七人の探索者

岬士郎

第1話 惨劇は再び ①

 雨は上がっているが、「またいつ降り出すかもしれぬ」といった空模様だ。無論、山間を縫う荒れた舗装路は濡れたままである。それでも軽トールワゴンは、狭いその道で安定した走りを維持した。

 一番近い集落は十分ほど前に通り過ぎた。曇天の下にそびえる峻険な山々とそれらを覆う山林は、靄にかすんで墨絵のごとくたたずんでいおり、幽玄な風景の中に人の気配など微塵も感じられない。

 道の左に面する空き地に車を乗り入れ、エンジンを切った。そして振り向き、助手席の後ろの男を見る。可能なならば視野に収めたくない容貌だ。そのしおさわ)なおはるはこちらのそんな心境を意識したのか、進んで後部座席に乗ったほどだ。しかし塩沢は、容貌よりも体臭のほうがひどかった。彼の放つ悪臭はすでに車内に満ちているが、隣にいられるよりはまだしも救われる。

「ここに停めておいて、いいんですか?」

 そう尋ねたたちばなきよふみは、答えを待たずに正面に向き直った。

 濡れそぼった雑草が、杉林の手前に生い茂っていた。たとえ雨が降っていなくても、それをかき分けて歩くのは不快に違いない。

「ああ」とだけ答えて、塩沢はドアを開けた。

 助手席からショルダーバッグを取った立花も、そんな塩沢に遅れまいと車外に出た。

 湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。心なしか、薄手のYシャツが重くなったような気がした。左手に提げているキャンバス地のショルダーバッグも、水分を中に通してしまう危惧がある。

 ドアを閉じるのも、二人はほぼ同時だった。くたびれかかった軽トールワゴンの前で二人は並んだ。塩沢の体臭を気にしつつ、立花は正面の杉林を見つめた。

「車のラゲッジに傘が二本あります。どのくらいの距離を歩くのか知りませんけど、持っていったほうがいいでしょう」

「おれもまだ行ったことがないんでね、距離の程度はわからない。でも傘はあんただけが持っていけばいい。おれはかえって濡れたいくらいだ」

 最後の一言が妙にふさわしく思え、立花は自分の左に立つ塩沢を横目で見た。

 塩沢の横顔は正面からの面構えと同様に人間離れしていた。横顔であるにもかかわらず、彼の右の眼孔はこちらを向いている――というより、左右の目が顔の中線から離れた位置にあるのだ。正面を見ているはずだが、その瞳はこちらをも視野に入れてるのかもしれない。加えて、四十一歳ということだがすでに禿頭であり、眉さえなかった。厚めの唇や張ったえらなども相まって、魚を彷彿とさせる顔だ。正面から見ても「魚」である。加えて魚のような体臭を放っているのだから、始末が悪い。

「じゃあ、わたしは傘を持ちますよ」

 気を取り直してそう伝え、車の後方へと回った。そしてラゲッジから一本の傘を取り出し、ドアをロックした。ショルダーバッグを左肩にかけ、つぼめたままの傘を右手に下げる。

 塩沢は手ぶらだ。車に乗る前からバッグも傘も持っていなかった。いずれにせよ、この濡れた山中を歩くのならば、装備は可能な限り少ないほうがよい。考えてみれば、傘を持っていたとしても、林道で雨に降られてしまえば頭以外はずぶ濡れになるに違いないのだ。

 立花は車のドアロックを解除し、ラゲッジに傘を放り込んで、再度、ドアを閉じてロックした。

「傘、持たなくていいのかい?」

 車の前に立つ塩沢が、背中を向けたまま、魚じみた横顔で問うた。

「ええ。かまいません」答えて立花は、塩沢の横に立つ。「行きましょう」

「ああ、そうしよう」

 頷いた塩沢が、先に歩き出した。

 塩沢は歩き方までが異様だった。片足を引きずる歩き方なのだが、引きずるのが右足だったり左足だったり、不規則に入れ替わるのである。腕は小さく振るのみだ。容貌も体臭も歩き方も、会ったときに気づいていたが、こんな人里離れた山中で二人きりという状況であり、ことさらその異様さに警戒してしまう。

