軍服の男性

奈良 敦

第1話 軍服の男性

 私の母方の祖父は隣町に住んでいて、小さな頃から祖父の家には土日に遊びに行ったり、お盆・お正月などは家族親戚一同が集まり高校野球を観たり、初詣に行ったりしていた。


 祖父の家には仏間がある。その仏間には仏壇・博多人形・囲碁・将棋など、そして私の祖母や曽祖母の写真があった。

 たくさんの写真が並べられている中、写真の1番右に1人の軍服を着た男性の写真がある。右手に日本刀を握りしめ、口はキリッと閉じ真っ直ぐにこちらを見つめている。

 4歳か5歳くらいの時にこの人はおそらく、おじいちゃんのお父さんだろうと私は思った。

 だが、祖父にその男性の事を詳しく聞くことはなかった。若くして亡くなった自分の父親のことを聞くこと、話をさせることは祖父を悲しませることになるのではないかと思っていたからだ。

 小学6年はくらいの頃、私は祖父と2人きりになった時に勇気を出して聞いてみた。

 「あの写真の1番奥の兵隊の人名前なんていうと?」

 そこで初めて名前を教えてもらった。

 だが、それ以上詳しく聞くことはなかった。前々から思っていたようにこれ以上詳しく聞くと祖父が悲しい気持ちになると思ったからだ。そのせいか、名前を聞いた時の祖父の顔が少し不機嫌なように見えた。

 その後中学、高校と進学した私は以前と同じ様に土日に祖父の家を訪れたり、祖父が家に遊びにきたりしていたが、曽祖父について聞くことはなかった。

 時間だけが過ぎて行き、祖父は脳梗塞になってしまった。会話が以前のようには出来ず、歩くことも困難になっていた。


 私は東京の専門学校に入学し、家族と会う機会も減っていた。祖父は施設に入り、1年に1度会うくらいだった。もちろん曽祖父のことなど聞くことはできない。

 専門学校を中退後、保険会社で契約社員として働き始めた私に母親から知らせが来た。

 おじいちゃん、入院してご飯もあまり食べれないみたい。良くなればいいけどね。

 この知らせを聞いても私はあまり心配しなかった。去年の祖父の誕生日に祖父に会いに行った時、一緒に写真を撮ったりしていたが帰る時に祖父が握手を求めてきた。

 私は祖父に会う機会が少ないため、もしかするとこれが最後になるのではないかと思った。握手をする際に少し力を入れて祖父の手を握ると祖父は88歳とは思えない力で握り返してきた。この時私はこの人はまだまだ長生きするなと思い安心した。

 だが、結局その日が私と祖父が出会った最後の日になってしまった。


 1年後の11月。夜中に体調が急変し祖父は89歳で亡くなった。

 翌朝6時30分に連絡を受けた俺はスマートフォンのカメラで青空を撮影する。祖父は空気が乾燥し、雲一つない澄み渡った青空のほうへ行ってしまった。

 お通夜・お葬式を済ませ、祖父の家を整理していると紙袋が見つかった。中には白黒の写真がたくさん入っていた。

 母親や他の親族はあまり興味がなさそうだったが、私はその中に曽祖父の写真があるのではないかと紙袋の中の写真を1枚1枚確認していく。

 中には昭和30年代の宮島の写真や祖父の20歳の時の写真などが出てきた。

 一番驚いたのは、大正生まれの曽祖母の両親の写真が出てきたことだった。

 名前はわからなかったが、祖父の妹が教えてくれた。

 貴重な写真が数多く発見されたが、その中に軍服ではないスーツ姿の曽祖父の写真、鎌倉時代から南北朝時代の武将・菊池武光の像の前で他の兵士達との集合写真などたくさん出てきた。私は祖父に聞くことができなかった曽祖父の人生について、名前はわかっているが出身はどこなのか、どこで勤務していてどのように亡くなったのか、これらの写真を手掛かりに私の曽祖父を探す旅が始まった。


 まずは、菊池武光像の前での集合写真を手がかりにした。

 この菊池武光の像は現在も残っている。

 福岡県三井郡大刀洗町の大刀洗公園にその銅像はある。

 大刀洗という地名はこの地で菊池武光が血の付いた刀を川で洗ったことから大刀洗と名付けられた。

 大正時代に大刀洗には東洋一の陸軍の飛行場が建設された。

 東洋一の飛行場ということもあり、戦時中はアメリカ軍の空襲にあった。菊池武光の銅像には今も戦闘機による機銃の跡が残っている。

 菊池武光像の前で写真を撮っているということは曽祖父は大刀洗の飛行場で働いていたのではないか。私はそう思い、会社の夏休みで帰省した際に大刀洗平和記念館を訪れた。


 記念館には大刀洗飛行場、大刀洗にゆかりのある人たちの写真がたくさん展示されている。その中に曽祖父の写真があるのか探してみた。

 だが曽祖父の写真はなかった。

 資料室に何か名簿のようなものがないか気になったが、閉鎖中になっていた。

 翌日には東京に帰らないといけないため曽祖父についての調べることはできなかった。

 そして1年後の夏休みに帰省した際、大刀洗平和記念館に電話をした。

 「すいません、今自分の曽祖父について調べているんですけど大刀洗公園の菊池武光像の前で曽祖父が写真を撮っているんですね。それで大刀洗飛行場で働いていた可能性があるので写真をそちらで見てもらいたいんですけれども」

