第1話 惨劇は再び ⑦

 腹部に巻きついた化け物の強烈な体臭――糞尿のにおいにもめげず、意識を失わないよう、瑠奈は気勢を維持した。

 どれほどの高さなのか正確な距離は知る由もないが、見下ろせば建物も林も田畑もミニチュアのようだった。

 この化け物の姿は、まるでミミズだった。瑠奈の頭上よりかなり上のほうに位置するその頭部は確認できないが、濃灰色の太くて長い体はぬめぬめとしており、少なくとも尾の先端を見る限りは、ミミズである。翼など有していないそんな化け物が、悠々と空を飛んでいた。

「門を司る神の寵愛を、願いたまえ」

 耳元で声がした。男の声だ。しかし、この化け物の言葉とは思えない。聞き覚えのある声だった。

 瑠奈は見上げた。化け物の頭部の先に、虹色の円――否、虹色の球体があった。この化け物はその球体にぐんぐん近づいていく。

 球体に接近した化け物が、瑠奈をとらえたまま、その周囲を旋回し始めた。

 酷暑であるはずなのに、瑠奈はとたんに冷気を感じた。

 旋回の中心にある球体は、虹色のマーブル模様に覆われた巨大なシャボン玉のようでもあり、事実、表面のマーブル模様は本物のシャボン玉のごとくゆっくりと動いていた。その球体の内側には深い闇が窺える。

 ――門だ。

 瑠奈が認めたそれは、異次元空間とこちらの空間との往来に使用する球体だ。球形ではあるが、空間に穿たれた穴である。

 この門の先――すなわち異次元空間へと自分が連れ込まれるのを、瑠奈は悟った。

 門を通過するとそこは別次元の空間だ。宇宙空間と同様に無重力であり、やはり空気はなく、温度はマイナス二百七十度である。地球上の生物なら立ち入ったとたんに命を奪われてしまうのは当然だが、門を使える者はそちらの空間に滞在することができ、意識するだけで移動することができる。瑠奈もその「門を使える者」であり、門を司る神「門の鍵にて守護者」から寵愛を賜ることによって、わずかな時間ではあるが、そちらの空間で生存することができ、自在な移動が可能となるのだ。また、こちらの空間で門の近くにいれば冷気を浴びることになるが、門を司る神に守られている状態であるならば、むしろそちらの空間にいるときのほうが凍えなくて済む。

「死にたいのか? 早く願いたまえ」

 またしても声がした。

 あらがうすべはない。生き延びるためには、その声に従うほかに手立てはないのだ。

「門を司る神の寵愛を!」

 瑠奈は声を上げた。

 その言葉を待っていたかのように、化け物は旋回を中断し、門へと一直線に向かった。

 瑠奈は目を大きく見開き、歯を食い縛った。

 化け物は瑠奈を伴って虹色のマーブル模様を突き抜けた。


 コンパクトカーは上手縄工業団地内の幹線道路を南へと向かっていたが、神津山南インターチェンジに接続する交差点のかなり手前で右折した。道はやがて工業団地から外れ、舗装されてはいるものの乗用車がどうにかすれ違える程度の幅となった。もっとも、歩行者も対向車も皆無であり、コンパクトカーは減速という挙動をほとんど見せなかった。

 田畑と雑木林のみの風景になってしばらくすると、コンパクトカーはようやく速度を落とし、道の左側の空き地へと乗り入れた。

 大まかでも現在地を把握したかったが、蒼依の知らない風景であり、目印になるようなものさえなかった。スマートフォンの入ったショルダーバッグは二号車の中だ。おまけにこのコンパクトカーには、カーナビゲーションが装備されていなかった。

 背の高い雑草に囲まれた空き地の片隅で、コンパクトカーのエンジンが切られた。

 車外に目を走らせた蒼依は、化け物の姿ないことを確認した。瑠奈はさらわれてしまい、矢作に至っては無残な死を迎えたのだ。落ち着けるはずなどないが、事態の沈静化は認められる。蒼依は運転席の男に目を向けた。

