第2話 取引 ②
山の麓の寂れた集落に入ったコンパクトカーは、荒れた細い舗装路を進んだ。これまでと打って変わり、速度は控えられている。周囲に人の気配はない。
前方の左に工場のような外観の建造物が見えた。フェンスに囲まれたその敷地は、至る箇所が雑草に覆われている。
道に面した門は開かれたままだ。男はハンドルを切ってコンパクトカーをコンクリート敷きのその敷地へと乗り入れた。
幼生に襲われた現場から三十分以上は走っただろうか。腕時計を見ると午前八時四十七分だった。
工場のような建造物の巨大な出入り口がこちら側にあった。乗用車が十台以上は入る広さがあるが、機械などの設備は何もない。何本かの鉄骨の柱が立っているだけだ。
コンパクトカーはさらに速度を落とし、人の気配のない建造物へと進入した。そしてすぐに停止し、エンジンが切られた。
蒼依は座席に座ったままシートベルトを外さず、男に「ここは?」と尋ねた。
「製材所だったところ……らしい」
「来たことがあるんですか?」
「下見で一度だけね」
「下見……」
意味がわからず、蒼依は首をかしげた。
「そんなことより、ここで降りるよ」男は自分のシートベルトを外した。「手を貸してくれないか」
要求を受け、蒼依は返事をせずにシートベルトを外し、車外に出た。同時に男も運転席から出る。ドアを閉じる二つの音が、薄暗い空間にこだました。
セミの鳴き声が遠くに聞こえた。草のにおいとすえたにおいがわずかにあった。日向ほどではないが、蒸し暑い。
男は助手のドアを開け、恵美のシートベルトを外した。そしてぐったりとした彼女を両手で横抱きにした。
「ドアを閉じてくれ」
その命令口調に憤慨した蒼依は、今回も返事をせず、しぶしぶと助手席のドアを閉じた。
男は一本の鉄柱に近寄ると、恵美をコンクリートの床に下ろし、彼女の背中を鉄柱にもたれさせた。
「この人が倒れないよう、支えてやってくれないか?」
「言われなくてもそうします」
黙っているのも歯がゆいだけであり、蒼依はついに言葉を放った。そして、土やほこりで汚れた床に腰を下ろし、恵美の肩を支える。
恵美から手を離した男は、二メートルほど距離を置いて、二人と向かい合わせにあぐらをかいた。
コンパクトカーを見ると、目立つほどではないものの、バンパーがへこんでいた。幼生を撥ね飛ばした痕跡であるらしい。
「こういう場合、あたしのほうから名乗るんでしょうか?」
男の自己紹介を促したつもりだった。
「君のことは知っているよ。空閑蒼依さん……だろう?」
不敵な笑みを浮かべて、男は蒼依を見た。
「あたしのことまで知っている」
蒼依は口を引きつらせた。
「自己紹介はしたいんだが」男は言った。「おれが話す相手はそちらの特機隊の人なんだ。警察手帳には尾崎恵美巡査部長とあったな。彼女が目を覚ましたら、ちゃんと名乗るよ」
「わたしは起きているわ」
蒼依の横で恵美の声がした。見れば、ぐったりとしているものの、恵美は目を開けて男を睨んでた。
「尾崎さん、瑠奈がさらわれたんです。さらったのは、たぶん幼生だと思います」
まずはそれを伝えた。
「ええ」男に顔を向けたまま、恵美は横目で蒼依を見た。「気を失う前に、それを知ったわ。確かにあれは、幼生のようね。……しかも矢作さんが殺されてしまった」
そして恵美は男に視線を戻した。
男は肩をすくめる。
「意識を失う直前まで状況を見定めていたとは、さすがは特機隊隊員だ。……じゃあ、自己紹介しよう」
「それには及ばない」恵美は言った。「フリージャーナリストのエモトヒロム。年齢は三十二歳」
「張り込んでいたつもりなんだが、こっちは完璧に把握されていた、っていうことか」
男は苦笑しつつ、シャツの胸ポケットからカードのようなものを取り出した。それを右手でこちらに差し出す。恵美に渡すつもりなのだろうが、体を動かせない様子の恵美に代わって蒼依が受け取った。名刺だった。
榎本宏武――とその名刺にあった。住所、固定電話の電話番号、スマートフォンの電話番号などが記されている。やはり住所は東京だった。
「特機隊を知っていて名刺を渡すなんて、どういうつもりなんです?」
「隠すつもりもないが、隠しても意味がないということさ。飛ばし携帯も考えたんだが、それだって意味がないし」
諭されても、まだ得心がいかなかった。
名刺を恵美に見せたうえで、蒼依は彼女に問う。
「これ、尾崎さんのポケットに入れておきますか?」
「ええ、お願い」
答えを受けて、蒼依は榎本の名刺を恵美のスーツの内ポケットに差し入れた。加えて、開いたままのスーツのフロントを見て問う。
「スーツのボタン、締めますか?」
「暑いし、このままでいいわ」恵美は蒼依に顔を向けてほほえんだ。「そんなに気を遣わなくていいのよ」
「でもけがをしているかもしれないんですよ。動かないほうがいいです。そうだ……」優先すべきことを思い出し、蒼依は口にする。「手当てをしなくちゃ。痛いところは?」
「右肩と左足首を強く打ちつけたけど、骨は折れていないみたい。打ち身程度だから急がなくても大丈夫よ」
平然たる面持ちで恵美はそう告げた。そして彼女は、榎本に視線を移す。
「ところで、わたしの所持品を途中で放置したわね?」
「スマホはもとより、警察手帳やサングラスにも細工がしていないとは限らないんでね。少なくとも話が済むまでは、あんたの仲間にこちらの居場所を知らせたくない……というか、それらを途中で置いてきたことまで知っていたのか?」
