4 目覚めた悪役令嬢が帝権の象徴になるまで(2)
人の声がする……と、暗い水底に沈んでいた意識が徐々に明るい水面へと浮上していく中でエレノア・シャテルローは思った。
ゆらゆら揺蕩う感覚に、船酔いした後のような気分の悪さを引きずっている。
水の外から、ぼそぼそとなにか話す二人の男の声が聞こえてくる。
一人は困惑したようにしどろもどに言葉を紡ぐ年配の、一人は言葉少なく命じる口調の若者の声。エレノアの意識が浮上していくにつれ、彼等の周囲でかわるがわる返事をする様々な年代の女達の声も。
言葉は、周囲の水に阻まれてはっきりと聞き取れない。
そもそも、どうして水の中に……と、考えてエレノアはとんでもなく強い魔力を他者から注ぎ込まれたことを思い出し、はっとした。
水は渦巻くように引き、ただ目を瞑った暗闇となる。
(まさか、魔力酔い?!)
魔力は、個人特有のもの。
上手く取り込んだり馴染ませたり、なにかの魔法に変えて消費したりと。
とにかくそんな相性なり耐性なり代謝できなければ酔う。
その度合いは魔力によって違う。
相性というか強弱というか、様々な要因で反応や影響が異なるのが厄介なところで、一般的に他人よりも近親者、魔力の質が近しいものは違和感が生じにくく、魔力の高い者は自分より低い者の影響は受けにくいとされる。
(わたくしでなければこの程度で済まないわよ……まったく人を殺す気なの、あのハインリヒ・ノトルガウとかいう男は!)
呆れる程に強い、赤の他人の魔力を強制的に流し込まれるなんて、強烈な酒精を酒壺から無理やり飲まされたようなものだ。
加減を間違えれば、拒絶反応や身の内にある魔力が暴走して命に関わることだってある。
一瞬、頭が真っ白になるような衝撃は受けたけれど、その後しばらく大丈夫だったから油断した、とエレノアは顔を顰めそうになる。
どうやら封印を解除のためにエレノア自らハインリヒ――あの傲岸不遜なローズィユ帝国の皇帝な彼の魔力を少々拝借したことは、多少の慣らしの効果もあったらしい。
(それに酔った割には妙に馴染んでいるし。まあ水の気が強い魔力なら、近しいものがあるけれど)
それにしたって、やけに怠い。なんだか自分の体がいまひとつしっくりこない。ハインリヒの魔力を取り込んだ影響なのか、それともやはり永く封印されていた影響なのだろうか。
(流石にわたくしもこんなことは経験したこともなければ、聞いたこともないし、書物で読んだこともないからわからないわね)
エレノアは、婚約者であったノワイユ王国の王太子とその想い人の二重の魔力を使った王家特有の魔法によって、百八十年もの間、凍結封印されていた。
意識の方は先に覚めていたけれど、体の方は自力では封印が解けず、仕方なくその地位と魔力の高さで目を付けたハインリをおびき寄せ、彼の魔力を強制的に奪って封印に干渉させることで動けるようになったばかりだ。
(でも思っていたより皇帝の権力って大したことないのかしら)
いまや完全に意識は覚めて、聞こえてくる男の声の内、一人はわかった。
この低く冷淡でいながら、やけにしっとりとした艶を帯びた響きを持つ声には聞き覚えがある。ハインリヒだ。
どうやらエレノアの面倒を見ることを命じているらしい。
相手の初老の男が誰だか知らないが、あれこれ言いつけないと動けないのでは程度が知れている。そんな者を抱えている皇帝自身も。
(先帝が突然死して、熾烈な後継者争いに勝って帝位についたらしいけれど……まさか実権はないとかいうのじゃないでしょうね)
為政者の内情など、外から見て全部わかるほど単純ではない。
エレノアだって、
王家もスリジール王家から枝分かれした血筋らしいけれど、シャテルロー家よりは薄い。
傍系から縁付いて何代もたって嫡流に繋がったとはいえ、シャテルロー家がスリジールの王女と呼ばれる者の血を引いていることは伝わっていた。
それを裏付けるような高い魔力、諸侯への影響力においても、当時宰相だった彼女の父はともすれば国王を凌ぐような公爵だった。
もちろん表向きは国王を尊重し、言葉通りに支えていたけれど。
――エレノア・シャテルロー、其方を封印する永久に!
