3 目覚めた悪役令嬢が帝権の象徴になるまで(1)

 エレノア・シャテルローは、ノワイユ王国の王宮社交界に女王の如く君臨する公爵令嬢だった。王国の宰相を務めるシャテルロー公爵家自慢の一人娘であり、それ以上の存在だった。

 かつて大陸全土を支配し栄華を極めた古の大国スリジール。

 その巨体を持て余した大国は徐々に衰退し、大小様々な国に分かれ、スリジール王家の嫡流を繋ぐ者も離散し滅びた。

 しかし、大国が分断・解体される過渡期に、戦禍を逃れるように国を出たスリジールの末席の王女とシャテルロー家の傍系の青年が恋に落ち結ばれた。

 血筋だけでなんの力もない亡国の王女と一貴族の末端にかろうじて引っかかっているような青年。それは当時、誰にとっても取るに足らない婚姻だった。

 しかし。

 さらに何代か後、シャテルロー家の嫡子が、珍しい紫色の瞳を持つ美しい遠縁の娘を見染めて娶った。それは一族の血を薄めず維持するため措置でもあった。

 やがて、その珍しい瞳を受け継ぐ者はとりわけ高い魔力を持つことに一族の誰もが、一族以外の者も知ることになった。

 エレノアも、彼女の父も紫色の瞳を持っていた。

 けれど彼女の瞳は、父親よりもずっと深く濃く、澄んだ色をしていた。

 紫は高貴の色である。

 美しく煌めくような、極上の紫水晶アメジストの如き瞳は、まさしく古の大国を象徴する瞳の色そのものであったのだが。

 実際にその色を見て記憶する者は、誰も彼もとうの昔に滅び去った後なのであった――。


 ◇◇◇◇◇


 その日、帝都の宮殿は朝からなんとも形容し難い雰囲気になっていた。

 廊下を行き交う人々は知人や同僚と顔を合わせればひそひそと話しだし、一部の貴族や高官達がなにかぴりぴりと神経を尖らせている様子でもある。

 かといえば、やけにそわそわした様子で華やいでいる者もいて、今日初めて宮殿に足を踏み入れた者がいたら、きっと不審や不安に思うに違いない。

 しかし、朝早くに皇帝陛下が令嬢を腕に抱えて宮殿の廊下を、私室に向かって歩いていたらしいとなどと聞けば、納得するところであろう。

 まだ若い美貌の皇帝であるにも関わらず、正式な婚約者候補どころか浮いた噂も一切ない。

 社交の場では、近づこうとする令嬢達の誰にも当たり障りない態度で公平に相手にしない、“冷徹皇帝”なのだから。


「陛下が、“例のもの”を横抱きに抱えて、堂々とまったくの普段通りに、視察から戻られた時の如く宮殿内を歩きまわってくださったおかげで、宮殿内がものすごく微妙な状態になっていたのですが?」


 午後になって、ようやく執務室に落ち着いた主君に向かい、ローズィユ帝国第十三代皇帝ハインリヒ・ノトルガウの忠実なる側近としてオットー・アスカーニエは苦言を呈したが、軽く苦笑で流されるだけに終わった。


「まあ、そりゃあなあ……」


 代わりに、ハインリヒの側で彼の護衛の任に控えているノルベルト・ヴィーラントが、やや角張った顎先を左手で撫でさすりながら愉快そうに応じる。

 実際、彼は愉快なのだろう。

 彼にとっては、皇帝というよりは愛想のない遠縁の男である、ハインリヒの振る舞いに過剰に反応している連中が面白くてたまらないのに違いない。

 もっとも過剰に反応されるだけの危うさを思うだけの、護衛騎士や貴族としての抜け目のなさもあるのだが。


「ノベルト殿は気楽でよろしいですね。一歩、執務室を出れば興味津々で物言いたげな者達の視線に晒され、上位の家の者達から質問攻めにあうこちらの身にもなっていただきたいものです」