「そのときは気を失ったままだったけど、身につけていないのは、今、気づいたわ。銃は戦闘中に手放してしまったから、それ以外のものは、あなたがどうにかしたとしか考えられない。そうまでしてこうやってわたしと差し向かうということは……重要な話がある、そうよね?」
「そうだ」恵美に視線を定めたまま、榎本は答えた。「特機隊隊員なら誰でもよかったんだが、大勢が相手だとこちらが押されるだけだからな。……というか、あんたらの車があの化け物どもに襲われたのは、おれにとっては千載一遇のチャンスだったよ」
「チャンス?」
ろくでもない内容と察した蒼依は、尋ねつつ眉を寄せた。
「こうやって特機隊隊員と話す機会を得たんだからな。それに、あんな化け物が本当にいる、とわかったんだ。あの化け物が実在するなら、こっちが手にしている情報はでたらめではない、ということになる」
「あんな化け物が、だなんて……本当は手引きしていたんじゃないんですか?」
「手引きとはまいったね。偶然がな重なったんだよ」
笑いをこらえているような榎本に、蒼依は憤りを抑えられなかった。
「何がおかしいんです? 人が一人、殺されたんですよ。それに瑠奈がさらわれた。それなのにチャンスだなんて、あなたは人道にもとる人なんですね」
「人道にもとるのは、むしろ特機隊のほうなんじゃないかな。化け物どもが実在するのを見て確信したよ。あんなのが実在する、なんてSNSで拡散されたら大変だもんな。その現場にいたというだけで、記憶を消されたり、処置が失敗したら施設に入れられたり。まさしく口封じだ」
「それは治安を維持するため――」
「そのために人を犠牲にするわけだ」榎本は蒼依の言葉にかぶせた。「そんな組織の一員が殺されて、一般市民が同情するのか?」
何も返せず、蒼依は唇を嚙み締めた。
榎本は勝者のごとくほくそ笑んでいる。
「取り引き?」
沈黙を破ったのは恵美だった。榎本に質問したらしい。
「察しがいいね」
笑みを浮かべたまま、榎本は答えた。
「ジャーナリストなりに、こちらの情報を把握しているわけね」
動揺さえ見せずに恵美は口にした。
「おれが集めた情報じゃないがね。だが、相当な量の情報が一瞬にして、インターネット上に拡散されたり世界中の報道機関にメールとして送信される……その準備は整っているんだ。今日の午後九時までにおれから、特機隊が要件を吞んでくれた、との連絡が入らなければ、おれの仲間がそれを実行する」
言って榎本は失笑した。
「はったりよ」
そう返し、蒼依は口を引きつらせた。
「はったりかもしれないけど……」恵美が榎本から目を離さずに言った。「榎本さんの要求がなんなのかを、先に聞きたいわ」
「いいだろう」
榎本は頷き、背筋を伸ばした。
――これは瑠奈を救うことに関係があるのだろうか。
――こんな場所でこんなことをしている場合なのだろうか。
自分の焦燥に気づき、蒼依は取り引きとやらが早々に済むことを、ただ願った。
「エフ、エー、ゼロ、ハチ、サン、サン」
榎本の言葉を耳にして、蒼依は「
「フォビドゥンエリア……禁断の区域。特機隊と特機隊の関連機関とにおけるその認証番号が0833、のエリア」
恵美は説くが、無論、蒼依には知る由もない。
「その位置を教えてほしい。おれの要求はそれだけだ」
「理由は? それは言えない?」
恵美は追及した。
数秒の沈黙のあと、榎本は口を開いた。
「友人がそこにいるかもしれないんだ。彼……その男を、探しに行く」
榎本の答えを聞いて、恵美は眉を寄せた。
「特機隊の情報を集めたというのは、そのお友達かしら?」
「さすがだな。そういうことさ」
「なるほど。特機隊の情報を集めるだけあって、あなたのお友達はそんな場所にまで足を踏み入れた、というわけね。で、そのまま帰ってこない。あなたのお友達はうまく特機隊の目から逃れていたようで、わたしもわたしの仲間たちも、その誰かさんのことは把握していないわ。そんなやり手なのに、何か想定外の事態に遭ったらしい」
「その区域って、特機隊がマークしている土地なんじゃないのか? 無貌教の巣窟なんだろう? そう遠くない場所……この神津山市のどこかに、あるんだろう?」
尋ねる口調に力が入っていた。
「今のところ、そこが無貌教の巣窟だなんていう情報は入っていないわ」
「なら、禁断の区域、ってどういう意味なんだよ?」
いらだたしげに榎本は問いただした。
「特機隊が立ち入ることのできない土地、という意味よ。それだけのこと」
「どういうわけで特機隊がそこに入れないのかわからんが……とにかく、特機隊隊員でないおれは、立ち入ることができるわけだな?」
「ゲートは常に閉ざされていて、しかも、関係者以外の立ち入りを禁ずる、という表示があるわ。だから、榎本さんも入ってはいけない、という意味ね。……強引に入れるかどうかはわからないけど、その土地は有刺鉄線つきのフェンスで囲まれている」
「その関係者って誰なんだ?」
「特機隊や特機隊の関連機関、それ以外のどなたたちか」
「答えになっていないじゃないか」
「あなたの要求にはなかったことだもの」
友人が集めたという情報の中にもその答えはないのね――と付け加えたかったが、蒼依はそれをこらえた。
「まあ、いいさ」ふてくされたように榎本は言った。「とにかくその位置を教えてくれるだけでいいんだ。頼むよ」
榎本は両膝の上で左右のこぶしを振るわせつつ、頭を下げた。まさに懇願だった。
息を吞んだ蒼依も、恵美の答えを待っていた。
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