第1話 惨劇は再び ③

「ねえ蒼依、最近、調子はどう?」

 蒼依の部屋で学習机の椅子に腰かけるなり、瑠奈はそう尋ねた。

「もう大丈夫だよ。この前もメッセージで伝えたじゃん」

 ベッドの端に腰を下ろしている蒼依は、実際以上の元気を顔に表した。

 瑠奈の問いかけはかなり割愛された言葉だったが、蒼依が高校生時代に負った心の病についてである。もっともそれは高校を卒業する前に回復しており、以来、再発するといった事態には陥っていない。無論、瑠奈も承知している。だが瑠奈は、面と向かっていないときでさえそれを尋ねてくるのだ。再発を憂慮しているのだろうが、最近の蒼依は、瑠奈のそんな気遣いをわずかながらうっとうしく感じるのだった。

「またあんな事件が起きたら……って思うと、蒼依のことが心配で」

 瑠奈は言うと、窓の外の庭園に視線を移した。その言葉も、本人の口から何度も聞かされていた。メッセージの履歴を調べれば、十数件のメッセージに同じ言葉が見つかるはずだ。

「でもね、瑠奈」蒼依は言う。「特機隊隊員になれば、自らそんな現場に赴くことになるんだよ。だから、再発しないように訓練している」

 瑠奈の眉がかすかに動いた。そしてこちらに視線を戻す。

「あの事件のいくつもの嫌な場面を、わざわざ思い出しているんでしょう?」

 そう問われて、蒼依は頷いた。

「そうだよ」

「でも病院の先生は、それはよくない、って言ったわけだし」

「効果が出ているんならいいかもしれない、って言われた……って瑠奈に言ったよ」

「そうだったっけ?」

「そうだよ」

 答えた蒼依は、ムキになりかけている自分に気づいた。考えてみれば、瑠奈も常軌を逸する体験をしたのだ。うつむきつつ「ふー」と息を吐き、顔を上げて瑠奈を見る。

「症状が出たら、もちろんだけど、また医者に診てもらうよ」

「うん……」

 得心はいかないようだが、瑠奈は静かに頷いた。

「それに今は勉強で忙しいし、そのせいか気持ちの切り替えがうまくできているんだ。嫌な場面を思い出す訓練をしても、そのあとは勉強に集中しているしね」

 事実であり、それも瑠奈に何度も伝えている。

「疑ってはいない」

「心配なだけ」

 蒼依は瑠奈の言葉に繫げた。

「うん、そう」

 再度、瑠奈は頷いた。

「瑠奈はあたしのことを心配してばかりだね」

 苦笑するしかなかった。とはいえ、瑠奈の気持ちも理解しているのだ。蒼依は自分以外の家族の全員を失っている。親戚付き合いもない。そんな孤独な身の上の蒼依を、この瑠奈が顧みないはずがない。

「わたしってまだ二十歳なのに、心労が絶えない」

 言って瑠奈は噴き出した。どうやら根負けしたらしい。

「あたしの心配はしなくても大丈夫だから、もっと勉強に打ち込まなきゃだめだよ」

「何よそれ、まるでわたしが勉強をサボっているみたいじゃない」

 瑠奈は蒼依をにらむが、本気でないことは、口元のゆがみ具合でわかった。

「サボれるわけないよね。社会学部のあたしとはわけが違う」

 肩をすくめた蒼依を見て、瑠奈は首を横に振った。

「どの学部だって大変だよ」

「そうだけどさ、医学部の瑠奈はあと四年も勉学するんだよ」

「卒業したって通算で六年の研修があるしね。ストレートで行っても二七歳か……おばさんになっちゃう」

「しっ……尾崎さんに聞かれたらどうするの」

 その尾崎恵美は現在、二十九歳である。

「えっ」瑠奈の表情が固まった。「尾崎さん、休憩返上じゃなかったの?」

「今は分註所にいるみたい」

 蒼依が告げると、瑠奈は安堵の表情で肩の力を抜いた。

「もう……驚かさないでよ」

「でも実際問題として」蒼依は仕切り直す。「瑠奈の場合、仕事として軌道に乗るまで、かなり時間がかかるよね。それだけじゃなく、医学部のあるキャンパスが、遠い」

「県内にあるというだけでマシかもしれないけれど、研修で神津山大学附属病院に来るだけで結構疲れるんだよ。研修は神津山大学附属病院つくば臨床研修センターでもやるけど、そこだけで済ませられるといいのに」

「そうだよね。それに、瑠奈はこっちに研修に来ても用が済んだらとんぼ返り。神津山大学附属病院はこっちのキャンパスの隣なのに、顔を見ることさえできない」

 そうぼやいて、蒼依はため息をついた。

 神津山市内とその近辺で「神津山大学」と言えば神津山市荒あらかわ地区が所在地であるキャンパスを指す場合が多いが、その施設は厳密には神津山大学神津山キャンパスであり、同県内の筑波研究学園都市には神津山大学つくばキャンパスが存在する。瑠奈が学びの場とするのが、その神津山大学つくばキャンパスだ。つくばキャンパスは三年前に開校されたばかりであり、それとともに、本部のある神津山市の施設の名称が「神津山大学神津山キャンパス」に変更された。同時に、医学部が神津山キャンパスからつくばキャンパスへと移設されたのである。

