるような表情を見せたが、「言っても問題はないよ」と前置きしたうえで、その男の名前を「立花清文」と打ち明けた。

「その立花の推測だが」榎本は続けた。「空閑幹夫と空閑咲子、二人が死亡した期日は離れており、またそれぞれの立ち位置は異なっている。立花は、それぞれの仲間か支援者がかかわっているんじゃないか、と言っていた。つまり空閑幹夫の死には空閑咲子の側、空閑咲子の死には空閑幹夫の側が関与していた可能性があるということだ」

 推測という話だが、それこそ公にはできない案件なのだ。蒼依は思わず固唾を吞んだ。

「今のはあくまでも立花の推測だ。こんなのはいくら話しても、情報を持っているという証しにはならないが、付け加えておくと、今から五年前に神宮司清一が交通事故で他界しているが、これも不審死である、と立花は見ている」

 そこで言葉を切った榎本は、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。

「話を戻そう」榎本は言った。「神津山市で起きている諸々の不穏な出来事……失踪事件や妖怪目撃例などは、テロ組織や臓器密売グループが絡んでいる、との噂が未だにある。日本のどの街でも毎月のように失踪事件があり、神津山市では震災以降、その数が極端に増えている……そんな都市伝説は、特機隊にとっても無貌教にとっても、事実を隠蔽するには好都合なアイテムだった。どちら側も事実を公表されると困るわけだ。人々が神隠しに遭うのは、無貌教に拉致されたか、化け物どもの餌食になったか、特機隊によって強制収容されたかだ。神津山の都市伝説は事実だった、っていうことだよ。SNSでもリアルでも、見たものを拡散させようとすれば、特機隊によってそれを阻止される」

 認めたくはないが、それも事実だ。

「特機隊は東京に本部があり、全国規模で任務に当たっているが」榎本は続けた。「神津山市内……というより、神宮司邸にも支部が置かれている。神津山の支部の構成メンバーは、四年前の無貌教制圧作戦の頃には二十人前後だったらしいが、今では十人以下に縮小されている。特機隊の存在がクローズアップされたのは、神津山市で起きたテロ事件がきっかけだが、それは単なるテロ事件じゃなかった。四年前の春に、神津山市の山中に潜伏していた犯罪組織が特機隊によって一斉検挙される、という事件があった。しかしそれは、特機隊による無貌教強襲作戦であり、無謀教信者の数名が、特機隊によって身柄を確保された。そしてそれと前後して、蒼依さんや空閑隼人……二人の知人の何人かが失踪している。この中には空閑隼人本人と空閑行人も含まれている。失踪がはやっていたとはいえ、偶然とは言えない状況だった。おそらくは事件に巻き込まれたんだろう……憶測だからこれ以上は言えないが、ともかくその後、蒼依さんはPTSDを発症し、神宮司清一の妻、全洋物産株式会社の会長である真紀さんの意向によって神宮司家に身を寄せた。それでも神津山大学へと進学したうえでPTSDを克服したんだ。友人である神宮司瑠奈さんも神津山大学へと進学したが、彼女のほうはつくばキャンパスの医学部だ。そして現在に至るわけだ。しかし……」

 榎本はまたしても言葉を切った。そして一呼吸して、口を開く。

「無貌教はまだ健在だ。一時は神津山市から撤退したようだが、最近になって、また神津山市にその一部が入り込んだ」

 それは蒼依の知らない情報だった。思わず「本当なんですか?」と恵美に尋ねてしまう。

「わたしも初耳よ」

 榎本に視線を定めたまま、恵美は答えた。

「なんだ、知らなかったのか」榎本は呆れたように首を横に振った。「それも立花が仕入れた情報だが、特機隊の捜査力は一介のフリージャーナリスト以下だったわけだ。損した気分だな。サービスのしすぎだった」