 眼鏡のレンズの向こうの目を本気で迷惑そうに細めて、オットーは口調こそ丁寧なものの、若干剣呑さ含んだ声音でぼやく。

 皇帝の右腕などと呼ばれても、伯爵家の三男では彼を軽んじて扱う者もいる。かといって文官として皇帝の執務を円滑に補佐するためには、その威を借るようなこともできない。反感を買うのが目に見えている。


「そういうのを上手くあしらうの、貴殿は得意だろ?」

「得意だからいいとされては、迷惑極まりないですね」


 側近二人の掛け合いを黙って聞いていたハインリヒだったが、もうそれくらいでいいというように、机に両肘をついて組んだ手を口元に再び苦笑した。


「私は、“令嬢に見える生ける者に対し、流石にその運び方は”と諌めた忠臣の言に従ったまでだが、オットー」

「別に、宮殿内でわざわざ陛下直々にそうする必要はないでしょう……」

「“選ばれし者”を待っていたものだ。私が手に入れたと周囲に認識させる必要はある。それに私が戻った頃には、言う程、微妙でもなかったが?」

「きちんと、“噂通りの魔法仕掛けの美姫”であり“人形のようなもの”と、宮殿内に効率よく広まるよう説明しましたので」


 ぶすりと答えれば、「流石だな」と言ったハインリヒに、これだから厄介な主君だとオットーは嘆息する。

 彼ほどオットーの才を認め、尊重し、惜しみなく与えてくれる者もいない。

 

「しかし、やはり陛下の仰る通りなのでしょうかね。あの廃城を出た途端に眠ったまま。移動中一度も目を覚ますこともなかったですし」

「俺は魔法のことはまったくわからんが、まーあんな理想の美人を造ったみたいな見た目してるしな」


 護衛騎士だというのに護衛対象から離れて、執務室の応接スペースのソファに腰掛け寛ぎ始めたノベルトに、オットーは呆れながら眼鏡の真ん中を右中指で押し上げる。


「公爵家の令息とは思えない言葉なのですが、ノベルト殿」

「だって、俺、魔力ないし」

「魔力はなくとも、魔法と魔力の基礎理論は貴族の必須科目のはずです」

「ハインツまでいかなくても、オットー程度でも魔力があれば多少は興味も持っただろうが、まったく使えもしないものを教えられてもなあ」


 まったくこの脳筋がと思いながら、オットーは彼やノベルトの会話に応じることなく書類仕事を始めた主君を見て、お茶を入れて気を落ち着かせることにした。

 主従揃って自由で、日頃は姿を見せないもう二人の側近仲間も合わせて常識人は自分だけであるのが辛い。彼は執務室の端に備えてあるティーワゴンに近づくと、下段の棚から選び取った小ぶりな陶器の容れ物から、上段に用意されているティーポットへ茶葉を測り入れた。

 銀製の水差しに手をかざし、軽く目を伏せて集中する。

 しばらくすると水差しの中の水から小さな気泡が立ち、やがて気泡は大きく水面をぐらぐらと揺らし、湯気が立ち上る。

 伯爵家の三兄弟の中で、オットーだけが魔法を使えるだけの魔力を持つ。などと言えば聞こえはいいが、彼が出来るのはせいぜい対象に熱を与える魔法や蝋燭やランプに小さな火を灯す程度の魔法だ。

 それでも魔法を取得できる程の魔力持ちは珍しいので、こうして皇帝の側近に取り立てられても、軽んじられもするが納得はされている。

 そして、父親の先妻の子である上の兄二人からは家督を奪われかねないと激しく疎まれている。また三代に渡り魔力持ちがいない伯爵家だったため、父親は母親の不義を疑って、両親の夫婦仲は一時期ひどく険悪になった。

 出生鑑定の魔法が使える役人のおかげで疑いが晴れたがいいが、以来、両親からもなんとなく邪険にされている。

 おまけにオットーの父親は、前の皇帝が気まぐれに宮仕えの下級貴族の娘に手を付けて生まれた皇子として、本来継承位の低いハインリヒが帝位についていることを快く思っていないため、いまや実家とは絶縁状態に近い。

