第1話 惨劇は再び ④

 日は西の山並みに沈んだ。しかし空はわずかに明るく、蒸し暑さは日中と大差ない。

 遠くでカナカナゼミが鳴いていた。

 雑木林に囲まれた川岸の砂は荒く、裸足で歩くと不快感があり、六人ともサンダルは脱がなかった。バーベキューのあとの花火も終わり、そろそろ撤収の頃合いだ。

 男も女も三人ずつだった。このままホテルへ直行――などという考えをまことひろしにこっそり打ち明けたが、恋人同士はまだ一組もなく体裁が悪い、と突き返され、たくみは不承不承に二人の意見に従った。しかし考えてみれば、巧と宏は三人の女とは初見であり、確かにその企ては性急にすぎるだろう。

 三人の女のうちで一番派手なが、誠の幼なじみであり、ゆうはその美加の仕事仲間だ。もっとも巧は、控えめな性格だが愛らしい面立ちの優美に惹かれていた。これまでの様子からすると脈はありそうなため、今は焦らないほうがよい、と思えた。

 冷静になれてよかった、と巧は思う。高校生時代の同期である誠や宏とは未だに付き合いがあり、勤め先は違えどこうやって有給休暇を調整する仲なのだ。今回は女たちの定休日に合わせたが、ここまで運べたのだから、功を焦ってすべてを台無しにするのは愚かしいだけである。恋人を作る機会はさておき、友人まで失っては意味がない。

「ここで洗っていこうぜ」

 鉄板を見下ろして、誠が言った。

「ちょっと待って」

 美加だった。

「どうした?」

 誠が首を傾げると、美加が対岸の雑木林を指差した。誠も巧も――ほかの三人も美加の指差すほうに顔を向ける。

「今、気づいたの」と美加は言うが、巧には意味がわからなかった。

「あれは……」

 真奈が声を漏らした。

「カメラか?」

 宏のその言葉で、巧はようやく気づいた。

 対岸のほぼ正面に立っているクヌギの幹に、監視カメラらしき人工物が設置されているのだ。地面からおよそ五メートルの高さだった。それがカメラだとすれば、レンズはこちらを向いていることになる。

「ずっと気づかなかったよ」

 宏はそう繫げた。

「環境汚染とかでさ、鉄板を川で洗うといけないみたいな報道があるじゃん」

 神妙な趣で美加が言った。

「でも、この川で洗ってはだめだ、なんて、そんな注意書きはどこにもないよ」

 そう訴える宏に、巧は意見する。

「撮影されている可能性はあるよな。でもまだ、川を汚してはいない。だったら、やらないほうがいいだろうよ」

「まあ、そうだな」

 宏は首肯した。

「それにしたって、どこの誰がカメラなんて設置したんだ?」

 誠の疑問に真奈が「神津山市とか警察とかじゃないの」と返した。

「花火も片づけたほうがよさそうだな」

 肩をすくめつつ、宏が言った。

 そっと巧に近づいた優美が、顔を寄せた。

「もしかして、花火はこのままにするつもりだったの?」

 とりあえずは小声だった。

「いや……」巧も小声で返す。「宏はその考えだったみたいだけど、おれは片づけるつもりだったよ」

 欺瞞であるが、今後の関係を発展させるためには致し方ない。

「だよねえ」

 信じてくれたらしく、優美は頷いた。

 六人は花火のかすを拾い集めて鉄板に乗せた。その鉄板は巧と宏で持つ。ほかの荷物はあとの四人で手分けして持った。

 河原から車までは五十メートルほどの距離だ。鉄板を運ぶ巧と宏を先頭にして、六人は雑木林の中の小道を歩いた。

「なんだか、最後の最後にしらけちゃったなあ」

 最後尾の誠が、口惜しそうに声を放った。

「楽しかったんだもの、それでいいじゃない」誠の前を歩く真奈が言った。「それに、謎のカメラ……場所的に防犯カメラというよりは監視カメラだと思うけど、そういうのも、都市伝説みたいでいいじゃん」

「都市伝説かあ。そういえば、神津山の都市伝説、っていうのがあったな」

 巧と並んで天板を運ぶ宏が、懐かしそうに言った。

「神津山の都市伝説ねえ」

 二番手の美加が、興味がないのか、つまらなそうにそうこぼした。

「それって、神隠しとか妖怪でしょう? コロナの前にはやっていたよね。妖怪を見た人がSNSで拡散させると、その人のアカウントが凍結されたり、それだけじゃなくて、その人が神隠しに遭ったりとか」

 声を弾ませたのは、三番手の優美だ。

「そう、それだよ」

 いかにもノリがよさそうに、巧は追従した。

「あれ、巧ってそういう話は苦手なんじゃなかったっけ?」

 宏が付け入った。

「そんなことないよ」

 ムキになってしまったが、美加や真奈ばかりか、優美までが噴き出し、巧はそれ以上の言葉を返せなかった。怪談も幽霊も妖怪も苦手なのは、誠と宏には知られている。この期に及んで粋がっても、あとが続かないだけだ。

