第6話 あなたはわたしの、たからもの
ニナが家出をしてから、五日が経っていた。翌日にニナのメイドの一人がこっそりと訪れ、ニナの父親ーーバジーリオが、学園にニナの病欠届を出したという報告を受けた。ニナが家出をしたと知られてしまうのは、相当都合の悪いことのようである。尤もニナも、通学をしたところで今は父親に見つかってしまうことは間違いなく、またレアンドロも何を企んでいるかわからないという理由から病欠届はむしろ都合が良いことであるのだが。
せっかく学園生活が楽しくなってきたという時期に、この有様である。ニナの心は、酷く重かった。
「いっそ本当に勘当されてしまえば……」
「ニナ、気持ちはわかるけど焦っちゃ駄目よ。お母様への連絡は頼んでおいたのでしょう?」
友人を心配して、ローザとリオネッラの二人もサロンにやってきている。四人は今後のことについてどうするべきか、頭を悩ませていた。
「ニナのお母様が戻っていらしたら、状況は変わりそうですの?」
「……わからないのです。婚約のときはお母様も喜んでいたように思います。ただお母様は、殿下の本性を知らないはずです。ここ数年はずっと、他国と家とを往復するような生活を送っていましたから」
「あなたのことだから、今までは心配させまいと助けを求める手紙も出さなかったんでしょ? 手紙の内容なんて、確実に父親に内容を確認されているでしょうし」
「はい。手紙の内容は必ず見ていました。……そもそも途中からは、助けを求めるとか、そんな気力すらなくなってしまっていたのですけど」
「うーん、それじゃとりあえず……何らかの連絡が来るまではここに留まって……」
四人があれこれ言葉を交わしていた、そのとき。
ガシャン! と何かが割れる音が聞こえ、四人が一斉に顔を上げた。
「何かしら?」
「店の方で何か割れたような……ちょ、ちょっとなんか騒がしくない?」
誰かが怒鳴るような声と、女性の悲鳴。少しずつはっきり聞こえてくる声に、ニナの身体が強張った。
「俺の娘がここにいるはずだ! 早く出せ! 出さないと誘拐犯として訴えてやるぞ!」
「おいお前ら、王子であるオレの命令が聞けないのか! こんな店、すぐにでも取り壊せるんだぞ!」
誰か、などとはもはや言うまでもない。レオンツィオ、ローザ、リオネッラの三人は些かげんなりした表情になって、ローザに至ってはそれはそれは深いため息をついた。
「殿下って本当に同い年なのかしら。あまりに子どもだわ」
「精神年齢が幼いのよ。だからニナのことを束縛して、自分は好き勝手やってたんでしょ。これは一度きっちりお灸を据えてやらないと」
レオンツィオが指をポキポキ鳴らしつつ、サロンを出ようとする。ニナが慌てて立ち上がって、レオンツィオの後を追った。
「お、お待ち下さい! わたし、わたしも行きます!」
彼らへの恐怖心やトラウマが消えたわけではない。だがこの場は自分が出なければならないと、ニナはわかっていた。
今このときこそ、彼らとの決着をつけるときなのだと。
「――大丈夫? ニナ」
「はい。……本当はまだ少し震えてしまいます。心臓もすごく鳴っていて……でも、行かなきゃいけないんです。わたしが、幸せになるために」
胸の前で合わされた手は、小刻みに震えている。レオンツィオはその手に自分の手を重ねて、ぽんぽん、と軽く叩いた。
「アタシがついているわ。胸を張って行きましょ」
「……はい!」
その言葉は何よりも、力強いものだった。
「わたしはここです!」
サロンから続く扉を開き、ニナは大きな声を上げた。
ファータ・フィオーレの店内はテーブルや椅子が倒されて、装飾品や花がいくつも散らばっていた。店員の何人かは壁の方に集まっており、バジーリオとレアンドロに対峙するようにマダム・アリーダが立っている。
「ニナちゃん、駄目よ! この男たちは危険だわ!」
レアンドロは落ちている花をぐしゃりと踏みつけると、アリーダを強く押しのけて前に出た。アリーダの身体を、店員たちが慌てて支える。
