第5話 あなたの瞳が輝く理由を知りたいわ
「おはよう、ニナちゃん。寝心地は良かったかしら」
「えぇ、マダム。ゆっくり休めました」
ニナが家出先に選んだのは、ファータ・フィオーレであった。
家出をしたのが夜遅くであったため、店には誰も居ない可能性があったが、マダム・アリーダの家は店のすぐそばだった。大きな荷物を抱えたニナに大層驚いたが、追い返すことはせずすぐに家の中へと入れてくれた。
「ニナちゃんが家出をしたって言ったときは驚いたけど、元気そうで良かったわ。レオンツィオの坊やが店の方にいるわよ。ニナちゃんがいることを伝えたらびっくりして飛び上がってたわ」
「まぁ! 大変、すぐに行かないと」
ベッドから飛び起き、それこそ勢いよく飛び出して行きそうなニナを、アリーダは慌てて止める。
「アナタね、寝間着で紳士に会いに行くものじゃなくてよ。髪もくちゃくちゃだし……早く会いたい気持ちはわかるけど、ちょっと落ち着きなさい。坊やは待っててくれるから」
ニナは顔を赤くして、すとん、とベッドに腰を下ろした。アリーダはくすくす笑いながら姿見の前に椅子を置き、ニナを手招きする。
「こっちに来て。身だしなみを整えてから会いに行きましょう」
「は、はい……すみません」
椅子に座って、姿見を見る。昨日泣き腫らした目を心配したアリーダが冷たいタオルを貸してくれたお陰で、目の腫れはそこまで酷くはない。レオンツィオにがっかりされなくて済む、と安堵して、すぐに慌てて首を振った。
「あらなーに、どうしたの?」
「い、いいえ! 何でも!」
アリーダはニナの髪をすくい、櫛でとかす。心地良い感覚に、瞳を細めた。
家出を決心したのは、メイドの後押しがあったからだ。何もかも、一度決心してしまえば怖いものはない。もちろん、決行したときの胸の鼓動や身体の震えはあったけれども。
メイドたちはどこまでも協力的で、荷物も彼女たちが準備してくれたものだ。そしてバジーリオにバレないように家から出してくれたのも、彼女たち。執事長に渡す手紙を託して、ニナはファータ・フィオーレまでやってきた。
今まで街で誰かと交流することのなかったニナには、そこの場所以外に頼れるところがない。ローザやリオネッラの家を訪ねるという手もあったが、他の貴族の家はすぐに見つかってしまいそうだった。もちろん、メイドや執事長の根回しによって、彼らは本気の捜索などしていないだろうが。バジーリオ自身が訪ねてしまうという可能性もある。
「……アリーダさん、突然来てしまってごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
「ふふ。驚きはしたけど、迷惑とは思っていないわ。私もレオンツィオ坊やと同じでね、可愛いものは大好きなの」
ニナの頬が、また赤く染まる。アリーダは楽しげに言葉を続けた。
「あの子の家はね、公爵家だけど自由な教育方針でね。母親は男装の麗人で、父親は文武両道の色男なのよ」
想像出来る家系に、ニナは思わず笑う。
「長男はやたら真面目なんだけど、兄弟仲はわりといいのよ。そうそう、長男も結構、美意識が過剰なの。完全に血よね。昔から家族みんなで常連だから、自然と親しくなっちゃって。今じゃ親戚みたいなもので、気のおけない関係ね」
「素敵ですね、そういう関係。……わたしの家は、お母様が留守にしがちで買い物とかもあまり一緒に行った記憶がないんです。お父様はそういうのには、興味がないので」
「あら、こんなにかわいい娘さんがいるってのに、勿体ない! ……レオンツィオの坊やはね、昔っからお節介なところがあって。自分が気になったものには躊躇なく首を突っ込んで行くのよ。でも例えばね、相手が望まない場合……今回はニナちゃんが、坊やとの関わりを拒んだりしたら、それまで。相手が自分を望んでいないとわかったら、すぐに離れていっちゃうわ」
「そうなんですか? えっと……それって、実際はあまり興味がないとか、気持ちが冷めちゃうとか……?」