 前方の視界が開けた。片側一車線の県道と、その手前に路側帯の広がりがあり、その路側帯には二台の車が停めてある。宏のミニバンと誠の軽ワンボックスだ。

 軽ワンボックスに乗るのは誠と美加だ。カップルは一組もないことになっているが、巧はその二人に疑念を抱いていた。もっとも、誠と美加が付き合おうと付き合うまいと、巧には無関係だ。自分と優美との関係に進展があれば、それでよい。

 雑木林から出た六人が車のそばまで来た、そのときだった。

 大きな衝撃音が響き、ガラスの破片が飛び散った。

 女たちは叫び、巧と宏に至っては鉄板を放り出して尻餅を突く始末だった。

 見れば、ミニバンのルーフが潰れており、ガラスはすべてが割れていた。ルーフは重量物に押し潰されたかのような具合だが、それらしき物体は何もない。

「おれの車が……」

 へたり込んだまま、宏が声を震わせた。

 とたんに異臭が巧の鼻腔を満たした。糞尿のにおいだった。

「何よこのにおい」と美加が悪態をついた。

 誰もが顔をしかめていた。

 そして巧は、尻餅を突いた状態で誠の背後に見知らぬ誰かが立っているのを目にした。

「おい、誠。おまえの後ろにいるのは誰だ?」

 巧の問いに誠はゆっくりと自分の背後に顔を向けた。

「あ……あ……」と声にならない声を誠は出すが、それを目の当たりにしたのだろう三人の女が同時に悲鳴を上げた。

 全裸の痩せこけた老人に見えた。体毛は見当たらず、よって陰部も無毛である一方、巨大な男根を下げている。しかし人間でないのは、明らかだった。腕は左右に二本ずつの四本であり、禿げ上がった頭部には第三の巨大な目が空を向いて開いていた。

 金属をひっかくような小さな音がした。

 立ち上がれずにいる巧は、ミニバンに顔を向けた。

 骨格のようなものがミニバンのルーフの上に浮かんでいた。人の全身骨格に見えるが、下半身が複雑な形態であり、足に相当する部位は何本もあった。よく見れば、筋肉や内臓が現れ、人体模型の様相を想起させる姿へと変わっていく。

「なんなの……」

 泣きそうな声を漏らしたのは真奈だ。彼女もミニバンの上の異形を凝視している。

 人体模型の顕現を完了したそれは、上半身が裸の女であり、下半身は毛むくじゃらの太い胴体だった。その下半身には八本の関節肢が備わっている。すなわち――。

「蜘蛛……女……」

 宏が声を漏らした。

「嫌あああ!」

 美加の悲鳴を耳にした巧は、視線を誠へと戻した。

 全裸の老人が四本の手で誠の肩や腰を押さえつけていた。その老人の顔が、元の三倍ほどの大きさに膨らんでいる。何かを咀嚼しているようだ。さらによく見れば、誠の首から上がなくなっていた。首の切り口からあふれているのは鮮血だ。

「ぎゃっ」と声がした。

 宏の上半身が消えたいた。へたり込んだままの下半身がそこにあり、ちぎれた腹部から内臓がはみ出していた。

 見上げれば、宏の上半身があった。ルーフの上の蜘蛛女が両手でそれを持っているのだ。

 不意に、美加と真奈が走り出した。アスファルトの道を市街地方面へと駆けていく。

 宏の上半身を地面に放り出した蜘蛛女が、つり上がった目で二人の女の行方を睨むなり、長い黒髪と豊満な二つの乳房を揺らして大きく跳躍した。空中で前方に一回転した彼女は、さらに体をひねって向きを変えた。着地した場所は、美加と真奈の目の前だった。

 立ち上がれないまま、巧は宏の上半身を見た。仰向けの宏は、目を見開いていた。自分が死んだことさえわからないのだろう。もしくは、まだ生きているのかもしれない。だが巧が見た限りでは、宏は息をしていなかった。

 さらなる悲鳴を耳にし、巧はそちらに目を向けた。

 蜘蛛女が全裸の上半身を前後左右に打ち振っていた。彼女の黒髪が乱れるのといくつもの何かが飛び散るのが見えた。

「巧くん、助けて」

 優美の声だ。

 今度はそちらに顔を向けた。

 頭部を失った誠の体が横たわっており、その手前に優美が体を震わせながら立ちすくんでいた。彼女の背後には、全裸の老人が立っている。老人の四つの手――それらのうち左右の一本ずつが優美の両肩を押さえ込んでおり、残りの二つの手が優美の後頭部をわしづかみにしていた。

