Ⅰ 未知の細胞 〜朝日奈綾の章⑦〜
8
闇の中に聳え立つ摩天楼の群。
仰々しく飾り立てられたネオンが何処かアルカイックな感じを漂わせている。
そこから地上を見下ろすと、無数の蟻がうごめいているのが見えた。
男を待っている者、はたまた女に待たされているモノ。
酔っ払って喧嘩を吹っ掛けている者や、ツブレてしまって仲間に頬を打たれている者もいる。
大勢集まる場所らしく、空が暗みを帯びてきてもどんどん数が増えてきていた為、ますます蟻のように見えた。
「待ったぁ!!」
「遅いよぉ」
「また…………カバン持ってよ!」
「な……なんでぇ!専務のバッキャロー!!!……ヒック!」
「おぅ!?テメェ!!」
「あら岸本さん、またまた来てくれたのね!」
多かれ少なかれ、人には楽しみというものがある。
闇で蠢くかれらにも楽しみというものはあり、今まで生きて来た経験から、その楽しみを十にも百にもする術などは、誰しも自分なりの方法で知っている。
酒を飲んで更にハイになるもの。
買い物をして楽しむもの。
異性とのスキンシップに繰り出すもの……。
そのため蟻は苦もなく働き続ける事ができるのだ。
そしてそんな中、楽しみなどではなく、大きな幸福を背負って走る一人の男がいた。
彼の前では、酒を飲んでハイになる事も、買い物で楽しむ事も、他の異性とのスキンシップをする事も、全てが無駄であり、全てが白けて見えた。
なぜなら彼は、つい数分前に妻がもうすぐ出産するという報せを、病院から受けとったばかりであったからだった。
あれからどれくらいの年月が経っていただろう。
手術が成功した後、比較的早く退院できた朝日奈綾は、やはり半年以上も入院していたため、卒業は新堂早奈子から一年遅れとなった。
二人は別々の会社に入ったが、もちろんその後も交際は続き、翌年には二ヶ月の同棲を経て結婚していた。
それから二年……。
当分の間、子供は作らず二人で暮らしていたが、去年の七月に妊娠三ヶ月である事が分かり、今日の二月十七日に至っていた。
先程、病院からの一報を受けた綾は、今、まさに幸せの絶頂にいたのであった。
綾が病院に駆け付けた頃、まだ早奈子は分娩室の中にいた。
「あ……朝日奈ですが! つ……つ、妻は!?」
ナースセンターに駆け込んで早奈子の様子を伺おうとすると、要領を得ている看護婦に連れられて、早奈子のいるらしい分娩室の前までやって来た。
すでにそこには、父の浩二や早奈子の両親も待機していた。
「おぉ!リョウ君!」
「あ……お父さん、お母さん。ご無沙汰しております。早奈子さんは?」
「まだ中だ……」
答えたのは浩二であった。
分娩室の扉へ振り返ると、手術中を表すランプが煌々と輝いていた。
「双子なんですって?」
早奈子の母親が微笑みを蓄えながら、綾の元へやってきた。
「ハイ!そうなんです。初産で双子なものですから、ちょっと不安で……」
「そ~ね~。でも、きっと大丈夫よ。こういう時は信じてあげる事が一番大事な事ですよ。」
「ハイ!」
ふと、視線をずらすと浩二がそわそわ、そわそわと歩き回っていた。
みんな一葉に、生まれ来る新しい生命に期待を寄せ、その喜びを分かち合っていた。
しかしそんな時……『何か』が起こった。
9
ほとんどの人は皆、昨日も一昨日も何か形を変えながら家族の団欒を楽しんでいたのだろう。
明日も明後日も同じく形を変えながら家族の団欒の中で生きていくのであろうか?
一ヶ月後も、一年後も……。
人は未来に対して、明るい光りを見つける事で明日を生きようと考える。
明日の光り、明後日の光り。
一ヶ月後の光り、一年後の光り……。
しかし、その光りを見失ってしまった時、人はどうするのであろうか?
修復不可能な程大きく狂ってしまった明日を前に、人はどこまで正気でいられるのであろうか……。
何やら先程から、分娩室の中がやけに騒々しい。
妻の身に何か起こったのだろうか?
綾が一抹の不安を感じ始めた時、
「キャアアアアーー!」
と、中から耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
「ぅわああぁぁっ!!」
「アァッ先生!?……イヤアアアアッ!!!」
「た……助けてくれぇぇっ!!」
綾の背中に悪寒が走った。
綾は分娩室のドアを壊れんばかりにドンドンと叩いた。
「どうしたんですか!?何があったんですか!?……父さん!中の様子が!?」
浩二も駆け寄り、ドアを開けにかかったが、鍵は開く事もなく、依然として悲鳴も衰えない。
「助けて……わああぁぁっ!!」
「キャアアアアァァッ!?」
「来ないで……イヤアアァァァ!!」
飛んでくる悲鳴の中に、早奈子の声が確認できた。
「父さん!どいて!!」
浩二が振り返ると、綾が廊下の椅子を持ち上げているところであった。
「リ……リョウ……いくらなんでもそれは……」
「早奈子ぉぉぉっ!!」
綾は椅子ごとドアへ突進していった。
そして激しく叩きつけ、自分も肩からぶち当たった。
ドアは勢いよく開き、頭から分娩室の中に飛び込んだ綾の目の前にあった物…………それは食いちぎられたかのような人の手であった。
「うっ……うわああぁぁぁぁぁっ!!!」
転がっている人の手の向こうにあるのは、一つ孤独にさすらっている眼球。
右半分が失くなって中の脳髄が零れ出てしまっている頭。
まだ少し鼓動の残る、看護婦付きのえぐり出された心臓。
そしてそれらを全て包み込み、無限に拡がる血の大洋。
そこは下手な凶人でも起こせないような凄惨な殺人現場であった。
「ぅ……ぅゲエェェっ!?」
血液特有の鉄臭さ、生臭さが鼻を突き、込み上げてくる嘔吐感と恐怖感とで、綾はパニックの境地に立っていた。
「うわあああ!!」
「キャアアアア!!」
綾の後から入って来た浩二や早奈子の両親も、あまりの光景に驚きを隠せないでいた。
それでもまだ若い綾に比べ、幾分浩二の方が周りに目を向ける余裕があった。
先程まで普通だったはずのこの場で何が起きたのか?
誰がこんな事をしでかしたのか?
そしてその誰かは今どこにいるのか?
(窓が破られた形跡はない……か……。)
入口は今入ってきたこのドアしかない。
となると、まだこの部屋のどこかに犯人がいるはずである。
一見した所、生存者はほぼ絶望的であるように思えた。
茫然自失の綾をよそ目に、浩二が辺りの気配を探っている時の事であった。
「何だ……アレは……!?」
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