第1話 惨劇は再び ②

 三号車は駅前通りを右折して市街地を北上すると、郊外で西へと向かった。そしてショッピングモールの北縁を通過し、かみなわ地区すぎおかへと入る。田園地帯の中の集落だ。

 人の姿が市街地よりさらに少ない中、神津山第二高校の三人の男子生徒が談笑しつつ市街地方面へと歩いていた。「部活の朝練があったのかな?」と瑠奈がつぶやいた。

「ねえ」

 瑠奈が蒼依を見た。

 虚を突かれて、蒼依は目を丸くした。

たいは……相変わらずなの?」

 問われて蒼依は、「まあ……うん、そんな感じ」と言葉を濁した。

「そうか。……久しぶりだけれど、声、かけないほうがいいかなあ」

 そう漏らした瑠奈は正面に向き直り、わずかにうつむいた。

「声はかけたほうがいいじゃん」そして蒼依は恵美に話を振る。「尾崎さんもそう思いますよね?」

「そうね……わたしだったら、声だけはかけるかな」

 進行方向を見たまま、恵美は答えた。

 顔を上げた瑠奈が、横目で蒼依を見る。

「うん。とりあえず、声をかけてみるよ」

 その言葉を聞いて、蒼依は黙して頷いた。

 右左折を何度か繰り返し、民家が密集する区間を抜けてさらに西へと進んだ。右の奥に雑木林があり、左には田畑が広がっている。この辺りまで来ると民家はなく、人通りもないに等しい。

「稲の穂が実ってきているね」

 運転席の後ろの瑠奈が、蒼依越しに左の景色を眺めつつ言った。

「そうだね」

 答えた蒼依は、瑠奈がほんの数日でも故郷の夏の風景に浸れる、ということをうれしく思った。

 左の稲の群れに気を取られているうちに右の雑木林が途切れ、高さ二メートル強の白い塀が現れた。塀は道の右に延々と続いている。塀と道はさらなる先へと続いているが、塀の途中にスレート屋根を冠した門が現れた。向かってその右には通用門の扉がある。

 三号車は右折し、トラス格子状の巨大な門扉に正面を向けて停止した。間を置かず、観音開きの門扉が左右同時に内側へと開いた。この大仰な門扉は自動式だ。無論、後続車がなければ閉じる、という仕組みである。

 三号車が静かに前進した。

 コンクリート敷きの道で木立を縫うように徐行する三号車は、十秒ほどで、開けた場所へと出た。

 芝生に覆われた広大な洋風庭園だった。周囲は木立に囲まれており、中央には直径二十メートル前後の池がある。

 庭園の奥に三棟の建物があった。向かって左が本宅であり、その右に並ぶ二棟は別宅である。本宅は三階建ての近未来的な意匠だが、二棟の別宅は瀟洒で現代的な二階建ての家構えだ。

 時計回りに庭園の左側から本宅の正面へと至った三号車が、車寄せで停止した。

 待ち構えていたのはスーツ姿の初老の男だった。細身で姿勢のよい彼は、特機隊隊員ではない。現にスーツは特機隊のものではなく、ネクタイを締めている。この屋敷の執事、藤堂しんだ。見える範疇では、この広い敷地で建物の外にいるのは藤堂だけである。四年以前までは特機隊隊員が敷地内の随所で立哨に当たっていたが、強化されたセキュリティシステムのおかげでその任務は省かれることになったのだ。

「尾崎さん、ありがとうございました」

 礼を述べて、瑠奈は右のリアドアを開けた。

「じゃあ、またあとでね」

 わずかに振り向いた恵美が、横顔でそう返した。

 蒼依と瑠奈は、おのおの荷物を手にして左右から降りた。

 三号車が東のほうへと静かに走り出すと、藤堂が恭しく頭を下げた。

「瑠奈お嬢様、蒼依お嬢様、お帰りなさいませ」

 以前の藤堂は瑠奈を単に「お嬢様」、蒼依を「蒼依様」と呼んでいた。しかし彼は、蒼依がここで暮らすようになってしばらくすると、蒼依とも神宮司家の一員として接したい、という思いをこの屋敷の主である神宮司に訴え、それぞれを「瑠奈お嬢様」「蒼依お嬢様」と呼ぶようになったのだ。

「ただいま」と蒼依と瑠奈は声を合わせた。そして瑠奈は、いつものように「荷物は自分で持ちますからね」と付け加えた。

「承知いたしました」笑みを浮かべた藤堂が、ふと真顔になった。「奥様は本社からの電話があってまだお話中ですし、家政婦たちは食事の支度で手が離せませんので、お迎えはわたしだけとさせていただきました」