「お友達はFA0833に向かった。それは、無貌教の実態を探るためね?」

 恵美の問いに榎本は頷いた。

「ああ、そうだ。そして連絡が取れなくなった」

「つまり」恵美は榎本から目を離さない。「無貌教はそのエリア内にいる」

「立花はそう睨んでいた。そして、おれに託した。自分自身に何かあったら、これまでの取材で得た情報を整理して、形にしてくれとな。だがおれは、友人を平気で見捨てるような低俗野郎にはなりたくなかった。託されたことをなすより、友人を……立花を救いたいんだ」

 無貌教信者が潜んでいるのなら、さらわれた瑠奈がそこにとらわれている、という可能性もあるだろう。蒼依は何よりもそれのほうが気になった。

「お友達が助かったら助かったで」恵美は榎本を見たままわずかに首を傾げた。「そのお友達は集めた情報をなんらかの形で公表するんでしょう?」

「特機隊がFA0833の位置を教えてくれたら、おれがそうはさせないよ。取り引きなんだからな」

「でも、さっきも言ったとおり、わたしの一存では教えることはできない。少なくとも本部の判断が必要なの」

「仮にだが、特機隊本部が判断するのにどれくらいの時間がかかるんだ? 人の命がかかっているんだぞ」言って榎本は、顔をしかめた。「しょせんは特機隊だな。民間人一人の命なんて、省みないか」

「待ってください」

 蒼依が声を上げると、榎本が訝しげな視線をよこした。恵美は横目で蒼依を一瞥する。

「そこに無貌教信者がいるのなら、特機隊が出動するわけじゃないですか」それは恵美に向けた言葉でもあった。「ならば、榎本さんが出向かなくても、特機隊が事件を解決してくれるはず。しかも、集めた情報を開示する、という担保があるんだから、立花さんは無事に保護されたとして、特機隊は彼に処置を施せない」

「蒼依さんはどっちの味方なの?」

 にこりともせず、恵美は横顔でこぼした。

「裏切ったわけじゃありません。そうでもしないと特機隊の情報が拡散されてしまうんですよ」

「さっきも言ったけど、特機隊はそのエリアには入れないのよ」

「でも、無貌教がそこにいるかもしれないんですよ。それならば入れるんじゃないんですか? それに、瑠奈がそこにとらわれているかもしれないし」

 気になるのは瑠奈の安否だ。だからこそ、蒼依も特機隊には早急に動いてもらいたいのだ。

「それでも特機隊は入れない」

 断言された。蒼依は次の言葉を失う。

「どっちにしても、特機隊に出動してもらうつもりは最初からなかった。情報開示を決行する、とおれがいくら脅しても、特機隊という組織は、立花を保護すればその立花を処置するに違いないからな」

 榎本のその言葉に対し、恵美はわずかに肩をすくめた。

「仮にあなたのお友達を特機隊が保護したとして、そのお友達を処置するかどうかは、わたしが決めることではない。それ以前に、特機隊はそのエリアに入れないのだから、特機隊があなたのお友達を保護することもないでしょうね」

「一応、訊いておくが、もし、立花が自力でそこを抜け出して、そして特機隊に保護されたら……どうなる?」

「さあ、わたしにはわからない。榎本さん側に担保があるのを危惧して、処置はされない、ということもありうるかもね」

「わかった」榎本は頷いた。「そろそろ話を締めくくろう」

「第六小隊隊長から本部に報告してもらい、結果を待つ。それ以外に手立てはないわ」

 それが特機隊という組織なのだ。蒼依は改めて、その冷徹さを思い知った。

 口を閉ざした榎本が、廃屋の暗がりを見つめた。

 セミの鳴き声が続いていた。

 一分以上は経過しただろうか。

 榎本が恵美に視線を向けた。

「いいだろう。さっき言った定刻……それの十分前まで待つ。今日の午後八時五十分までにおれのスマートフォンに電話を入れてくれ。定刻を一秒でも過ぎたり期待を裏切る内容だったら、集めた情報をすぐに開示する」そして榎本は蒼依を見た。「そこに行くことができたらの話だが、おれは立花だけではなく、瑠奈さんも救うつもりだ」

 取ってつけたようにも聞こえるが、今の蒼依はその言葉を信じたかった。

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