「興味をなくすように努力をするの。昔坊やがまだずっとずっと、今より小さな坊やだった頃……良かれと思ってしていたことが、相手にとっては迷惑でしかなかったことがあって。大切だと思っていた友人に突き放された坊やは、それから慎重になった。話しかけて様子を見て、相手が自ら近づいてくれたら、大喜びで両腕を広げる。そのひとが自分の力を求めてるのだと知れば、いくらでも力になる。それでも、挫折がなかったわけじゃないわ。今のポジティブなレオンツィオ坊やは、過去の経験のお陰で出来たのよ」
あのきらきらした笑顔は、それまでの経験から得たもの。
殴られても馬鹿にされても、その笑顔が崩れることはなかった。でもきっと、心の中では。
「あの……マダム。わたしはレオンツィオに助けられていますけれど、わたしがレオンツィオの助けになることは、出来るでしょうか……」
櫛を置いて、ニナの肩にぽんと手を置く。髪はすっかり綺麗に整えられ、鏡の向こうにいるアリーダは満面の笑みを浮かべて答えた。
「もちろん。ただし、ニナちゃんが幸せになればね」
とくんと、ニナの鼓動が小さく鳴る。感謝の気持ちを表すために、幸せな姿を見せてほしいとレオンツィオは言っていた。自分が幸せになることが、彼のためになるというのなら……いくらだって、幸せになりたい。幸せになる努力を、したい。
「マダム・アリーダ。わたし、レオンツィオに会いに行きます」
「えぇ、そうしましょう。朝食を用意するように伝えるから、先にお店の方に行ってて。あのサロンよ」
「はい。ありがとうございます」
笑顔を浮かべて頭を下げるニナに、アリーダは穏やかに微笑む。少し前にこの店を訪ねてきたときは、表情が酷く強張っていた。おどおどと視線を泳がせているだけの彼女は、もういない。
「いつの時代も、女は強いのよ。負けないでね、ニナちゃん」
雰囲気の変わった彼女の背中を見つめて、アリーダは呟いたのだった。
「ニナ! あなた、家出したって!」
ファータ・フィオーレのサロンでお茶をしていたレオンツィオは、ニナが来たことに気付くと勢いよく立ち上がって足早に歩み寄った。ニナはそれが何だか嬉しくて、笑みを携えて小さく頷く。
「はい。お父様の横暴に耐えられなくなって、つい」
「ついって……」
心配そうにニナを見ていたレオンツィオであったが、ニナの発言に間を置いてぷっ、と吹き出した。
「もう、極端なんだからニナってば! でもここを選んでくれたのは嬉しいわ。ねぇ、一緒に朝食を摂りましょ?」
「はい、ぜひ」
向かい合って座った二人の間にあるテーブルに、マダムが頼んでおいたという朝食が運ばれてくる。サンドウィッチと温かい紅茶、それから少しの甘いお菓子。紅茶を一口飲んだレオンツィオは、ニナに尋ねた。
「それで、ニナ。お家で何があったの?」
「……はい。実は……」
ニナは静かに、家であった出来事を話した。レアンドロによって父親に吹き込まれた話と、ブレスレットを壊されてしまったこと。今はもうブレスレットの形を成していないそれを、テーブルの上に置いた。
「ごめんなさい、せっかくレオンツィオがくださったのに」
「悪いのはニナの父親だわ。娘の腕を捻り上げるとか、一体何考えてるのかしら! 大きな怪我はない?」
「はい、少し手首が痛む程度で」
「まっ。少しでも痛むのなら、塗り薬を借りてこようかしら」
「だ、大丈夫です! 少ししたら治ると思いますから!」
手を振って見せ、問題ないことをアピールする。レオンツィオは「そーお?」と少しばかり不満げであったが、ニナはレオンツィオのそんな気遣いが嬉しかった。頬が染まって、胸の奥がむずむずする。自然と笑みが深まっていることに、ニナ自身は気づいていない。
「あの……わたし、何ていうか……今、幸せそうに見えますか?」
「え? ――そうねぇ、楽しそう、って感じがするわね。家出をして正解だったんじゃない?」
ニナは笑みを深めて、こくりと頷く。
