鯉に恋して小粋な濃い鼠

十余一

鯉に恋して小粋な濃い鼠

 伝染病の流行に際して「アマビエ」なんてものがにわかに話題になりました。鳥のくちばしに魚の鱗、あれも一種の人魚でございましょうか。

 さて、本日話しますのは人魚についての物語。美しい歌声で水主かこを惑わし船を沈め、肉を食べたら不老長寿になり八百歳まで生きられる。そんな人魚にまつわる伝説というのは古今東西様々にあります。しかし幻想めいたものではなく、現実的な薬としても扱われていたのでございます。


 人魚の骨は下血を止める、つまりは胃潰瘍や大腸炎を治す薬とされていたのです。更には当時不治の病とされた疱瘡ほうそうにも効果があったのだとか。それだけの病気を治せるのですから当然貴重で、偽物も多く出回っていたようです。では、前置きはこれくらいにして。



 時は天保、葛飾北斎による富嶽三十六景が版行された頃。霊峰富士を望む相州そうしゅう大磯宿おおいそしゅくでの話でございます。


 東海道の宿場町といえど、西にわずか四里16km行けば小田原宿。箱根越えに備える旅人は皆そちらへ泊るため、大磯宿は長閑な時間が流れておりました。

 山と海に挟まれた細長い土地に、六百余軒の家が並び立つ街。その南本町に旅籠を構える波多野屋の若旦那は、藤紫の小袖に黒紅の羽織で今日も呑気に外歩き。本通りから脇道へ逸れ、海前寺の門前を通り漁師が忙しなく働いている浜辺へ、浮ついた様子でふらふらと歩いて行きます。


「若旦那は今日もお出掛けかあ」

「ああ、手なんて振ってらあ」


 若旦那が手を振り、漁師たちも手を上げて応えました。この男、仕事熱心ではないため家の者からの評判はあまり良くなかったのですが、その朗らかな性格故か街の人たちにはそれなりに好かれているのです。


 照ヶ崎てるがさきへ着いた若旦那は水面から顔を出した岩場を器用に渡り、先端の一際大きな岩へ腰かけました。そうして一日中、大層楽しそうにしているのです。


「いったい何が楽しくて日がな一日海を眺めてるんだろうなあ」

「こないだチラリと見えたんだがな、岩陰にもう一人いるようだったよ。つまり……」


 仕事の手を止めた漁師はそこで言葉も一旦止め、わざわざ自慢気な顔を作り続きを述べます。


「若旦那はね、恋してんだよ」

「鯉?」

「馬鹿! 恋だよ、恋! 男と女のあれやそれだよ」


 微笑ましいと見守られていた若旦那の散歩は、人影を見かけた漁師によって密会の噂へ早変わりでございます。親にも言えぬ相手とはいったい誰なのか、もしや不義密通か、否あの若旦那に限ってそんなことをするはずがない、ではどこぞの飯盛女めしもりおんなを身請けする準備でもしているのか。風聞の広まりのなんと早いこと。数々の憶測が飛び交って止まないのです。


 そんな折、若旦那が突然の病に倒れます。激しい下り腹に発熱、必死の看病や加持祈祷も実を結ばず今夜が峠かと家は暗く静まり返りました。そこへ訪ねてきたのが、あの日逢瀬を目撃した漁師でございました。


 漁師が言うには、夜更けにか細い女の声が聞こえてきたというのです。


「どうか戸を開けずに聞いてくださいまし。波多野屋の若旦那様がご病気と伺ったのです。私に代わり薬を届けてくださいませんか。何卒なにとぞ、何卒お願い申し上げます」


 その声のあと恐る恐る戸を開けると、小さな白い欠片を乗せた花貝、それから何かを引き摺ったような跡に、美しいとは言い難い鱗が点々と落ちていたのでした。


 そういえば、前置きで一つ申し忘れたことがございます。人魚の効能を紹介した書物には、その容貌も詳細に記されていたのです。「頭は婦人に似ていて以下は魚の身体。粗い鱗は浅黒く鯉に似ており、尾にはまたがある」と。


 さて、話を若旦那の病に戻しましょう。漁師によって届けられたこの欠片、医者の見立てによるとどうも指の骨らしい。舶来の希少な薬「倍以之牟礼へいしむれ」、つまり人魚の骨ではないかというのです。

 そして、藁にも縋る思いでその象牙よりいくらか薄い色をした欠片をき飲ませると、不思議なことにたちまち回復したのでした。


 一命を取り留めた若旦那は事情を聴くや否や、布団を蹴とばし身支度を始めます。きっと、大切な人に病み上がりのみすぼらしい姿を見せたくなかったのでしょう。髪を整え、藤紫の小袖を纏い、医者が止めるのも聞かず空が白み始めた街に飛び出したのでございます。


 息を弾ませた若旦那は、裾が濡れるのも構わず海へ分け入ります。そうして身を賭して我が身を救ってくれた愛しい人を抱きしめたのです。若旦那の背に回された女の手は、小指が欠けておりました。切り指は愛の証でもあったのでしょう。


 二人は朝日が照らす金色こんじきの海に消え、その後の消息は後世には伝わっておりません。ただ、若旦那の小袖は海水を吸って濃い鼠こいねずに染まり、そこに緋色の帯がよく映え、まるで粋な腹切帯はらきりおびのようでございました。


 人魚のひれが足となりおかで添い遂げたように、人間にえらが生え海で結ばれるというのも、なかなか良いではありませんか。

 海の底と陸では時の流れも違いましょう。どうか底引き網で無粋に二人の仲を邪魔しないよう願います。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯉に恋して小粋な濃い鼠 十余一 @0hm1t0y01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