「見ろ、バジーリオ! お前の娘の浮気現場だ! オレの言った通りだったろう!」
「ニナ……! この、馬鹿者が! 俺はお前をそんなあばずれに育てた覚えはない! 今すぐ土下座して、王子殿下に謝罪するんだ!」
「お、おこ、っ、お断り、します! わたしはもう、あっ、あなたたちの言いなりには、なりません!」
呼吸が浅く荒くなり、目元が熱くなってくる。泣くまいと必死に堪え、ニナは唇を強く噛んだ。
「親に逆らうというのか!」
「お、お父様! お父様は王家に嫁ぐことが、わたしにとっての幸せであるとおっしゃいました! だけれど、だけれどわたしは今まで一度たりとも、殿下の婚約者であることに幸せを感じたことなど、ありません! 殿下は王子であるのを良いことに、わ、わたしに友人を作るなと、お洒落をするなと命令しました。自分より目立つな、自分より優秀でいるな、そんなことをもう六年も言われ続けてきたのです!」
ニナの悲痛な叫びは、余りに痛々しく。ローザとリオネッラは顔を歪め、口元に手を当てた。
「そしてご自身は、デーリア・カルデラーラ男爵令嬢と懇意にして……教室ではべったりと寄り添い、放課後は、で、デートをしていると仰っているではありませんか! わた、わたしを愛するつもりはないと、そうも仰っていましたね。デーリア様の方が良い女だと、自分を理解してくれると、そんなふうに!」
バジーリオの表情が、微かに変わった。怒りの形相から驚きのものに変わって、視線をニナからレアンドロへと向ける。
「わたしは努力をしました。殿下もいつか、変わってくれると。愛し愛される関係でなくても良い、お互いを尊重しあえればそれで充分だと……だけれど殿下、あなたはわたしを良いように利用することしか考えていなかった! 一度として歩み寄る素振りを見せなかった!」
常にないニナの剣幕に、レアンドロも言葉を失う。焦ったような表情で、視線をうろうろ動かしていた。
「わたしもついには諦めて、無気力に殿下の言葉に従う日々でしたが……せめて一度くらいはしっかり向き合って話をしないと駄目だと思い直しました。けれどそれも殿下は、デーリア様とのデートがあるからと断りました。……もう、たくさんです。自分勝手な命令しかしない婚約者も、わたしの幸せと言いながら王族との繋がりだけしか求めていないお父様も……わたしは、いりません!」
は、は、と肩で息をし、アメジストの瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちてくる。感情の高ぶりから、抑えることの出来ない衝動だった。
バジーリオはショックを受けたような顔で立ち尽くしていたが、レアンドロは怒りに表情を歪ませ、大股でニナの近くまで歩み寄っていく。
「貴様、言わせておけば……! 貴様は一生、黙ってオレの言うことを聞いていればっ」
バチン! と。レオンツィオの平手が、レアンドロの頬を打った。
レアンドロの身体は横へ飛び、そのまま床に倒れ、何が起きたのか理解できない彼は目を丸くしていた。
「ねぇあんた、もっと勉強した方がいいわよ。台詞が三流」
手をひらひらとさせて、レオンツィオが言う。
「あ、ちなみにこれは学校で殴られたお返しね。これでおあいこってことで」
ふふ、と笑って、それからレアンドロに歩み寄ったレオンツィオは口元だけに笑みを携えたまま言葉を続けた。
「あんたがニナにしたことを思えば、顔の形が変わるくらい殴ってやりたいけど。でもアタシは優しいから、踏み止まるわ。良かったわねぇ」
凄みのある表情に、レアンドロは恐怖を覚える。だがレアンドロという男は、どこまでも愚かで。自分の非を認めることの出来ない性分は、どこまでも彼に惨めな行為をさせてしまった。
「ふ、ふざけるなよ、オレは王子だ、王子なんだぞ……! 王族に手を上げて、無事で済むと思うなよ! 今すぐ父上に言いつけて、お前の家とこの店を潰してやる!」
「――いい加減にしないか、レアンドロ」