「ところで」瑠奈が口を開いた。「今年に入ってから学食のレベルが上がったの。神津山キャンパスでは、どう?」

「そういえばそうだね。親子丼をよく注文するんだけど、前のはぱさぱさした感じだったのに、最近のはしっとりしている」

「厨房で働いている人たちの顔ぶれは変わっていないみたいだし……」

「こっちもだよ。レシピが変わったのかな?」

「わたしたちの知らないところで細かい改革があったのかもしれない」

 瑠奈のその言葉に蒼依は「かもね」と追従した。

「まあ、わたしはいつも一人で食べているから食事に集中しちゃって、結構、味が気になっちゃうの」

 切ない話ではあるが、蒼依は頷く。

「あたしも一人で食べているけど、まあ、気楽でいいよ」

 蒼依も瑠奈もほかの学生たちとの交流がほとんどない。高校生時代の同期や近所の住人ともである。特機隊と輝世会が「やまろう事件」と呼ぶあの一連の事件――四年前の五月に起きた事件以降、蒼依と瑠奈は世間から隔絶されたかのような生活を送るはめとなった。高校生時代には事件への関与を問いかけるなど興味津々といった呈で二人に近づいてくる生徒もいたが、大半の生徒は距離を置いていた。事件後の直近では二人との交流のあった何人かの女子も、高校卒業後は疎遠となっている。今でも噂は残っているのか、またつくばキャンパスにまで噂が伝播しているのか、神津山キャンパスで学ぶ蒼依やつくばキャンパスで学ぶ瑠奈に対して、やはり用もなく声をかけてくる者はおらず、あの事件について尋ねてくる者もいなかった。一連の事件はテロ組織や臓器密売グループが引き起こした、と報道されており、加えて、その事件を追う警察特殊部隊が神宮司邸に支部を置いている、という噂――ある意味、事実である――もあるため、蒼依や瑠奈に自ら好んでかかわろうとする酔狂人は一人もいないわけだ。

 とはいえ、今の蒼依は充実していた。おそらくは瑠奈も同じはずだ。二人とも、志望した目標に向かって邁進している。そして二人とも、四年前の山野辺士郎事件以来、むぼうきようの脅威に遭っていなければ、幼生との遭遇もない。充実しているうえに、平穏な日々が続いているのだ。

 不意に、学習机の上に置かれていた瑠奈のスマートフォンが着信音を鳴らした。画面を見下ろした瑠奈が「お母さんからだ」とつぶやき、そのスマートフォンを手にした。

「瑠奈、帰ってきているんでしょう? どこにいるの?」

 真紀のいらだたしげな声は蒼依の耳にも届いた。

「蒼依の部屋だよ。あ……そうそう、ただいま」

 そう返した瑠奈は、蒼依に目を向けて舌を出した。

「なんなの、取ってつけたようなその言い方は。それに、あなたの部屋のエアコン、点けっぱなしだったわよ」

「涼しくしているところなの。まさか、切っていないよね?」

「切ったわよ」

「もう」

 瑠奈は眉を寄せた。

「もう、じゃないわよ。エアコンは点けっぱなしだし、挨拶はないし」

「あのね、お母さんの電話が長いから、わたしは蒼依の部屋に来たんだからね」

「なんだか意味不明な言い訳だけど、とにかく、お昼の用意ができたから、蒼依ちゃんと一緒にこっちに来なさい」

「はいはーい」

 そんな間延びした返事に「まったく」とこぼした真紀が、通話を切った。

「火に油をそそいじゃったねえ」

 蒼依が茶化すと瑠奈は肩をすくめた。

「平気平気。泰輝のこともあったから、ちょっとした当てつけ」

「たいくんのこと……って、部屋の中で裸でいること?」

 蒼依が尋ねると、案の定、瑠奈は首肯した。

「泰輝ったら、久しぶりに会ってみれば、まるで別人というか、あんなんだもん。状況は聞いていたけど、実際に目にすると、やっぱり……」

「あたしも何度か見ちゃったけど……たいくん、なんで急に成長しちゃったんだろう?」

「自分の意思でそうしたみたいだね。それにしたって、外出もしていないなんて」

 瑠奈の顔に憂いが浮かんだ。自分で産んだ子なのだから心配もするだろう。

「外出をしていないということは」蒼依は言った。「つまり食事も取っていないということだよ」

「空腹ではあるはずだけれど、純血の幼生だから、食べなくても生きていける……というか、食べなくても死ぬことができない」

「瑠奈、そんな言い方って……」

 さすがにたしなめようとしたが、瑠奈の顔を見て思いとどまった。成長した泰輝に対して――というより、見知らぬ少年に対して、これまでどおりの愛情を抱けないのかもしれない。瑠奈は戸惑っているのだ。 

「それよりさ、本宅まで地下通路で行かない? 外は暑くて暑くて」

 瑠奈は話題を打ち切るかのように口走った。

「え……」

 あっけに取られて蒼依は言葉を吞んだ。

 主に食事などを運ぶ目的で、本宅と二棟の別宅、それぞれの地下一階は地下通路で結ばれていた。もっとも、本宅の地下一階には重要物を保管する地下金庫があり、セキュリティシステムの警備下にある。ゆえに、地下金庫を開ける権利のある二人――瑠奈と真紀であろうとも、不用意に地下通路に入れば特機隊から警告を受ける結果となるのだ。

「いい案だと思うんだけれど」

 そう言った瑠奈は、スマートフォンを片手に持ったまま、椅子から立ち上がった。

「冗談でしょう?」

 眉を寄せて問う蒼依も、おもむろに立ち上がった。

「冗談に決まっているじゃない」

 瑠奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「だよね……」

 無理をして笑みを返した蒼依は、わずかな疲労を覚えていた。冗談が苦手な者は冗談を言うべきではない――そんな感慨を胸にしまう。

「お昼は何かな?」

 問われた蒼依はドアを開け、瑠奈を廊下へと促した。

「メインはとんかつ、だってさ」

「わたしの好物だ」

「おばさんのリクエストらしいよ」

「わたしの帰省に合わせてくれたのかな?」

「間違いないね」と返した蒼依は、瑠奈に続いて部屋を出た。

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