第1話 惨劇は再び ⑤

 夜陰は想像したより蒸し暑かった。見上げれば星空が広がっており、南の空では満月が煌々と輝いている。神宮司邸の前庭は数カ所に外灯が設置されているが、この月明かりも相まって、夜だからこその荘厳さが浮かんでいた。以前は敷地内の各所において特機隊隊員による二十四時間体制の立哨があったが、今では――特に夜などは、人の気配はない。

 第一別宅の玄関先に立った蒼依は、そんな夜景を堪能する暇もなく、瑠奈を支えて本宅のほうへと歩み出た。

「半分以上は瑠奈が飲んだんだからね」

 優位に立つどころではない。これなら先に酔い潰れた者の勝ちである。

「すごいっしょ」

 千鳥足の瑠奈がそう返した。

「瑠奈がこうなっちゃうとは、ある意味、すごいかもね」

 真紀がこの様を見たらどんな言葉を口にするだろうか。それを聞くのが怖いような楽しみでもあるような、複雑な気分だった。

 本宅の玄関が開いた。内側の明かりが外に漏れるとともに、車寄せの外灯が点灯する。

 二人の人物が玄関から出てきた。どちらもスーツ姿の男のようだ。もっとも、本宅までの距離はあと半分ほどもあり、その二人の顔を判別するのは無理だった。

「おや」と声を漏らしたのは、二人のうち背の高いほうだった。

「いけない……」

 ささやいた瑠奈が蒼依から体を離し、背筋を伸ばした。とはいえ、歩みは止まっている。

 瑠奈に合わせて足を止めた蒼依は、瑠奈は醜態をほかの者に見せたくないのだ――と悟り、ため息を落としてしまう。

「ここで少し休もう」

 瑠奈は言った。歩けばぼろが出るに違いない。

「かまわないよ」

 横目で瑠奈を一瞥した蒼依は、本宅のほうに視線を戻した。

 二人の男がこちらへと歩いてくる。

「瑠奈お嬢様、もうお戻りですか?」

 背の低いほうが声をかけてきた。藤堂だった。

「まだ盛り上がっていると思ったんだが」

 苦笑を添えて告げた背の高いほうは、特機隊第六小隊隊長のてるだった。

「ろうしておのらさんがそっちから来るのれすか? もひかしてもひかして、わたしに会いたいとか? ていうか、お久しぶりれす」

 ぺこりと頭を下げた瑠奈だが、まだろれつが回っていない。

「ああ、久しぶりだね……」小野田は噴き出すのをこらえているらしい。「地下のセキュリティシステムの点検を藤堂さんとしていたんだ。分註所から本宅にかけてね」

「じゃあ、あたしたちの下を通っていったわけですね」

 蒼依の問いに小野田は頷く。

「そうだよ。そういや、第一別宅の地下出入り口のドアをチェックしていたら、君らの大声が聞こえたな」

「れえええっ!」奇声を上げたのは瑠奈だった。「わらし、変なこと言っていませんれしたか?」

「確か、エッチな話をしていたような……」

 小野田は真顔で言うが、蒼依の記憶ではそういった事実はない。

「覚えていない……ろうしよう、蒼依……」

 泣きそうな顔が蒼依に向けられた。

「小野田さん、瑠奈がかわいそうですよ。本当のことを言ってください」

 蒼依が眉を寄せると、小野田は気まずそうに頬をかいた。

「ごめん瑠奈ちゃん。蒼依ちゃんのお察しどおり、冗談だ」

「ぬっ」と目を丸くした瑠奈が、次の瞬間には憤怒を表していた。

 ふと思い出し、蒼依は小野田に顔を向けた。

「小野田さん、帽子、ありがとうございました」

「ああ、なんのなんの」

 小野田は笑顔で答えた。

 そんな二人を瑠奈が交互に見やる。

「なんらの? 蒼依、おのらさんに帽子を贈ってもらったの? 怪しいのら。ラブっていうやつ? いつの間にか二人は――」

「さあ、早く自分の部屋に帰ろう」

 瑠奈が続きを口にする前に蒼依は告げた。そして瑠奈の肩に手を回す。

 見れば、疲れたような表情で小野田がうなだれていた。

「蒼依お嬢様、わたしが瑠奈お嬢様をお連れいたしますよ」

 藤堂は申し出るが、さすがに彼が瑠奈の寝室に入るのは無理に思えた。

「これくらい、大丈夫です」

「なら、家の中までお供します」

 藤堂がそう言ったとき、着信音が鳴った。蒼依が手にしている瑠奈のスマートフォン、ではなかった。

「おれのか」とつぶやいた小野田がスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てた。「尾崎、どうした? ……おれは今、外にいるが」

