第10話

 由紀恵は先回りして、トイレの一番奥の個室に隠れた。幸いにも、未使用時はドアが閉まっているタイプだったので、息を殺していれば見つかることはなかった。

 ほどなくして、ちょうど由紀恵がいる個室の前に結花がとぼとぼと歩いてきた。トイレの中から扉の隙間に目をつけると、外は見える。結花はかなり顔色が悪く、隠れている由紀恵のことに気づく様子はなさそうだった。

 いま結花が立っている位置は、由紀恵が予知魔法で見た、茶髪がかった髪の女子高生が倒れた場所とほぼ一致していた。何もしなければ、予知魔法で見た通りの事件が起こるものと思われた。

 結花はスマホをいじって、待っていた。どうやらこころに連絡して呼び出したらしい。


「どうしたのよ?」


 入り口の方から、こころの声が聞こえた。

 由紀恵からこころの顔は見えないので、様子はわからなかったが声色は心配半分、呆れ半分という感じだった。とはいえ授業中にもかかわらず結花の呼び出しに応じているのだから、ある程度は心配しているのだろう。


「こころ……」

「先生から聞いたよ。気分悪くて休んでるんでしょ」

「……生理、来なくなっちゃった」

「え」


 思わず由紀恵まで、こころにつられて「え」と言いそうになった。

 最近会った感じでは、そのようなことで悩む素振りは一切なかったのだが。無理して隠していた可能性もあるが、結花はそういうタイプではないと、由紀恵は思っていた。

 だからこの数日中に生理が来なくなったことと、急に気分が悪くなったことを合わせて、妊娠してしまったことを示唆しているらしい。


「何それ、どういうこと」

「わかるでしょ……多分センパイの子供だよ」

「なっ……」


 こころが絶句している。

 心当たりはそれしかない、ということだ。


「ちゃんと避妊しなかったの?」

「……」

「……黒澤先輩には? もう言った?」

「センパイ、一週間くらい連絡つかないんだよね」

「えっ……」

「うち、捨てられちゃったのかなあ」


 由紀恵なりに行間を読み解くと、つまり結花はある時黒澤大地との行為において避妊に失敗し、それ以降連絡がつかないということだ。捨てられた、と感じても無理はない。


「でも、まだ妊娠したって決まった訳じゃないでしょ。ああいうのって、検査とかしないと」

「わかんないけど……センパイはたぶん、うちのこと助けてくれないよね」

「ちょっ、結花!」


 こころが怒鳴ったので由紀恵がドアの隙間から目を凝らすと、結花が茶色い柄の出刃包丁を両手に握り締めていた。どこに隠していたのかは不明だが。

この状況から考えられるのは、結花が将来を悲観して自分を刺してしまうことだ。

 こころが結花を刺す訳ではないので、由紀恵がもっとも心配していたこころが犯罪者になるという状況とは違っている。

 とはいえ、ここまで来て結花を見殺しにする気にもなれず、由紀恵は状況を注視した。

 このままいけば、どこかのタイミングでこころが結花の包丁を奪うはずだ。


「何その包丁、どこから持ってきたのよ」

「家庭科室だけど」

「ああ……そういうこと。たしかにその包丁、家庭科室にあったわ」

「えっ、なんでそんなことわざわざ覚えてるの」

「その包丁、ちょっと見せて」

「え……別にいいけど」


 こころの興味が、結花の妊娠疑惑から包丁へと、いつのまにか移っている。

 結花も、この状況で包丁に興味を持たれると思っていなかったのだろう、きょとんとした表情で、こころに包丁を渡した。


「これが……」


 こころが包丁を手に取り、刀身を見つめている。


 ええい、なんかよくわからない状況だけど。

今だ!


 由紀恵はトイレの個室から飛び出した。


「おりゃーっ!」

「えっ!? きゃーーっ!?」


 瞬間、由紀恵は結花を捕らえて、トイレの個室に無理やり押し込み、扉を閉めた。

 そもそも誰かいると思っていなかった結花は驚きで絶叫していたが、かまっている場合ではなかった。

 由紀恵の考えたトリックを成立させるためには、こころの視界内に結花が存在してはならないのだ。

 一方、こころは声こそ出さなかったが、やはり驚いて言葉を失っていた。


「ふんっ!」


 呆気にとられているこころをよそに、由紀恵はすでに決めてある行動を素早く実行した。

 トイレの床に、トマトジュースの紙パックを置いて。

 うつ伏せにダイブして、お腹のあたりで紙パックを破裂させた。

 この時、由紀恵は茶色いウィッグに、こころたちの高校の制服を着ていた。

 こころや結花の行動を制御するのは不可能に近い、と考えた由紀恵は自ら倒れていた茶髪の女子高生に成り変わることで、あの未来予知を再現しようとしたのだ。

 見てしまったものに齟齬が怒らなければ、タイムパラドックス症候群は発生しない。結花と由紀恵は、幸い体格が似ていたので、由紀恵が察知した遠目の姿と似せるのは簡単だった。予知魔法の中では、倒れていた女子高生が結花だと特定できなかったら、自ら成り代わることも可能だと考えたのだ。

 由紀恵はトイレの床に突っ伏したまま、成り行きを待った。

 あとは、こころが驚きで包丁を手放せば、すべて予知魔法と同じ行動となる……


「こころーっ!」


 が、しかし。

 結花がトイレの扉を開けて、飛び出てきた。


「生理、きた!」

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