 この天候も気に入らなかった。二日後に梅雨が明けそうだ、とインターネットのニュースで見たばかりだが、せめて梅雨が明けてからの取材にすればよかったのかもしれない。

 五年に渡る調査がようやく答えにたどり着けるのだから、ポジティブにとらえるべきなのだろう。頭の中でそう繰り返しつつ、立花は歩を進めた。

 杉林の手前の藪に小道があった。塩沢は躊躇することなくそこを突き進む。

 彼に続く立花は右手で顔をかばうが、背の高い雑草に左右からなでつけられ、ポロシャツやジーンズが一瞬にして濡れてしまった。

 塩沢のシャツやスラックスもずぶ濡れだ。本人の言葉どおりなのか、濡れるのを楽しんでいるかのごとく、彼は歩調を緩めない。後れを取るわけにはいかず、右手で顔をかばいつつ、立花も歩調を落とさなかった。

 やがて小道は杉林の中へと至った。あたりは薄暗いが、背の高い雑草はなくなった。顔をかばう必要がなくなっただけでもありがたかった。

 立花は歩き続けた。

 まるで塩沢の体臭に導かれているようだった。


 東の海原は家並みに遮られ、ここからでは視野に入れることができない。西の山並みは建物の合間にかろうじて垣間見える。東西に短く南北に長いこの平地が、人口減少が進む田舎街の一角だ。

 日差しが容赦なく街並みを焦がしていた。セミの鳴き声が体感温度を上げているような気もするが、バスターミナルの待合所は屋根があり、少なくともここにいる限りは日差しから逃れられる。このあとに炎天下を歩くのも、ほんの一分程度だ。

 とはいえ、買ったばかりのつば広ハットを忘れたのは痛かった。今日の外出では実用的な出番は少ないが、肩フリルのシャツにプリーツスカートというこの出で立ちに合わせたコーディネートだったため、自慢する機会を逃したことになる。おそらくはとつたい第六小隊分註所に置き忘れたのだろう。出発前のてんやわんやが原因、と責任転嫁を図ってもよさそうだが、意味がないと悟る。

 バスターミナルのベンチに座るあおは、ため息を落としつつ腕時計を見た。午前十時三十九分だった。高速バスが到着する予定時間の一分前だ。どうにか間に合ったが、迎える者が遅刻したのでは話にならない。たとえ特機隊に原因があろうとも、遅刻したならば、蒼依はひたすら謝るしかないのだ。

 夏休み期間のさかはぎ駅西口前だが、この田舎では出歩く小中学生の姿はほとんど見られず、その制服で蒼依の母校の後輩とわかる高校生がまれに歩いている程度だ。最も多く見かけるのは高齢者であり、この待合所のベンチにも四人の老女が無言で腰を下ろしていたが、二番乗り場に到着したばかりの総合病院行き路線バスに、その四人ともが乗り込んだところだった。

 そして十秒と経たずに、高速バスが八番乗り場に到着した。待合所に一人となった蒼依は、高速バスの前ドアが開くと同時に、膝の上のポシェットを左肩にかけて立ち上がった。

 高速バスの乗降口から真っ先に降りたのは、五十代とおぼしき女だった。次は若い男女のカップルである。中年の女は二番乗り場の路線バスに乗り込み、カップルは街の中へと歩いていった。

 数秒が経った。まさかと思いつつ車中に目を凝らせば、乗降口へと進む人影がある。その四人目が最後の乗客だった。

 高速バスから降り立ったのは、スポーツバッグを右肩にかけた若い女だ。ブラウスにジーンズという装いであり、スポーツキャップの後部アジャスターの上からポニーテールを出している。彼女こそ、蒼依の待つじんぐうだった。

 瑠奈はすぐに蒼依に気づき、右肩にかけたスポーツバッグを左手で押さえながら、待合所へと駆けてきた。

「蒼依、ただいま!」

 待合所の屋根の下に入るなり、瑠奈は朗らかに声を上げた。

「お帰り、瑠奈!」

 蒼依も明るく声をかけた。

「蒼依、なんとなく大人っぽくなったね」瑠奈はほほえんだ。「服装もそうだけれど、女子力アップっていう感じ」

「まあ……ね」

 派手な称賛を受け、蒼依は言葉を詰まらせた。わずかに伸ばしたショートボブを、つい、意識してしまう。

「わたしは女子力を上げるどころかその逆を行っているしね」

 そんな自嘲に同調して笑うべきか、と躊躇し、蒼依は無難な言葉を選ぶ。

「活動的な印象がするよ。医学部の学生とは思えない」

 前に会ったのは八カ月前だった。正月休みで帰省した瑠奈は、高校生時代と変わらずロングヘアをストレートにしていた。ポニーテールにしただけでこうも印象が変わるものなのか――と蒼依は感服した。

