第3話 発動(1)
「ねえ、荒戸君。これ、地震?」
涼風が不安げな声色で俺に尋ねてきた。
机が振動し、あらゆるところからカタカタと音が鳴り始める。それら不協和音は塊となり、地雷が炸裂したような音を発生させた。ガタリと大きく教室が揺れたかと思うと、縦の振動が俺の足を襲った。
今はそれほどの恐怖を感じないが、今後そう遠くない時間に起こるであろう嫌な予感を想起させる動きを教室は見せ始めた。
額から流れてくる汗を腕で拭い聞こえないふりをして、涼風の問いかけをやり過ごした。
回答なんてできるはずもない。
俺のせいでこのような事態になっているのはわかっている。だが、このような大きな揺れなど想定していなかった。
これが地震か何かはまったく判別がつかない。いや、むしろ俺の妄想だから、何も起こらないと思っていたくらいだ。
足が底なし沼に嵌まったかのように沈む。
教室内の至るところから悲鳴があがった。みんな机にしがみつき、必死に自分の姿勢を保とうとしている。
女子生徒たちのスカートは捲り上がり、今にも下着が見えそうだ。
「どこまで行くんだ、これは?」
じっと俺を見つめ続けるキャンセルに向け確認した。
声が勝手に震える。
下に落ちていく速度は、既に絶叫マシーン、さらに限定するのであればフリーホールにでも乗っているかのようなスピードになっていた。
もはや立っていられないほどの重力が、俺の膝に伝わってきている。
「どこって、それは異世界だよ。きみが願ったんじゃなかったのかい?」
アンティーク調のそのレトロ・ロボットは訥々ときき返してくる。
「いや、願ったといっても、これは……」
その先に言葉を続けようとしたが、声にならなかった。
窓の外へと目をやった。
どのように落ちているのか把握しようとしたのだが、それは叶わなかった。
外は、黒という表現以外見つからないほど空間が黒に塗り潰されていた。普段過ごしている夜に、多少光がまじっていることがこの時初めてわかった。
「教えてくれ、キャンセル。俺たちはこの先どうなるんだ?」
苦し紛れのような声で、俺は叫んだ。
だが、突然発生した風切り音のせいでその音声はほぼカットされ、自然と声は小さなものとなった。
「きみたちのいう異世界だよ。さっきも言った通りね」
キャンセルは平然とした口調で言う。
落ちている感覚が欠如しているのかと訝りたくなるほどの態度だった。
「それはわかっている。でも、これはそんな事態では――」
途中まで言って、俺は言葉を切った。
「荒戸君、いったい誰と話しているの?」
と、涼風が声を荒げ尋ねてきたからだ。
涼風の透き通るような白い肌が、混乱をきたしているのか今は全身紅潮し始めていた。
宙に浮き振り乱れる普段は綺麗に整えられた茶色がかったボブストレートの髪の毛。彼女の引き攣った頬は、今の奈落の底に落ちるような速度を感じさせた。
一方の俺も、朝整えた七三分けの髪がその奈落の落下速度のせいで逆立っているであろうことは、引っ張り上げられる額の肌感覚でわかった。
どこからともなく来る風圧が、俺の頬を撫でつける。
それがさらなる恐怖を俺の心に生んだ。
「何……これ?」
震えた声が耳に入ってきた。
涼風の前の席の羽峰燿だ。
彼女は学級委員を任されており、その職域が性格を表すかのように常に冷静な態度で、およそこのような狼狽えた挙動を示すような人物ではなかった。
それを証拠に、先程まで皆が揺れで騒ぐ中、彼女だけは何事もないかのように机の下に身を隠すよう周囲に呼びかけていた。
だが、今は、綺麗な顔立ちを象徴する彼女の切長の目は、何か人外の物でも見たかのように大きく見開いていた。
初めは俺を見ているのかと思ったが、少し目の焦点が俺からずれているように思える。
というより、俺みたいな身長175センチメートル以下の普通の男が、彼女にそのような目で見られることはないはずだ。
どちらかというと、虫ケラのように思われているのが関の山といったところだろう。
束の間の後、揺れはまだ続いているが激しくはなくなり、それに追随するかのように落ちる速度が徐々に緩くなった。
やがて、観覧車がホームに戻る直前くらいのスピードになり冷静に物事を考えられる程度にはなったその時、
「え、人外の物?」
俺は思考の中で出てきた言葉をもう一度口にした。
「荒戸君、そこにいたら危ない……と思う」
羽峰が声をかけてくる。
彼女の視線の先を追ってみると、そこには間違いなくキャンセルがいた。
「ねえ、荒戸君、それから離れた方が……」
羽峰の手前にいる涼風も同様の反応を見せる。
額が真っ青になっていた。
やはり、羽峰にも涼風にもキャンセルが見えている。
俺の妄想ではなかったということなのだろうか。
「そろそろ着くよ」
キャンセルが声をかけてくる。
今までと違いそれは、明らかに俺だけを呼びかけの対象にしたものではなかった。
「どこに着くの? それより地震がまた酷くなったら、今度はどうなって……」
そう言って、涼風が声を震わせる。
「きみたち人間は、何でそんなに臆病なんだい? 地震だとしたら、建物は既に崩れているはずだろう。それに地面が割れて落下したのだったら、もうとっくの昔にペシャンコになっているよ」
少し諌め気味な内容の言葉を返すと、キャンセルは涼風の方へと寄っていった。
そうしている間にも、緩やかになっていた揺れがさらにおさまっていく。
この分だともうこれ以上落ちることはなさそうだ。そういった感想を胸に抱くほど、学校の動きは微弱になった。
そして、程なくして完全に振動は止んだ。
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