声を上げたのは、レオンツィオではなく。ましてや、ニナやアリーダでもなかった。
「あ、兄上……なぜ……まだ国外にいるはずじゃ……」
第一王子、アンドレーア・バルトリッチ。レアンドロの一番上の兄であり、第一王位継承者であった。後ろに数人の護衛、それから一人の婦人を連れて現れた彼は、じろりとレアンドロを見下ろしていた。
「! お母様!」
「ニナ!」
後ろについていた婦人は、デボラ・ミネルヴィーノ公爵。多国語に精通しており、今は第一王子に付き添い国と他国とを行き来している。
デボラはニナに走り寄ると、ニナの身体を強く抱きしめた。
「ニナの手紙を見て、本当に驚いたわ。帰ってくるのが遅くなってごめんなさいね。それにたくさん辛い思いをさせて……本当に悪いことをしたわ。私が家にいなかったばかりに……戻ってきたときに、もっとあなたとの時間を取っていれば、こんなことには……! ごめんなさい、本当にごめんなさい、ニナ」
涙を零しながら謝罪を告げる母に、ニナの瞳からもまた涙が溢れ出す。すがるように腕を伸ばして、デボラの服をぎゅぅと握った。
「お母様……!」
抱き合う二人の姿に、バジーリオが酷く情けない声で、名を呼んだ。
「デボラ、」
ぴくりとデボラの肩が震え、ゆっくりと顔が向けられる。ニナの身体をしっかり抱き寄せたままデボラは背筋をすっと正し、夫であるバジーリオへ怪訝な眼差しを向けた。
「五年」
「え?」
「五年です。私があなたに、王子殿下の手伝いをするためにどうしても家を空けなければならないから、その間公爵家を守って欲しいと頼んだ期間は。あなたは以前こそ高い爵位への憧れが強かったですが、私と結婚してからは爵位が高くても決して楽なことはないとわかっていたはずです。ニナと王子殿下の結婚も、ニナのためと言うから了承したというのに……私はずっと信じていましたよ、あなたから届く手紙を。家には何も問題はない、ニナと王子殿下も愛を深めているようだという内容を。――えぇ、ニナの手紙が届くまで、信じていましたとも」
「で、デボラ、それは」
「まさか……まさかあなたがニナの自由を奪っていたなんて。王子殿下と結託して、ニナを苦しめていたなんて」
「ち、違うんだデボラ、本当にニナのためを思って……お、オレはてっきり、二人は仲良くしているものだと思ってたんだ! ニナが恥ずかしがっているのだとばかり……」
ニナはデボラの服を掴む手に力を込めて、より一層強くしがみついた。それがニナの、父へ対する否定の行動であることはすぐわかる。
レアンドロがしているニナへの仕打ちを、彼が知らなかったはずはない。浮気については、先程知ったばかりのようであるが。そもそも彼ははっきりと言っていた。ニナの、自分を尊重しない相手と結婚することは果たして幸せなのかと言う問いに、「王家に嫁げること以上の幸せはない」と。
それはニナの幸せではない。王家との繋がりを得た、自身の幸せだ。
「手紙を受け取った私は、すぐに王子殿下――アンドレーア様に確認しました。レアンドロ殿下がどのようなひとであるのか。ニナと婚約したばかりの頃は、まだやんちゃな盛りだと思って微笑ましく思っていましたが……そのまま年だけを重ねていたとは、思いもよりませんでした」
デボラの言葉に、レアンドロの表情が歪む。デボラの眼差しには蔑むような、その中に憐れむような感情もあって。握った拳が震えて、怒りと羞恥に顔が熱くなった。
デボラはアンドレーアにニナの状況を話し、すでに国境付近にいた彼らは予定より早く国へと戻ることになった。本来なら国王に帰国の挨拶と報告をするのが常であるが、今回はまっすぐファータ・フィオーレに向かったのだ。
「もし……もし少しでも私たちの帰国が遅ければ、あなたはニナに何をするつもりだったのですか? レアンドロ殿下と共に、ニナをどうするつもりだったのですか! あぁ、想像するだけで恐ろしい……もうあなたにニナと、公爵家を任せることは出来ません」