「ええっ」瑠奈は目を丸くした。「それって偏見だよ。差別だあ」

「ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。本当にごめんなさい」

 蒼依は肩をすくめた。遅刻は免れたが、謝る羽目となってしまった。

 そんな蒼依を見つめる瑠奈が、とたんに噴き出す。

「冗談だよ」

「何それっ」

 ほんの一瞬だけ頬を膨らませた蒼依は、二十歳はたちであることを思い出し、すぐにその頬をすぼめた。そして失笑する。

「それより、車を待たせているんでしょう?」

 瑠奈に問われて蒼依は頷いた。

「うん。じゃあ、行こうか」

 二人は並んで歩き出した。

「ところで」右に並ぶ瑠奈が、蒼依の顔を覗いた。「車は誰の運転?」

ざきさんだよ。みんな忙しいみたいでね、直前まで決まらなかったの」

 蒼依が答えると、瑠奈は得心がいったような表情を浮かべた。

「だから、さっき蒼依からもらったメッセージに、誰が運転するか決まっていないからタクシーになるかも、ってあったんだ」

「時間ぎりぎりで決まったあげく、来る途中の車の中では、仕事についての心構え……尾崎さんの講習会があって、メッセできなかった」

「ああ……特機隊の、ね?」

 わずかに声の張りがなくなった。瑠奈は横目で蒼依を見ている。

「そう……だよ」

 久しぶりの再会なのに、話題の選択にしくじってしまった。とはいえ、取り消すことも不可能だろう。

「前に進むしかない」瑠奈は諦めたような笑みを浮かべた。「……って、わたしも言ったんだしね。そのために蒼依は、大学で勉強を頑張っているんだもん」

「うん」

 頷いたものの、これ以上はこの話題を引きずりたくなく、蒼依は口をつぐんだ。

 二人は待合所の裏手へと回った。線路とバスターミナルとに挟まれた駐車場だ。五十台前後は停められそうな露天駐車場である。

 日差しにさらされ、蒼依は目を細めた。

 ふと、瑠奈が足を止めた。

 先行しかかった蒼依も、足を止める。

「瑠奈?」

 不機嫌が増したのだろうか――と憂慮し、蒼依は肩をこわばらせた。

「ねえ、蒼依」瑠奈は蒼依を見つめた。「自分たちの将来について、話すのを無理やり避けるの、やめようよ」

「え……でも……」

 逡巡を隠しきれず、蒼依は口ごもった。

「わたし、別に蒼依の特機隊への入隊を反対しているわけじゃないんだよ」

 確かに、賛成はしてくれた。とはいえ、喜んでくれなかったのも事実だ。

「ただ不安なだけ……だったよね?」

 不安である――と何度も訴えられたのだ。そのうえでの「賛成」である。

「そうだよ。それにわたしだって、せいかいで働くために医学部に入ったんだもの」

 瑠奈はそう言うが、特機隊は輝世会と異なり、現場で敵と直面する仕事を担うのだ。彼女が蒼依の将来に不安を抱いて当然だろう。だが、「前に進むしかない」という言葉は今の二人にとっての支えなのだ。この言葉を裏切らないよう、蒼依は気力を奮い立たせた。

「じゃあ、今夜はとことん話し込もう。お酒は用意してある」

 あとで打ち明けるつもりだった今夜の楽しみを、ここで伝えた。

「やった!」

 瑠奈の顔が一気に明るくなった。

「瑠奈が結構飲める、っていうのが、まあ……なんだかなあ」

 高校生時代の清楚な印象が、今では崩れかかっていた。それでも蒼依は、瑠奈には気品がある、と認めている。蒼依自身も規範とするほどだ。そんな二人に未だに恋人がいないのは、無論、それとは関係がない。

 全体の半分ほどが埋まった駐車場――その中央付近に、二人が乗ることになる一台の黒いSUVがあった。特機隊第六小隊三号車だ。その手前に、ショートヘアの女が立っている。パンツルックスのグレースーツ、という出で立ちだ。

 その彼女、特機隊第六小隊の尾崎が、こちらに顔を向けた。せかす様子でもなく、視線を送ってくるだけだ。とはいえ、蒼依にはそれが無言の圧力だった。しかも、グレースーツ姿というだけで威圧感は増す。