 小野田はそう告げつつ東のほうに顔を向けた。

 つられて蒼依は振り向いた。

 分註所の玄関が開いた。漏れ出す明かりの中にスマートフォンを耳に当てている一人の姿が見える。どうやらそれが恵美らしい。

「神津山市内で六人の若い男女が行方をくらましたそうです。特機隊が山間部に設置しておいた監視カメラが、失踪直前の彼ら、とおぼしき姿を撮っていました。詳細はまだ不明ですが、われわれが担当すべき事件の可能性があります」

 小野田のスマートフォンから恵美の声が聞こえた。

「わかった。すぐに戻る」

 そう答えた小野田がスマートフォンをスーツの内側に入れると、分註所の玄関に見えていた人影がその玄関の中に消え、ドアが閉じられた。

「慌ただしくなるかもしれないが、君たちは気にしないでいてくれ」小野田は蒼依と瑠奈に向かって言うと、藤堂に顔を向けた。「管制室に連絡をくれるよう、会長に伝えてください。自分は分註所に戻ります」

「わかりました」

 藤堂が頷くと、小野田は分註所へと向かって走り出した。

「行方不明だなんて……」

 小野田を見送りつつ、蒼依は独りごちた。

 神津山市内では、二年ほど前から神隠しや妖怪目撃端が格段に減少していた。特に妖怪目撃譚――すなわち幼生の出現はここ半年はゼロ件だ。だが神隠しとされる原因不明の失踪事件は少なからず続いており、二週間前にも神津山市内の山間部でキャンプをしていた一家四人が車やキャンプ道具を置いたまま行方をくらましている。

「行方不明……幼生?」

 誰に問うとなく言葉にしたのは、瑠奈だった。二つの瞳は正気に戻っている。酔いが覚めてしまったのか最初から酔った振りだったのか、それはかまわないが、今はおちゃらけている場合ではない、ということだ。

「とにかく瑠奈の部屋へ行こう」

 蒼依は瑠奈を促した。

「うん」

 頷いて瑠奈は歩き出すが、やはり足元がおぼつかない。

 蒼依は藤堂とともに瑠奈を支えて歩いた。

 絡みつく蒸し暑さに、なぜか冷たさを覚えてしまう。

 満月が沈黙していた。


 翌日は特にイベントはなかった。蒼依は昼前の小一時間ほどを瑠奈や真紀とともに本宅一階応接室でくつろぎ、昼食を本宅食堂にて三人で取った。午後に二時間ほど自室で勉強するつもりでいた蒼依は、昼食を終えるとその旨を二人に伝えて席を立とうとした。

「そういえば」真紀が口を開いた。「あなたたちが出かけるのって、明日だったわね?」

 腰を浮かしかけた蒼依は、椅子に座り直した。

 蒼依の正面に座る瑠奈が頷く。

「そうだよ。予定どおり」

 三人はコの字の形にテーブルを囲んでいた。真ん中に位置する真紀が、蒼依と瑠奈のそれぞれを見やった。

「明日の外出は、第六小隊が警護につくからね」

「あたしたちを遠巻きに見張る、っていうことですか?」

 蒼依は尋ねた。

「いいえ。第六小隊の車に乗せてもらっての外出、ということよ」

 有無を言わせぬ口ぶりだった。

「えー。自由がないわけ?」

 反駁した瑠奈が口をとがらせた。

 泰輝がこうなった今では、蒼依の外出――特に大学の通学時には特機隊が送迎を担っていた。一方、つくばキャンパスにかよう瑠奈も、同市内の女子学生寮との往復の際に特機隊第一小隊隊員による警護がある。もっとも、瑠奈の場合は私服姿の一人の隊員が距離を置いて警護するタイプであり、よほどの逸脱した行動でもしない限り、彼女には自由が許されているのだ。今回の帰省の路程も警護がなかったほどである。よって蒼依は、この瑠奈の反駁は単なるわがままに思えた。

「ほら、昨日の事件もあることだし、素直に受け入れようよ」

 蒼依が告げると、瑠奈は不服そうにテーブルに視線を落とした。

「蒼依の言うことはもっともだけれど」

「一人暮らしをしているせいか、瑠奈は身勝手になったわね」

 今日の真紀は、いつものように黒髪を後ろで結っているが、たまにしか見せないシックなパンツルックスだった。これから水戸支社に出かけるらしいが、そのための装いなのだろう。しかしそんなよそゆきにもかかわらず、水戸支社で難題でも待っているのか、今の真紀は、食事中には感じられなかった険のある雰囲気を放っていた。