「! デボラ、お、俺が悪かった! ニナを幸せにしたい余りに、気が急いてしまったんだ! だからその、こ、今回のことは、えぇと、だな……」
「言い訳は結構です。詳しいことは家に帰って執事長に伺います。今後のことは、それからゆっくりお話しましょう」
その声に、慈悲はなかった。どんな言い訳を並べようとも、バジーリオのしていたことを許す気はない。デボラの声にはそんな想いが込められていた。
バジーリオはすっかり消沈してうなだれ、その場に膝をついてしまった。
デボラはすぐにまたニナに向き直り、優しく抱きしめ頭を撫でる。その二人の様子を確認したアンドレーアは、改めてレアンドロに向き直った。
「さて、レアンドロ。次はお前の番だ」
びくっ、と、レアンドロの身体が強く跳ねた。
「お前が今まで、好き勝手に過ごせていたのは何故だと思う? お前の行動に、誰も何も言わなかったのは、どうしてだろうね?」
「そ、それは……お、オレが王子だから、王族だからです! 王族に逆らう愚か者など、いるわけないじゃないですか!」
アンドレーアはため息をついて、首を振った。
「王族だからって、何をしても許される? そんなはずはないだろう。そんなことになっていたら、この国はとっくに終わっている。……でも、お前がそんな考えを持つようになってしまったのは、末の子だとお前をどこまでも甘やかし育てた母上のせいだ。母上は酷く後悔されていたよ。取り返しのつかないことをしてしまった、と」
「は、母上が……なぜ……」
「レアンドロ。お前が学園に入学するとき、母上がお前に何と言ったか覚えているか?」
強い喉の渇きを感じたレアンドロはごくりとつばを飲み、記憶を辿った。だけれど母親の言葉を思い出せない。――大した話ではないと、聞き流していたためだ。母上は自分にだけは優しくしてくれる。自分のしたことは何でも許してくれる。母上の言うことを聞かなくても、怒られることはない。そんなふうに思っていたから。
「周りの言葉を聞きなさい。周りの視線を感じなさい。自分がどう見られているか、しっかり意識すること。そうして、王族たるものがどんな人物であるべきか、しっかりと学ぶのです。……そう言っていた」
「つまり王妃様は、学園生活の中でレアンドロ殿下が変わってくれることを願っていたというわけね」
レオンツィオが言うと、アンドレーアはこくりと深く頷いた。
「ところがお前がしたことは、結局どうだった? ニナ嬢に理不尽な命令を強いて、自分は別の令嬢と懇意になって。自分以外の生徒は格下だと馬鹿にして、教員の言うことにも耳を傾けなかった。教師たちは何も言ってこないと思っていただろうが、最初はお前の態度に苦言を呈したものもいたはずだ。それがなくなった理由も、お前はわからないのだろう?」
「……オレは、っ、オレは王子です! あの学園の中ではオレが一番偉いんです! だから誰もオレに注意をすることなど出来ない! そんな権利はない! 教師たちもそれがわかったから、何も言わなくなったんでしょう!」
アンドレーアの瞳が細められる。呆れたような眼差しは、先程デボラが向けたものと似ていて、やはり同情めいた感情が見えた。
「本当にそう思っているのか?」
「ほ、他に、どんな理由があると言うんです! 王子のオレに意見など許されない! そうでしょう、兄上!」
「見放されたのよ、あんた」
「……何?」
信じられない、というような顔で、レアンドロはレオンツィオに視線を向けた。レオンツィオは深く息を吐いて首を振ると、腕を組んで口を開く。
「あんたが少しでも教師や周囲の人間の話を聞く態度を見せていれば良かったんでしょうけど。あんたは学園に入学しても尚、それこそ偉そうな子どもの態度を崩さなかった。あんたの態度は横柄で我儘で鬱陶しかったけど、教師に言わせれば他の生徒の勉強の邪魔になっていたわけじゃない。だって好きにさせておけば支障はないんだもの。サボってくれたほうが静かでラッキーだし、いたらいたでいないものとして扱えば良い。アタシたちはてっきり、先生たちは王家にビビって好きにさせてんのかと思ったけど、違ったみたいね」