「優美ちゃん……」

 声をかける以外に何もできなかった。立ち上がることも逃げ出すこともできない。

 老人の手はその体に対して異様に大きかった。優美の後頭部をわしづかみにしているが、それぞれの指先は彼女の顔に達していた。

 その巨大な二つの手に力が入った。

 優美の頭部はひしゃげると同時にいとも簡単にもぎ取られ、頭部を失った体がその場に倒れた。そして、原形をとどめていない顔が、二つの手によって巧の目の前に突き出された。優美の双眼がドーム状に飛び出している。

 優美の頭部を右手で掲げた老人が、口を大きく開いた。その下顎が下がり続け、ついには地面にまで到達し、伸長はそこでようやく止まった。そうやって形成された巨大な口腔は、巧をも丸飲みにできそうなサイズだった。上顎と下顎、距離が離れた双方に無数の鋸歯が並んでいる。

 男の中では唯一、車を運転しないのを理由にビールを飲んだ。もしかすると、酔い潰れて寝ているのではないか。これはその夢ではないのか。

 現実ではない、と思いたかったが、惨状は消えてくれない。

 禿頭の巨大な眼球が巧を見下ろした。巨眼のまぶたは左右についており、ときおりそれらが閉じる。まばたきなのだろう。その様が女性器を連想させた。

 糞尿のにおいに血のにおいが混交し、優美の頭部が地面に落ちた。

 全裸の老人がその大口を巧に向かって突き出した。


 蒼依の部屋での飲み会は午後七時半の開宴となった。乾杯から五分ほど立った頃、恵美が蒼依の部屋を訪れ、「お風呂を済ませたら、また分註所へ行くから」と声をかけてくれた。彼女が入浴を済ませてすぐに玄関を出て行ったのは、音でわかった。二度目の声がけがなかったのは蒼依と瑠奈を気遣ったため、というより、それがいつもの恵美なのである。

 開演から二時間ほどが経ち、蒼依の部屋は「戦いが終わった戦場」のようだった。カーペットの上に置かれた座卓には二人ぶんのグラスと三枚の大皿があるが、どれもがほぼからだ。座卓の下にはワインの空き瓶やチューハイの空き缶が横になっている。三枚の大皿はオードブルが載っていたものであり、真紀からの差し入れのワインと併せて、神宮司家の家政婦で一番若いふくおりが地下通路を使って運んでくれたのだ。

 蒼依が気づくと、瑠奈はベッドに寄りかかったまま寝ていた。つい四、五分前までは、大学教員に対する不平不満をつぶやいていたが、今は夢の中でその続きを吐き散らしているのだろうか。

 とはいえ、宴会の序盤では酒の勢いもあって会話は弾んでいた。将来についての話が大半を占めていたが、内容的にはこれまでに交わした意見と変わらなかった。二人にとっては、それで十分なのである。

 二人ともTシャツにショートパンツという姿だが、冷房は強めに設定していた。アルコールが入ってなおのこと、冷風が心地よい。

「あ……もう、お酒ないの?」

 不意に、瑠奈が口を開いた。まぶたが重いらしく、片眉を上げている。

「お客さん、もう看板ですよ」

 瑠奈ほどは酔っていない、と意識する蒼依は、自分を優位に仕立てようとした。大人はこの程度では酔わない――という意思表示である。

「何よ……まらまらじゃん」

 ろれつの回らない瑠奈を見て、蒼依は勝利の喜びを嚙み締めた。

「とにかくね、お酒はもうないの。どう見たって歩けなさそうだし、今日はここに泊まりなよ」

「そうはいかない」目を見開いた瑠奈が、上半身を起こした。「泰輝がいることらしね。あなたのお母さんはちゃんとしているのら、っていうところを見せないと。体ばっかり大人になってもらめなんら、って教えないと」

「たいくん、もう寝ているかもよ」

「何時らの?」

 自分の腕時計を見つつ、瑠奈は尋ねた。目をこらしているが、アナログの針がどの位置にあるのか、見えていないようだ。

 蒼依は枕元の目覚まし時計を見て「十時三十五分だよ」と答えた。

「なら、泰輝はまら起きているよ」

 言って瑠奈は、ベッドに手を突いておもむろに立ち上がった。

「ああ、もう。……危ないよ」

 蒼依も立ち上がり、ふらつく瑠奈を支えた。

「じゃあね、まら明日。おやすみらさい」

 そして瑠奈はドアを開けようとした。

「待ってよ。一緒に行くから」

 瑠奈を支えつつ、蒼依は座卓から瑠奈のスマートフォンを取り、それを瑠奈を支える手に持ち替え、もう一方の手でドアを開けた。

「まったく」

 蒼依がそうこぼすと、瑠奈が「たったらく」と返した。

 瑠奈と酒を飲むのは今年の一月以来二度目である。もっとも、前回の瑠奈は今回ほどは酔っていなかった。この悪酔いの原因は、泰輝にあるのかもしれない。

 瑠奈の肩を支えながら部屋を出た蒼依は、小さなため息を落としつつドアを閉じた。

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