「実際、レオンツィオと一緒にいる時間はとても楽しいです。ローザとリオネッラとお話するときもそうなんですが、レオンツィオといるときが一番、胸が満たされるというか……これが、幸せかもしれないって……だから本当に、レオンツィオには心から感謝しています。こんなふうに考えられるようになったのは、あなたのお陰です」
「やだ、そんなふうに言われたら照れちゃうじゃない! 前にも言ったけど、アタシは背中を押しただけよ。あなたはもともと、そういう性格なのよ、ニナ。レアンドロ殿下と父親、歪んだ二人の感情に押し潰されそうになってたってワケ」
レアンドロと婚約を結んでから、六年。六年もの間彼女は、彼女に向けられるあらゆる感情を遮断され、耳を塞がれていた。父の言うことを聞くように。王子の命令を聞くように。繰り返しそんなふうに言われていたせいで。
「以前までは受け入れなければいけないと思っていましたけれど、今はもう、抗うことばかり考えています。わたしは、レアンドロ殿下と結婚したくはないのです。あの方に振り回される人生は耐えられません。たとえ公爵家を勘当されたとしても、この意思が曲がることはないでしょう」
胸元に手を当てて、静かに、けれどはっきりと言葉を紡ぐ。家出をすると決めたとき、彼女の心はもう定まっていた。
父親の言いなりにはならない。
殿下の理不尽な物言いを、受け入れない。
それよりもレオンツィオや、新しく出来た友人たちとの時間を大切にしたい。もしこのまま公爵令嬢でなくなっても、人との繋がりを断つような生活は、もう二度としたくはないのだ。
「あなたが決めたことなら、アタシに何かを言う権利はないわ。全力でサポートするだけよ。平民だろうが貴族だろうが、ニナがニナであるのならアタシは協力を惜しまない。ニナは大事な宝物だもの」
深い意味はないのかもしれないが、ニナはレオンツィオの言葉にどぎまぎして、頬を紅潮させてしまう。両頬に手を当てて、おろおろと視線を動かした。
「レオンツィオ、あの、」
「なぁに?」
「その……良ければ、なのだけれど……レオンツィオのこと、教えてくださいませんか?」
「アタシのこと?」
「はい。好きな食べ物とか、小さな頃のお話とか……レオンツィオのことを、もっと知りたいです」
レオンツィオはニナの顔をじっと見つめて幾度か瞬きをすると、にんまりと楽しげに表情を緩ませ、ずい、と身体を前のめりにしてニナとの距離を縮めた。
「長くなるわよ。覚悟はできてる?」
きょとんとしたニナは、すぐに表情を引き締めて強く頷いた。
「の、望むところ、です!」
可愛らしく挑んでくるニナの様子に、レオンツィオは楽しげに笑って話し始める。
「まずは好きな食べ物ね。そうねぇ、割と好き嫌いなくなんでも食べるけど、特に好きなものと言われたらファータ・フィオーレの斜め向かいにある『カフェ・ラ・トルティーナ』のビターチョコレートカップケーキね! マダムの紅茶と合わせるともう最高!」
両手を合わせてうっとりとした表情を浮かべるレオンツィオを、ニナはきらきらとした眼差しで見つめた。
「あの看板の可愛いカフェですよね。何度か通りかかったんですけど、そんなに美味しいんですね」
「えぇ、アタシのオススメよ! 他にもストロベリー味とかチョコミント味とか、色んなカップケーキがあるのよ。今度一緒に行きましょう?」
アメジストの瞳が大きく見開かれ、より一層きらめく。嬉しくて堪らないという表情で笑ったニナは、また強く頷いて見せた。レオンツィオはそんなニナの顔をまじまじと見つめて、不意に真顔になる。
「――レオンツィオ?」
「ニナ、あなた……今の顔、すっっっごく、綺麗だわ」
ひゅっ、と喉が鳴って、ニナの動きが止まる。
ニナはこのとき生まれて初めて、「顔から火が出る」という感覚を知ったのだと言う。
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