レアンドロが入学するに当たって、恐らく王妃は前もって伝えていたはずだ。レアンドロの性格と、この学園に入学させる目的を。アンドレーアの話を聞けば、学園内における全ての出来事に納得が行く。
「その通りだ、アルバーニ卿。母上は教員たちに、レアンドロが少しでも話を聞いてくれるようなことがあれば、しっかり指導してやって欲しいと頼んでいたのだ。教師とて暇ではない、レアンドロ一人に時間をかけるわけにもいかないからな。言われた通り教員たちは、最初はお前と話をしようとしたのだろう。だがお前は教員すらも格下だと思い込んでいた。教員たちは早い段階で匙を投げた。もう自分たちの力でどうこう出来る相手ではない、とな。レアンドロ。王族とは常に民の話に耳を傾けるものだ。厳しい意見もあるだろう。耳が痛い話もあるだろう。だがその話を聞かなければ、国を治めることなど出来ない。それはたとえ王でなくても、王家に連なるものであるなら当然のことだ」
王家の三男坊として、異常なまでに甘やかされて育ったレアンドロは、王族にとっての大切な教養がほとんど抜け落ちていた。
幼い頃は、それを咎めるものは少なかった。いずれ成長し、王家のなんたるかを自覚するだろうと考えていたためだ。彼がここまで捻くれてしまうことを、誰も想像していなかったのだ。
「でも、……でも、オレはっ! オレはどうせ、兄上たちのように将来、国のための職務につくことなど出来ないのでしょう!? 兄上たちのような能力は、オレにはない! 国は優秀な兄上たちがなんとかすればいいのだから、オレは領地にでも行ってそこでニナと結婚し平穏に暮らす予定だった! だから、……だからオレは、この学園の中でくらい、一番上で……王族として、それくらい許されてもいいではないですか!」
レオンツィオの表情に怒りが滲み、ダンッ、と床を強く踏みつけた。レアンドロはその音に驚き、目を丸くする。
「婚約者であるニナと信頼関係も築けないで、何が平穏よ。馬鹿も休み休み言いなさい。王族として許されてもいい? いつまで寝言をほざいてるの、あんた。王族だからこそ無意味に権力を振りかざすような真似、するなっつってんのよ!!」
「うるさい、お前に何がわかる! オレにはそれしかなかったんだ! 優秀な兄と比べられて、どうしたって劣ってるオレにあるものは権力だけだったんだ!」
「劣ってると自覚してるならせめて、その兄に恥じない生き方をしなさいよ! ヤケクソになって八つ当たりみたいなことばかりして、ダサいったらありゃしない!
あんたの境遇には同情するけどね、その開き直りには心底吐き気がするわ!」
劣っていても、王位継承権が得られなくても。王家の一員として、胸を張って行きていく方法はいくらでもあったはずだ。それを探すこともせずに諦め、堕落の道を選び、王族の権威を振りかざして貴族や平民を格下だと嘲るような真似は、恥の上塗りに他ならない。
二人のやりとりを見ていたアンドレーアは、一つ深呼吸をして。まっすぐにレアンドロを見やり、言った。
「お前はただ気付くだけで良かった。自分の過ちを自覚するだけで良かった。そうして改めて周囲の生徒や教員、そしてニナ嬢と向き合えば、まだ王族として生きる道はあったのだ。だが、これまでのお前の発言で良くわかった。――何もかも、手遅れだったのだな」
残念だ、と、小さな声が漏れた。
「……兄上……?」
「これよりお前を、父上の元へ連行する。父上も母上もすでに、この状況をご存知だ。今日限りで学園からお前は除籍となり、ニナ嬢との婚約も解消。正式な手続きについてはまず、お前を父上の元へ連れて行ってからだ」
「は……? それは……どういう……」
「私に言わせるのか? お前にはもう、王族である資格がない。学園に通う時間が、お前に与えられたチャンスだった。本当なら卒業までの猶予があったはずだが、お前はやりすぎた。これ以上様々な場所へ被害が及ぶ前に、罰を下す」