 恵美のこの装いは特機隊専用サマースーツであり、ノーネクタイだ。夏場においては男女共通の仕様だが、女性隊員は夏以外でもノーネクタイである。

「もたもたしていると怒られるよ」

 蒼依の一言に瑠奈が「そうだね」と返した。

 二人は小走りで三号車へと向かった。

「尾崎さん、こんにちは」

 恵美の前に立った瑠奈が、頭を下げて言った。日常的すぎる挨拶にも思えるが、恵美は月に二、三度、様子を確認するために瑠奈の元を訪れている。「久しぶり」という言葉が不似合いなほどの頻度で二人は顔を合わせているのだ。

「こんにちは。疲れたでしょう? 早く帰って、ゆっくりするといいわ」

 いつものすまし顔だが、機嫌が悪いわけではない。眉のわずかな動きを見れば、むしろ機嫌はよいほうだろう。容姿端麗なだけに、乏しい表情から感情を読み取る、という試みは、同性の蒼依でさえ飽きることがない。

「さあ、二人とも乗って」と恵美に促され、蒼依は助手席の後ろに、瑠奈は運転席の後ろに乗った。助手席はからだ。これは地元の知り合いに目視されるのを避けるための処置だった。ただでさえ神宮司家と特機隊とのかかわりは噂のネタにされやすいのである。当然ながら、ここに来る際も、蒼依は後部座席に座っていた。

 車内は冷房が効いており、快適さは外とは比較にならない。しかしほっとしたのもつかの間、運転席の後ろでリアドアを閉じた蒼依は、ふと思い出し、隣の瑠奈に顔を向ける。

「宴会をするんだったら、夕食はキャンセルしようか? でもあれかなあ、おばさんががっかりするかも」

「お母さんなら大丈夫だよ。お昼を蒼依と一緒の三人で食べれば、それで帳消し」

 そう返した瑠奈が、帽子を脱ぎ、それを足元のスポーツバッグの上に置いた。

「ちょっと……」蒼依は噴き出した。「帳消しを先にしちゃうんだ?」

「そういうこと。あとね、夕食のおかず、もう下ごしらえとかしているかもしれないから、それをオードブルにしてもらうとか」

「それいいかも。一応ね、おつまみは用意してあるけど、オードブルがメインだね」

「うちに着いたら、わたしからとうどうさんに頼んでみる」

 嬉々として瑠奈は言った。

「何やら楽しい催しがあるみたいね」

 三号車を発進させた恵美が、正面に顔を向けたまま口を開いた。

 現在の特機隊専用車はすべての車両がハイブリッド車だ。ゆえに低速では排気音がなく、代わって疑似モーター音が出される。会話をするには十分な静けさだ。

「よかったら尾崎さんも……」

 言いかけて、蒼依は言葉を吞んだ。

「せっかくなんだけど」恵美は淡々とした調子だ。「今夜のがわさんの完全非番を交換してもらうか、そうでもない限り、無理かも」

 現在の第六小隊は六人だけであり、熟睡が可能な完全非番は一日に一人、と決められていた。完全非番ならばよほどの事情がない限り声はかからず、アルコールをたしなむことも可能だが、それは午後六時から翌午前六時までの間であり、日中に完全非番になることはない。しかも、完全非番の最中で酔っているとしても、緊急非常事態になれば現場に駆り出される場合もあるのだ。

「なら」瑠奈が言った。「もしわたしの滞在中に尾崎さんの完全非番があれば、一緒に楽しみましょうよ」

「いいわね。確か、三日後がわたしの完全非番だわ」

 恵美のその言葉を受けて蒼依は「宴会の第二幕、決定」と宣言した。

 蒼依も瑠奈も大学生の身分でありながら、邪教集団の目や幼生たちの脅威に神経を張り詰めて毎日を送っているのだ。この程度の楽しみがなければ精神が抑圧されてしまう。特に蒼依は、治療の終了したPTSDを再発させるわけにはいかない、という状況だ。瑠奈も恵美も、蒼依を気遣っているに違いなく、無論、蒼依はそんな二人に感謝していた。

 駐車場を出た三号車は、駅前ロータリーを経て駅前通りを西へと向かった。走行モードがEVからHVに切り替わる。

 人通りの少ない街だ。

 四年前からずっと変わっていない。

 かみやま市は、どこもこの程度の寂れ具合なのだ。

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