Ⅰ 未知の細胞 〜朝日奈稜の章⑤〜

胸倉を掴まれた副院長は若干の焦りを隠しながら、冷静に対応してみせた。


「朝日奈さん……どのみち、世界中何処へ行ってもそれしか残された道は……ないでしょう。


今、島崎教授に連絡を取っています。


教授御本人にお話だけでも伺ってみませんか?

それから判断して下さい。

いずれにせよ、実際にやるかやらないかの最終判断は、綾君本人にインフォームドコンセント(説明と同意)を行ってからの話ですから……」





浩二と副院長の間に軽い一騒動があった次の日の朝の事であった。


今日はいつもより、院内に緊張感が張り詰めているように感じられた。

その緊張感の漂う院内の廊下を三つの影が、ある一室に向かって移動していた。


担当医である副院長と、かつて綾の母親である美樹の手術を行った院長と……そして名古屋大学医学部教授、島崎明盛氏の三人であった。



     6



「……つまりそういう訳なのですの……」


綾は麻酔でも効いているかのようなボーッとした表情で、島崎教授の顔を見つめていた。

隣では浩二が心配そうな面持ちで綾の事を見つめている。


「どうでしょうかの?

確かに今すぐ結論を出す訳にはいかんでしょうがの、しかしこの事だけは覚えておいてもらいたいのですの!

確かに、まだ人での手術というのは行われておりませんがの……しかし、もうこれ以外に君を助ける方法はないのだという事をの……」


「一つ聞いてもいいですか?……」


しばしの沈黙の後、多少自分を取り戻した綾が口を開いた。


「確かにそれが本当なら……教授の発見した遺伝子療法は素晴らしい……と思います。


でも、新聞やテレビで大きく取り上げられている訳でもない……なぜ、僕ら一般市民に知らされてないんですか?」


その質問に対して答えたのは院長であった。


「それはですね、まず第一にあまりにも話が突飛すぎるという点があげられます。


第二に、これが一般市民に知れ渡ったらどうなるか?


今現在、この国だけでも数多くの難解な遺伝病患者が存在します。

HIVなどのウィルス性の者にも対応した療法なので、それも含めると更に数が跳ね上がります。


……パニックどころの騒ぎでは収まらなくなる可能性が高いのです。」


再び深い沈黙が辺りを包んだ。

最初に口を開いたのは島崎教授であった。


「あの会見の後……政府当局の者にその場の全員が、一時身柄を拘束されましての。

当局の管理下に置かれる事になりましたの。


その後、会見の記録は有名大病院のみに配られたというわけですの。

まぁ、何処かの新聞には小さい見出しで載ってしまったみたいですがの。」


(あぁ、あの時の……)


浩二は先日の新聞に載っていた記事の事を、今になってようやく思い出した。


「……全ての病気に対応した……新しい治療法…………」


幾分落ち着きを取り戻したのか、綾がボソッと呟いた。


「本当に……僕は助かるんですか?……」


暫く考え込んでいた島崎だが、副院長に目配せすると、


「大丈夫です!……必ず!必ずリョウ君は助かります!」


と、島崎に代わり副院長が必死な面持ちで請け負った。

その時……島崎がひそかにほくそ笑んでいる事に気付いている者は、誰一人としていなかったのだが……。



     7



「父さん……俺、遺伝子治療受けるよ……」


数時間前に出たその一言の為、綾は今、手術台の上に横たわっている。

台の傍らでは珍しげな機械が何台も並んでいた。


更にその周りでは数人の医師達も、せせこましく動いていた。


その様はまるで、古代アステカ文明の民が、神に生贄として人間を差し出すシーンを近未来風にしたかのように見えた。

見る者によれば、このまま台の上に横たわる生贄の心臓を、えぐり取るかのようなイメージが湧いてきたかもしれない。


執刀医は院長が行っており、副院長が助手を務めている。


二階部分にある見学席では、島崎明盛教授を筆頭に、医学会や、政界のお偉方までが見られた。


もちろん、麻酔が効いて眠っている綾にはそれが分かるはずもないし、もし、目を覚ましてガラスの向こうを見ても、島崎教授と村浜総理大臣ぐらいしか見分ける事は出来なかったであろう。


緊張感が漂う中、数人の医師達の手によって、前代未聞のオペが進んで行こうとしていた。






白い。


そこはとても白い。


そしてとても甘い香りがぷぅんと漂っていた。


全ての物がふぅわりと軽く、悩みや苦しみでさえもズシンと乗しかかっては来ない。


辺りには名も知らぬ小さく可憐な花々が一面を占めており、右手に五、六歩程歩いた所に大きな木が一本聳え立っていた。

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