「あの、あなたは――」

 問いかけた蒼依は、言葉を失った。

 シートベルトを締めていなかった男がそのまま助手席に身を乗り出し、恵美のスーツジャケットのボタンを外し始めたのだ。

「何をするんですか!」

 声を荒らげた蒼依は、男の肩に手を伸ばそうとするが、シートベルトによってその動きを阻害されてしまった。焦燥に煽られながらもなんとかベルトのロックを外し、男の左肩を両手でつかんだ。

「やめなさいってば!」

 男の肩を揺さぶりつつ助手席を覗くと、背もたれに寄りかかったまま意識を失っている恵美は、ジャケットのフロントを全開にされていた。さらによく見れば、左脇のホルスターが空になっている。拳銃はこの男に奪われたのではなく戦闘中に手放してしまった、というのが蒼依の見立てだ。

「嫌らしいことはしていないよ」蒼依に肩をつかまれたまま、男が振り向いた。「これらをどうにかしないと、おれがやばいんでね」

 男は右手に恵美のものらしきスマートフォンを持っていた。さらに彼の左手には、警察手帳とセンサーグラス、インカムのマイクがある。

「君のスマホも出してほしい」

 無分別なもの言いだった。

「さっきの車の中です」

 ありのままを伝えた。

「まあ、いいか」信じたふうでもなく、男は頷いた。「とにかくおれは、あんたらに危害を加えるつもりはない」

 そう告げた男は、右手のスマートフォンを警察手帳などと併せて左手に持つと、空いた右手で運転席のドアを開けた。

 改めて見れば、男は三十歳前後だった。整髪してあるが、無精ひげが目立つ。出で立ちは芥子色の半袖シャツにジーンズだ。

 蒼依の両手が男のシャツの表面を滑った。

 男は車外に出ると、ドアを開けたまま歩き出した。そして恵美の所持品であるそれらを、近くの草むらに置いた。

 取り返さねば――と悟り、蒼依は左のリアドアに手をかけた。

「君が車を降りるのは勝手だが、こちらの女性を乗せたまま、すぐに出発するぞ」

 運転席のドアに近づきつつ、男は言った。

 ドアから手を離し、蒼依は男を睨んだ。

「何を企んでいるんですか?」

「あとでちゃんと説明するよ」

 険しい表情で答えた男は、運転席に乗り込んでドアを閉じた。

「この人はけがをしているかもしれないんです」蒼依は訴えた。「早く病院に連れていかなきゃ」

「悪いが病院はあとにしてもらう。とにかくシートベルトをつけてくれ」

 振り向きもせずに告げた男は、まずは恵美にシートベルトを装着させると、続いて自分のシートベルトを締めた。

「どこへ行くっていうんです?」

「この女性の仲間やあの化け物が来ないところだよ」

 返す言葉もなく、蒼依は黙して自分のシートベルトを装着した。

「あとでここの場所をこの隊員やほかの隊員に教えるのはかまわないが……どうせ特機隊はGPSで見つけ出すさ。警察手帳もスマホもサングラスもマイクらしきものも、無事に回収されるだろう」

 言いながら男はエンジンをかけ、コンパクトカーを発進させた。

 細い道へと出たコンパクトカーは、再度、西へと進路を取る。

「追跡されないようにしたんですね」蒼依は口を開いた。「というか、どうしてあなたは特機隊を知っているんです?」

 恵美の言葉によれば、この男は無貌教信者ではないらしい。とはいえ、輝世会の成員とも思えない。いずれにしても、関係者以外が「特機隊」という呼称を口にすること自体が、解せないのだ。

「それもあとで説明するよ」

 そう告げて、男はコンパクトカーを加速させた。

 今は何を訊いても無駄らしい。

 ――あとからいくらでも問いただしてやる。

 蒼依は唇を嚙み締めた。

 瑠奈の顔と矢作の顔が脳裏に浮かんだ。

 蒼依の中の二人は、屈託のない笑顔だった。

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