「いつまでも子供じゃないもの」

 言って瑠奈は、真紀を横目で見た。

「確かに成人はしたけれど、まだ学生よ」

 真紀は引かなかった。

「それとこれとは――」

「同じこと」真紀は瑠奈の言葉を遮った。「泰輝が引きこもっている今、あなたたちを守れるのは特機隊だけなのよ。幼生の出現は今のところ確認されていないけれど、少なくとも無貌教はまだ壊滅していない。緊張感を持ってちょうだいね」

 そして沈黙が降りた。

 蒼依は母娘の間に入れなく、当の瑠奈も言葉がないらしい。

 ドアがノックされた。

「よろしいでしょうか?」

 女の声がした。

「どうぞ」

 真紀が答えると、ドアを開けて小太りの家政婦――しろはるが姿を見せた。旧姓がいそかわの彼女は、昨年六月に三十六歳で結婚した。相手は同じ輝世会の成員だ。夫の自宅に入った彼女は、三人の家政婦の中で唯一のかよいの家政婦であり、出退勤は輝世会専門スタッフによる送迎である。

「奥様、泰輝坊ちゃまがご用のようです」

 晴海はそう告げ、身を引いた。

 次いで姿を現したのは、Tシャツに半ズボン姿の泰輝だった。

「おばさん」

 以前の泰輝は真紀を「おばちゃん」と呼んでいた。しかし彼の成長に合わせて、そのように呼ぶことを真紀が諭したのである。

「どうしたの?」

 椅子に着いたまま真紀は問うた。

「ぼく、今からお風呂に入るね」

 答えた泰輝が、蒼依と瑠奈を交互に見た。

 家政婦たちは小児姿の泰輝の入浴を交替で手伝っていたが、中学生ほどの見かけまで成長した彼の全裸にふれるのは、さすがにためらわれたらしい。見かねた真紀が泰輝に一人で入浴するよう告げたのである。初めての一人での入浴時は、誰に教わるでもなく、一人で服を脱ぎ着し、体も自分で洗ったという。もっとも、純血の幼生である泰輝は、入浴せずとも体の汚れを消すことが可能であり、彼にとっての入浴は、あくまでも人として生きるための習慣の一つなのだ。

「そう、十日ぶりね。いいわよ、入りなさい」

 真紀がそう答えると、泰輝は頷いて瑠奈に顔を向けた。

「お母さんも一緒に入る?」

 冗談なのか本気なのか、蒼依には察しがつかないが、少なくとも泰輝は真顔だった。

 うつむいた瑠奈が、目を閉じて「あのね……」と声を漏らした。本気で怒っているらしい。

「瑠奈、聞き流そうよ」

 蒼依はそう諭すが、瑠奈はうつむいたまま「本当にいい加減にしてほしい」と小声で付け加えた。

「蒼依ちゃんも入らないの?」

 今度は蒼依が誘われた。苦笑する以外に対応が選べず、蒼依は真紀に助けを求めるべく、視線で意思表示をした。

「泰輝、一人で入る、という約束でしょう。約束は守りなさい」

 毅然とした態度で真紀は言いきった。

「はーい」と間延びした返事をして、泰輝はきびすを返した。

 恭しく頭を下げた晴海が、静かにドアを閉じる。

「ねえ瑠奈」真紀が瑠奈を見た。「怒ってばかりじゃだめよ。高校生の頃は、ちゃんとやっていたじゃない」

「うん」

 顔を上げずに瑠奈は頷いた。その顔に表れているのは、憤りというよりは悲しさだった。

「瑠奈、大丈夫?」

 声をかけずにはいられなかった。とはいえ答えは期待していない。そろそろ席を立ったほうがよい、と蒼依は感じていた。

「あの子」瑠奈は言った。「もうここで暮らすのも限界なのかもしれない」

「どういうこと?」

 尋ねた蒼依は、続いて真紀の表情を窺った。真紀もまた、沈鬱な様子である。

「自分の本当の両親が漂っているところへ、旅立つ日が近づいている、ということだよ」

 瑠奈はそう説くと、顔を上げて真紀を見た。

「そうかもしれない」

 テーブルを見つめながら、真紀は答えた。

 胸に穴が空いたような、そんな寂寥に打たれた蒼依は、辞去する機会を失っていた。

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