凍結封印される前。一番最後に聞いた言葉が脳裏に再生されて、本当に馬鹿じゃないのかしら、と。
とうに故人となっている者に対してエレノアは思う。
(温厚というか頼りないというか、将来国王なんてやれるのかしらって男だったけれど。結構、口うるさくて頑固なところもあったから、子供の頃から従僕みたいについてくるくせに、わたくしの言いなりにはならなかったのよね)
断罪したのが王太子本人でも、その婚約者の醜聞は彼の瑕疵にもなったはずで、子爵令嬢なんて身分違いの女も絡んでいる。
エレノアの父がこれを黙ってただの醜聞で終わらせるはずはない。
なにかしら取引材料にしただろうし、きっと彼が王位についてもシャテルローの干渉は続いたはずだ。
本当に馬鹿じゃないのかしら、と彼女は繰り返し思ったが詮無いことだ。
最早、彼等はこの世にいないのだから。
(ま、それはどうでもいいとして。部屋の雰囲気から宮殿でしょうけど、どういった扱いなのかしら)
目が覚めたからといって、「ここはどこ?」と馬鹿正直に目を開いて起きるなんて間抜けのすることである。
そもそもハインリヒは、エレノアがしかけた噂から彼女を“魔法じかけの人形”のようなものと捉えて持ち帰ると言い、雑穀袋のように抱え上げてあの廃城の近くに停めてあった馬車まで運んだのだから。
(そこまでは覚えているのよ。そこからふっと意識が遠のいて……いまこの状態よ)
少なくとも、連れてきたエレノアに危害を加える気はなさそうである。
そのつもりなら彼女が眠っている間にそうしているし、客人のようにふかふかのベッドに寝かせその世話を人に命じたりはしない。
だからといって、安心もできない。
凍結封印されていた時のように、目を閉じたまま魔力で周囲の様子を一通り把握してから起きても遅くはないと判断して、エレノアはじっとしていた。
(部屋付きの侍女は五人ほど。部屋の外にも従僕と衛兵が控えていそうね)
室内にハインリヒを除いてだ他一人いる初老の男性は、おそらく侍従長のような立場の者だろう。困惑を滲ませながら彼と問答していたのはきっと彼だ。
部屋は、さっと見回したところ広さと意匠、調度の類でどれも合格といえた。むしろエレノアが考えていたよりずっといい。
淡い金と鮮やかな真紅を基調に彩られ、艶やかな飴色で優美な曲線を描くチェストや大きな鏡、天井の見事な漆喰細工に虹色の輝きを見せる硝子を使ったシャンデリアなど、彼女の感覚では皇族か賓客にあてがわれる部屋だ。
もしここがただの客間というなら、帝国はかなりの富を有している。
「――着るものなら、衣装部屋に腐るほどある中から選ばせればいいだろう」
近づいてくる声に、エレノアは透し見の魔力を切った。
足音がしないのは、上等な絨毯が床に敷きつめられているからだろう。
閉じた瞼に感じていた室内の明るさが不意に翳る、きっとベッドのすぐ側まできた彼の影が被さったのに違いない。
柔らかな仔羊革の手袋に覆われた指先が、頬に触れるのをエレノアは感じた。
あの廃城で、彼女の顎先を捉えて持ち上げたのと同じ指先。
「動いて話す“人形みたいなもの”だが、
相変わらず“人形のようなもの”扱いをしているようだが、待遇としては物でなく、少なくとも賓客に準じる扱いではあるようだ。
軽く頬を撫でてすぐに離れた指先の感触が、なんだかむず痒く感じて目を開きそうになる。
(そう言えばこの男、わたくしに狼藉を働いたのだったわ)
婚約者はいたとはいえ、幼馴染の
封印解除は数には入らない、あれは魔法的手段である。
どちらにせよ、無垢であったエレノアの唇を奪ったのは彼である。
(後日、きっちり贖わせる)
「もう一度お尋ねしますが、本当に例の噂に語られる姫君だと?」
「嘘ならもっとましな嘘を吐く、オズヴァルト」
「まあ……突然、荒唐無稽ことを大真面目に仰って、この老輩を困惑させるのが大君ではございますが」
(ああ、なるほど。これは口うるさい
「後は任せる」
声が遠のき、しばらくの間を置いて部屋の扉が開く。
ハインリヒは出ていったらしい。
彼が部屋を出た途端、エレノアが透し見を再開するまでもなく、わらわらと複数の気配が彼女のベッドを取り囲んだ。
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