「そんなこと気にしないで」

 瑠奈も笑顔だった。

「ところで蒼依お嬢様」藤堂が蒼依に声をかけた。「小野田様から、これを蒼依お嬢様に渡してほしい、と」

 そこで初めて、藤堂がつば広ハットを左手に提げていることを、蒼依は知った。

 藤堂がつば広ハットを両手で蒼依に差し出した。それを受け取り、蒼依は「ありがとうございます」と告げた。

 ひととおりのやりとりが済んだところで、蒼依は瑠奈に顔を向ける。

「じゃあ、あたしは自分の部屋に行っているから」

「お母さんに挨拶して泰輝に声をかけたら、蒼依に連絡する。そうしたら、一緒に昼食を取ろう」

 瑠奈は言った。

「うん。連絡を待っている」

 答えた蒼依は藤堂に会釈し、コンクリート敷きの道を東へと向かって歩き出した。

 セミの鳴き声が響いていた。複数がいるらしく、駅前バスターミナルで耳にしたときよりも不快指数を上げてくれる。

 本宅の東に並ぶ二棟の建物は、手前が第一別宅、奥が第二別宅だ。蒼依の部屋があるのは第一別宅の二階である。

 第一別宅の横からの外観は正面からの印象どおりで、一般の民家と同程度の規模だが、特機隊第六小隊分駐所となっている第二別宅の奥行きは、その二倍以上はあった。

 蒼依は第一別宅の玄関ドアを開けた。鍵もロック解除も使わない。ガレージを含む神宮司邸敷地内にあるすべての建物は、常時、施錠されない。各種セキュリティシステムが稼働しているうえ、非常事態に特機隊隊員がすぐに出入りできる必要があるためだ。

 玄関を覗くと、恵美の靴はなかった。

 玄関ドアを開けたまま、蒼依は第一別宅の東の角へと歩いた。そして第一別宅と分註所との間を覗く。

 分註所の裏のコンクリート敷き駐車スペースとその東側の大型ガレージが見えた。分註所とガレージとの間には一台の白いワンボックス車が停めてある。ガレージの三枚のシャッターはすべてが下りた状態であり、自分たちを運んでくれた三号車はその前の駐車スペースに後ろ向きに停められていた。恵美の姿は車中にも車外にもない。

 第六小隊隊員が休憩を取るときは、概ね分註所のおのおのの自室でくつろぐが、恵美の部屋は第一別宅の一階にあるため、彼女はそこを利用することが多い。今のこの時間、彼女は休憩に入る予定のはずだが、返上したようだ。分註所の管制室にいると思われた。可能ならば冷たい飲み物でも一緒に飲みたかったのだが、やむをえず、蒼依は一人で第一別宅の玄関をくぐった。

 気づけば、額に汗が流れていた。

 まずは自室のエアコンで室温を下げなければならない。

 靴を脱ぐ手間がもどかしかった。


 オードブルの件を藤堂に伝えた瑠奈は、二階の自室に直行し、スポーツバッグとスポーツキャップを学習机の横に置いた。真紀は電話中である、という旨を藤堂から告げられているため、まずは泰輝に声をかけることにする。エアコンを冷房の弱に設定した彼女は、自室を出てすぐに泰輝の部屋の前へと赴き、ドアをノックした。

「泰輝、ただいま。お母さんだよ。開けるからね」

 蒼依や真紀との連絡で把握している限りでは、泰輝は未だにドアのノックに応答しないという。ほかの部屋に用があるときのノックをしない、というのも相変わらずらしい。どちらの立場であっても、泰輝はノックのあとのやりとりがわからないのだ。瑠奈は諭す立場であるゆえにノックと声がけはするものの、返事がないのを承知しているからこそ、そのままドアを開けた。

 部屋から熱気があふれ出た。この部屋にもエアコンはあるが、真夏でも真冬でも、泰輝はこれを必要としない。

 中学生ほどの外観の少年が、ベッドの上で仰向けになっていた。目は開いている。起きているのは確かなようだが、全裸だ。こちらに足を向けているため、成熟した逸物が黒い茂みから伸び出ているのが目に飛び込んでしまう。

「いい加減にしてよ!」

 声を張り上げるなり、瑠奈はドアを開けたままずかずかとベッドに突き進み、落ちかかっている掛け布団を、泰輝の下半身に投げつけた。

「ああ……お母さん」

 泰輝は頭をもたげもせずに、目だけを向けて口を開いた。声も違っていた。やや大人びた声である。

「何がお母さんよ。もう知らない」

 そう吐き捨て、瑠奈はきびすを返した。そして泰輝の部屋を出ると、後ろ手にドアを激しく閉じた。

 一年を通して全裸のままベッドで寝る、という悪癖も変わっていないことは、何度も真紀から伝えられていた。それをうっかり忘れてしまった――というより、泰輝が急成長したことを忘れていたのだ。前回の帰省で会ったときはまだ五、六歳の姿であり、性格も明朗で落ち着きがないくらいだった。真紀の話によれば、泰輝が急成長して同時に引きこもりぎみになったのは、およそ四カ月前である。

 感情的になりすぎたのかもしれない。体の急成長と性格の変化、という事態に陥った理由は判明していないが、泰輝本人が苦しんでいる可能性は考えられる。いずれにせよ、謝るべきだろう。だが、泰輝があの姿のままでいるかもしれない、と思うと、泰輝の部屋に戻るのを躊躇してしまうのだ。

 廊下を歩いて真紀の部屋の前まで来た。真紀に相談するのがよいだろうとの判断からだが、聞き耳を立てれば、真紀はまだ話し中だった。通話の相手は社長のようであり、真紀の声にはやや棘があった。声などかけられる状態ではない。

 瑠奈は自室に戻ってドアを閉じると、スポーツバッグからスマートフォンを取り出し、ベッドの端に腰を下ろした。スマートフォンのメッセージアプリで蒼依に「今、そっちへ行ってもいい?」と送信する。

 返事はすぐに来た。

「いいよ」との答えに「じゃあ、行くね」と返し、エアコンをかけたままスマートフォンを片手に部屋を出た。

 念のため真紀の部屋の前に立ってみるが、母はまだ話し中だった。

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