 

「いつ見ても便利だな」

「人間湯沸かし器とでも言いたいのでしょう? 敵が魔法を扱えたらどうするんです」

「そういうのは、ハインツが一掃する」

「護衛騎士失格ですよ……本当に」

 

 そもそも、この若き皇帝をどうかして出し抜こうとする者達はけして少なくないというのに。まあ野生の獣じみた鋭さで、ノベルトが差し向けられた刺客を倒しているのをオットーは何度も見ているため、言うほど心配もしてはいない。


「どうぞ、陛下」


 入れたお茶をまずは主君の元に運べば、書類仕事をしていると思ったら、紙に人体図を書いてなにやら細かく書き入れているのが見えた。

 地方の廃城からこの宮殿に戻るまでの間、調べたことへの考察を整理していたらしい。

 手に入れた経緯もであったが、道中も道中でなんとも微妙なものがあった。

 眠り続ける美女を宿のベッドに横たえて、触れてはいないものの、その全身を撫でるように、彼女の体の上で手を動かしていた主君の後ろ姿を夜毎見守っていたのだから。

 類稀な高い魔力持ちであり、古い魔法の記録を集める研究所まで作っているハインリヒが、長く封印されていたのは間違いないとだけ言って、それ以上は何も言わないでいるのも気になるといえば気になる。


「それは、あの“人形のようなもの”ですか」


 人体図に血管のような線を描き入れているハインリヒの艶やかな黒髪を見下ろしながらオットーが尋ねれば、覗き見たことを咎めるように黒い双眸が彼を射抜いた。


「私の側近は、有能だが不調法な者ばかりだな」

「本当に持ち帰ってしまうのですから、今後の対処もあり気になります」

「成程」

「そういえば、皇族の私的区画へ運ぶと仰ってましたが、客間にでも置いてきたのですか?」

「私の部屋の隣室に置いて、世話するよう頼んできた」

「は?」

「丁度、中の扉で繋がってもいる使っていない部屋だからな」


 皇帝の私室の隣……中の扉で繋がった……。


「おいおい、それって皇妃の部屋だろうが!」


 流石にそれはないと思ったのか、ソファでオットーがお茶を運んでくるのを待っていたノベルトが、仰け反りながら声を上げる。


「“人形”だから問題はない」


 オットーからすれば、頭を抱えたくなるようなことをやってくれた主君が、しれっとそうノベルトに答えた言葉に、「問題大有りだっ!」と胸の内でオットーは叫んでそして思った。


 ああ、その言葉ですべて押し通すつもりだ、この人……。


 仮に“人形”であっても、目を覚ませば自らの意志を持って動いて喋るらしい様子をオットーは見ている。

 おまけに、女王もかくやといった居丈高な高慢さで、封印が解ける前を見ていても生きた人間にしか見えない。しかも男のオットーが見ても惚れ惚れするような美貌の若き皇帝と並んで、見劣りしない凄い美女なのだから……嫌な予感しかしない。 

 

「侍従長には事情も説明してある」

「それは慰めにもなりませんね」


 まともな思考回路の者なら、どこかで見染めた美しき令嬢を連れ帰ってきたと考える。言い訳にもならない荒唐無稽な噂話で誤魔化そうとまでして、と。

 そんな行動は為政者としてまともではないが、前皇帝は色好みで晩年は気が触れたような暴君でもあったし絶対にそう思う。

 

「そう言うな。万一、逃げ出したり、盗られても困る」


 あの部屋に置いておけば、そう滅多なことはできないと口元だけに笑みを浮かべて、考察の整理の続きを始めたハインリヒにオットーはそれ以上思考することは停止して、彼もノベルトとともに応接スペースで寛ぐことにした。

 でないと、今後の面倒への対処などやってられない。

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