 「わかりました。本日担当者がお休みなので明日にこちらから折り返しお電話差し上げてもよろしいでしょうか?」

 「はい。では明日よろしくお願いします」

 明日は東京に帰る日だ。飛行機の時間は14:30分。午前中に平和記念館に行かなければならない。

 翌日、私は母親が運転する車で大刀洗平和記念館へと向かった。

 入館料を支払い、受付で昨日電話したことを伝える。

 「すいません。昨日電話した者ですけども」

 「ああ、少々お待ちください」

 3分ほど待って、二人の女性が出てきた。

 「こちらにどうぞ」

 記念館に休憩所があり、机をくっつけ、椅子を用意してくれていた。そこに私と母親は案内された。

 「わたくしこういうものです。お電話ありがとうございます」

 担当者の1人が私に名刺を渡してきた。普段は名刺など渡される機会がない私は少し照れてしまった。

 もう1人の担当者も私に名刺を渡す。

 2人の担当者と向かい合う形で座った。母親が私の隣に座っていた。

 「この写真なんですけど」

 私はビニール袋に入れた曽祖父と関係がありそうな写真6枚を担当者に見せた。


 1枚目は59人ほどの軍服姿の男性が写っている集合写真。

 最前列は全員椅子に座り、軍刀を立てている。帽子をかぶっているため、顔が あまりはっきりと見えない。担当者の二人の女性もこの写真はわからないということだった。


 2枚目は14人の男性が写っている写真。

 1人が軍服で、ほかの13人は白い作業着のようなものを着ている。

 その中の1人が複葉機の模型を持っている。

 この写真は裏に文字が書かれている。

 ・昭和四年十月四日

 右端に日付が書かれ、裏に写真に写った人物の名前が書かれているが達筆で、少し読むのに時間がかかる。名前の上に1もしくは2の数字が書かれているが、これが何を意味するのか分からない。

 「昭和四年」

 担当者の1人の女性が驚いた様子だった。

 「珍しいですね。ここの飛行場は大正時代にできたんですけど。昭和4年の写真は珍しいですね」

 もう一人の担当者が言う。

 「工員かな」

 すると、それまで黙っていいた母親が

 「なんか技術関係のことをやってたみたいなのは聞いたんですけど」

 「ええ、おそらく技術関係だと思います」

 知っていたのなら教えてくれてもよかったのに、と私は母親に対して思った。


 3枚目は12人の男性と1人の女性が写っている写真だ。

 12人は服装もバラバラで裏には名前も日付もない。この写真は何かの集合写真ということ以外、担当者にもわからなかった。

 この写真はわからないことが多い写真だった。


 4枚目は2枚目と同じで裏に昭和四年十月四日とあり、裏に名前が書かれている。

名前の上には1や2の数字が書かれているが、1人の人物は数字ではなく技と書かれている。

 なぜこの人物だけ技なのか理由はわからないが、先ほど母親が担当者に技術関係の仕事をしていたと言った時を思い出した。


 5枚目は12人の男性の集合写真。

 裏には何も書かれていない。最前列に座っている5人のうち、3人は軍刀を持っている。曽祖父は2列目で立っていた。

 この写真も3枚目の時と同様、詳しいことはわからなかった。


 最後の6枚目が電話で話した菊池武光の銅像前での集合写真だ。46人が写っている。菊池武光の銅像の横にはきれいな読みやすい字で、菊池武光像と書かれている。

 その集合写真の最前列、中央に曽祖父は写っていた。後列には15歳か16歳くらいのかなり若い男子がたくさん写っている。

 曽祖父をよく見ると、右胸になにかバッジのようなものが付いている。私は

 「この写真なんですけど、曽祖父の右胸に何かバッジのようなものが付いてるんですよ」 

 担当者の1人が

 「教官かな」

 と話すともう1人の担当者が虫眼鏡のようなものを取り出した。写真の拡大した部分が私にも見えた。裏には何も書かれていないため、これも詳しことはわからなかった。

 「もし、ひいおじいさまのことについて、詳しく調べたければ軍歴証明書を県のほうに問い合わせれば、そこでひいおじいさまの軍歴などが書かれていると思うので取ってはいかかでしょう」

 担当者の女性が教えてくれたが、軍歴証明書は孫にあたる母親までしか申請できないそうだ。

 この場合は母親にお願いするしかない。幸い母親も軍歴証明書をとることは嫌そうではなかった。

 「わかりました。じゃあ県に問い合わせてみます」

 「ぜひ、問い合わせてみてください。入館料も払っていただいてるので館内もよろしければご覧ください」

 私と母親は40分ほど館内を見て回った。途中で担当者の一人がどこに問い合わせればいいのか詳しく書かれた紙を持ってきてくれた。

 記念館を後にし、空港へ向かう。

 途中で昼食を済ませ、私は福岡発羽田行きの飛行機に乗った。

 

 9月に入り、いつも通り会社に出社し駅前のスーパーで買い物を済ませ家のポストを見る。

 中に母親から送られた封筒が入っていた。

 私はすぐに軍歴資料だと思った。

 急いで家に入り手洗い・うがいを済ませ、封筒を開ける。

 中には戸籍謄本のコピーと死没者原簿のコピーが入っていた。

 夕飯を忘れ、私は2枚の紙に書かれている文字を一字も見逃すまいとじっくりゆっくり読んでいった。

 






































 


 























 

 


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