レアンドロの表情は固まったまま動かない。何を言われているのか、頭が理解を拒んでいるようだった。
拗れに拗れてしまった性格は、もはや修正がきかない。アンドレーアはそう判断した。
「レアンドロを父上のもとへ連れて行け。私もすぐに向かう。暴れるようなら、拘束しても構わん。それからレアンドロと親密であったというデーリア・カルデラーラも証人として城へ呼び出せ。報告通りだとして、その女に子が出来ていたら問題だ」
護衛に声をかけると、彼らはすぐにレアンドロの左右に並んでその腕を取った。そこでようやく我に返ったレアンドロは、慌てた様子でアンドレーアを見る。
「そんな、兄上! これではまるで犯罪者ではないですか!」
「そうされるだけの罪を犯したのだ、お前は。それすらもまだ自覚出来ていないお前にこれ以上かける言葉はない。……連れて行け」
ぐい、と強く腕を引かれ、レアンドロは半ば引きずられるような体勢になった。暴れようにも鍛えられた護衛に敵うはずもなく、無様にもがくのみであった。
「に、ニナ! ニナ、頼む! 兄上を止めてくれ! オレはお前の婚約者だろう?! オレを助けてくれるよな!?」
半笑いを浮かべるレアンドロに、デボラは嫌悪の表情を浮かべてニナを強く抱きしめた。その二人を隠すようにレオンツィオが立ち塞がり。じろりとレアンドロを睨みつけたかと思うと、不意ににっこりと笑って手を振った。
「サヨナラ、殿下。もう二度と会うことはないでしょう!」
自分にも、ニナにも。
王族としての権利をなくした、王家の血を引くものの未来は。自由を与えられるわけでも、ましてや責任からの解放でもなく。
ただ彼がそれを理解しているのかはわからない。今もまた怒りに顔を歪め、自分が王子であるとの主張を繰り返すばかりだ。
後に聞いた話によると、レアンドロがニナに地味な格好を強いていたのは、その可愛らしい容姿のためだった。彼女が美しいことは理解していたが、自分より注目され目立つ婚約者は許されないと思っての行動であったと言う。劣等感から出た行為であるとは言え、どこまでも自分本位でしかない。
レアンドロの声がようやく聞こえなくなった頃、アンドレーアは改めてニナたちに向き直り、頭を下げた。
「愚弟が、申し訳ないことをした。特にニナ嬢、あなたにはどれだけ謝っても足りない。長い時間あれに付き合わせた上、あなたの母上を私の都合で連れ出していた。本当に、すまなかった」
デボラの腕の中でニナは、慌てた様子で口をぱくぱくさせた。第一王子に頭を下げられるとは、思ってもいなかった。
「あ、あの、わたし、」
「ほんっっっとうに、そうよねぇ! ニナの大切な時間をなんだと思ってるのかしら!」
レオンツィオがいつもの調子で声を上げると、ニナや離れた場所で見守っていたローザにリオネッラ、アリーダは目を丸くして驚いた表情を浮かべる。確かにレオンツィオの言う通りではあるのだが、それを遠慮なくアンドレーアに向かって言ってしまうなんて。
「アルバーニ卿」
「お言葉ですけれど、殿下。レアンドロ殿下のレディ・ミネルヴィーノに対する暴言や同様の行為は、婚約してから早い段階で始まっていたそうです。もちろん、最初のうちは幼いですから、笑い話で済ませることもあるでしょう。だけれどそれが二年、三年、それ以上に続いて、彼女はこれまで友人らしい友人を作ることも出来ずに孤立していました。どうしてもっと早くレアンドロ殿下を止めなかったのですか? なぜここまで好きにさせていたのです?」
「アルバーニ卿。それは私の落ち度です。私がニナの話をしっかり聞いてやらなかったせいで、今の今まで……」
「でもアンドレーア殿下は、レアンドロ殿下の状況を把握していた。そうですよね」
デボラがアンドレーアを庇おうとしたが、レオンツィオはぴしゃりと言葉を遮った。デボラはニナの状況を、ニナの手紙を見るまで知らなかった。それまで夫のバジーリオのチェックが入った、偽りの手紙しか読んでいなかったために。執事たちがデボラに伝えるという手もあったが、ニナは母に迷惑がかかることを恐れてそれも止めてしまっていたらしい。
しかしアンドレーアには、逐一報告が入っていた。レアンドロがどこで何をしていたか、ニナに対してどんな行動を取っていたか。そしてニナの行動も。
どれだけニナが苦しんでいたのか、アンドレーアは知っていたはずだ。
「……知っての通り、レアンドロは王妃のお気に入りだった。どれだけ影の声から報告を受けても、王妃はずっと様子を見ることしか許さなかった。きっと良い子になってくれる、きっと目を覚ましてくれる……そんなふうに思い続けていた期間が、ニナ嬢を苦しめていた年月だ」
「王妃様のせいってワケ? ――冗談じゃないわよ、ニナの人生を何だと思ってんの……あいつがいい服を着て取り巻きに囲まれてゲラゲラ笑っている間、ニナは地味な格好で、ずっとずっと一人でいたのよ……流行りのカフェで人気のお菓子を食べることも出来ず、読んだ本の感想を語り合うことも出来ずっ! そもそもアタシはあの馬鹿王子とそれをほったらかしにしてるアホな王族のせいでっ! こんな素敵な宝物をずっと見つけられずにいたのよ!! 許されることじゃないわっ!」
レオンツィオの言葉に、その場にいた全員の顔が「ぽかーん」となったのは言うまでもない。
途中までは良かった。一人だったニナに対する責任を問う姿は、とても素晴らしかった。だが後半、目一杯私情が入った。
彼はどうやら、ずっとそれを気にしていたらしい。同じ学校に通っていながら、ニナという存在に気付かなかった事実が、悔しくて仕方がなかったのだ。
当のニナはと言えば、「宝物」発言にまた顔を赤くして、恥ずかしがりながらデボラに抱きついている。
アンドレーアが咳払いをして、ようやく空気が元に戻った。
「その……返す言葉もない。本当に申し訳ないと思っている。ニナ嬢とレアンドロの婚約は、私が必ず解消させるから安心してほしい」
「当たり前でしょ、そんなこと!」
「そ、それから、他に希望はあるだろうか。こんなことであなたの人生を取り戻せるとは思っていないが、どうか王家に、償いをさせてほしい」
デボラは腕をそっと離し、ニナの背を優しく押して前に出るように促す。ニナはアンドレーアの前に立ち、膝を曲げて一礼すると、視線を上げて少し間を置き口を開いた。
「レアンドロ殿下との婚約の解消以外、強く望むものはございません。ただ……畏れ多くも、もう一つ願いを告げることが許されるのでしたら……今後二度とわたしのような想いをするひとが現れることのないよう、第一王子殿下にお願い申し上げます」
「――約束しよう。今後王家と婚姻を結ぶものへは、最大の配慮を。否、それだけではなく、王家は全ての国の民の心を守ることを約束する」
アンドレーアの視線が、ニナからレオンツィオへ向く。
「アルバーニ卿も、それで良いだろうか」
「……私はレディ・ミネルヴィーノが良ければそれで充分でございます。殿下の御心に、感謝を」
胸元に手を当てて、礼をする。ニナもそれに倣ってスカートの裾を摘み、礼をした。アンドレーアも礼を返すと、穏やかな笑顔を浮かべて頷く。
「それでは、私はこれで。ミネルヴィーノ公爵、夫のバジーリオもレアンドロの件で共に連れて行くが、あなたはこのままニナ嬢と屋敷に帰るといい。あなたにも、大変申し訳ないことをしてしまった……詫びは今度改めて、しっかりとさせてほしい。父上への報告は私が代わりにしておこう」
「はい、殿下。御心遣い痛み入ります」
バジーリオはもはや抵抗する気もなく、ただがっくりと項垂れたままアンドレーアと共にファータ・フィオーレを後にした。あっ、と声を上げたアリーダが慌ててアンドレーアを追いかけ、店の修繕費用の請求先を尋ねていた。
静かになった店内で、ニナはようやく深く息を吐き出した。
全てが終わった。レアンドロに強いられていた暗い生活は、もうしなくていい。やっと、自分の人生を生きていける。
話をしなければと思っていた相手は、恐らく話をしたところで通じなかっただろう。アンドレーアとのやり取りを見て、はっきりと感じた。レアンドロには、人を思いやる気持ちがない。それを理解する思いもない。彼は本当に、自分自身のことしか考えていなかった。
「レオンツィオ」
ニナは柔らかな笑顔で、レオンツィオを呼んだ。
「全部あなたのお陰です。何度も同じことを言ってしまうけれど、本当に……本当に、あなたと出会えて良かった」
「アタシも何度も言うけどね、ただニナの背中を押しただけよ。でも良かったわ、これでなーんにも気兼ねせずにカフェにも行けるし、寄り道だってし放題よ! コソコソする必要もないわ! あっ、それにお洒落だってしていいのよ! やったわね!」
ニナの頬が紅潮して、胸が躍る。嬉しさが溢れて、きらきらと瞳が輝いた。
ライムグリーンの優しい瞳は、いつも眩しくて。思えば出会ったときから彼はニナにとって、本物の「王子様」だった。
辛いときに励まして、躊躇したときに背中を押して。楽しいことは全力で楽しんで、他人のために怒ったり、悲しんだりもして。いつでもきらきら輝く笑顔の、誰よりも素敵な王子様。
あぁ、そうだ。彼と約束をした。彼への感謝の気持ちを表すために、幸せになると。
今、ニナにとっての幸せは。
「……あの、レオンツィオ」
「なぁに?」
「えっと……その……わ、わたし、もう、婚約者がいないので、」
「えぇ、そうね! ようやくあの王子から解放されたのよ、ほんっと最高!」
「だから、あの……よ、よ、良かったら、なのですけど、……あの、」
もじもじ、まごまご。
顔を真っ赤にして、落ち着きなく指先をいじる姿にニナの母デボラは、すぐに状況を察して。ローザとリオネッラは顔を見合わせて、幾分か興奮した面持ちでことの成り行きを見守り。
レオンツィオは酷く優しいーーまるで、愛おしむような、そんな眼差しで、ニナを見つめて。
「わ、わた、……わたしと、……で、……っ、デート、しっ、しませんかっ」
ローザたちはキャア、と悲鳴を上げたいのを堪え、互いの両手を握り合っている。デボラもまぁまぁ、と勇気を出した娘の姿に驚きと笑顔が混じった表情を浮かべた。
ニナにとっての、幸せは。――レオンツィオと、共にいること。
そしてレオンツィオは、膝を床に突き、ニナの手を取る。
「喜んでお受けするわ、ニナ。あなたの幸せな姿、アタシに見せてくれるんでしょう?」
「あ……」
覚えていてくれた、と、ニナは瞳を揺らしてレオンツィオを見つめる。
レオンツィオはうっとりとニナを見やり、言葉を続けた。
「ねぇ、ニナ。デートの日はとびっきりのお洒落をしてきてね。アタシも気合を入れていくから。だって、初めてのデートだもの」
「は、はいっ」
「でもね、きっとアタシ、どんな姿のニナでも嬉しくて堪らないのよ。だってアタシったらあなたの外見だけじゃなくて、ニナっていう子に心底、惚れちゃってるんだから」
はわ……と小さく声を漏らしたニナは、そのまま。
「ちょ、ちょっと、ニナ!」
後ろにひっくり返りそうになったのを、ローザとリオネッラが慌てて受け止めた。レオンツィオはそんなニナの様子も、可愛らしくて堪らないとばかりに目尻を下げて笑っている。
それから不意に、デボラに視線を向けたかと想うと、両手を頬の横で合わせて、にっこり満面の笑顔で言った。
「そういうことですので、これからよろしくお願いね、お義母様!」
同じようににっこりと笑ったデボラに、きっぱりと「十年早いですわね」と返されてしまったのであるが、大変機嫌の良いレオンツィオはおほほ、と楽しげに声を上げる。
どんな可愛いもの、美しいものを見たときよりも気分が高揚している。
これが、愛。ただ一人を想う感情。
可愛くて綺麗なものをもっと見ていたいからと、婚約も、本気の恋もしていなかったアルバーニ家の次男坊。
アメジストの瞳に惹かれたそのときから、彼の心にはたった一人を想う気持ちが芽生えていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます