それでも僕は、猫を吸いたい。

立花

「どうしても、猫が吸いたいんです」

 一人の男が静かな診察室で医師に懇願していた。その部屋は、病院特有のつんとする冷たい消毒液のにおいに満ちている。

 白衣を着た中年の男性医師は、眉間に皺を寄せると視線をやや下に落とした。なんとかなりませんか、そう必死に繰り返す男の手には、A4サイズの一枚の紙が握られていた。

「軽度であれば、まだ薬で改善していくことも考えられますが、鈴木さん、あなたの場合はね……」

 医師は言葉を濁しながら、鈴木、と呼んだ男が手にする紙を指差した。鈴木は嫌悪に満ちた表情で、「検査結果」と書かれた紙に目を向ける。

 ああ、神様がいたとしたら、なぜ僕にこのような試練を与えたのでしょうか。それとも、これは何かの罰なのでしょうか。

 鈴木は、だんだんと視界が潤んでゆくのを感じていた。



* * *



 鈴木は、猫が好きだった。

 ふわふわで、さらさらで、くりんとした丸い目、クリームパンのようなおてて、ゴロゴロと甘えて喉を鳴らす音。かわいくて仕方がなくて、触れてみたくて、抱きしめてみたくて、自分の部屋で一緒に過ごすところを何度も想像した。

 しかし鈴木は猫を知らない。その手触りを、暖かさを、においを知らない。いや、知ることができなかった。

 幼少の頃から体が弱かった彼は、動物や甲殻類、牛乳、卵、花粉……数多のアレルギーを持っていた。同時に肌、そして呼吸器も弱く、ひとたびアレルゲンに触れると、顔を始めとした全身が真っ赤に腫れて蕁麻疹ができ、喘息の症状が出てしまうのだ。

 だから鈴木は、猫のにおいを知らない。


 世間では猫ブームと言われるようになって久しい。その間に数多くの芸能人やインフルエンサーと呼ばれる人たち、一般人までもがこぞって猫を飼い始めた。

 SNSには猫の画像が溢れ、いつの間にか鈴木も、飼えもしない猫の動画を見漁る日々が続いていた。

 一度で良いから、猫を触ってみたい。だっこしてその重さや暖かさを感じたい。その柔らかそうなおなかに顔を埋めてみたい。

 その欲望は膨らむばかりであった。



* * *



 時は過ぎ、猫を知らぬまま、鈴木は年を取った。

 鈴木は三十代の始めに年下の女性と結婚し、二人の子どもに恵まれた。やがて子どもは大きくなり、いつの間にか孫が生まれ、鈴木はおじいちゃん、と呼ばれるようになっていた。猫こそ飼うことができなかったが、鈴木は幸せに年を重ねた。

 年老いた鈴木はだんだんと体調を崩すことが多くなり、入退院を繰り返すようになった。だが、何十年と連れ添った愛する妻の手厚い看病もあり、体調を崩すも取り戻し、元気になって家へと帰ることができていた。

 そんな矢先だった。

 風邪を拗らせてしまい、鈴木は入院した。そこからはあっという間で、食は細くなり、手足は言うことを聞かず、体を起こすことさえままならなくなってしまった。

 やがて鈴木は、少しの水分以外何も口にしなくなった。


 医師に呼ばれたのだろう、気づけばベッドを家族や親戚が囲んでいた。誰もが心配そうな目でこちらを見ている。最愛の妻が、自分の左手を握りしめながら目に涙を浮かべていた。

「お互い、年を取ったね」

 鈴木はかすれた声でそう言うと、妻は寂しそうに、けれどその言葉を噛み締めるように、少し微笑んで頷いた。

「みんなも、ありがとう。あとは、よろしく頼むよ」

 小さなか細い声で言い、鈴木は病室の隅に立っていた医師に目を向けた。鈴木の言葉に医師も頷くと、ゆっくりと背を向け部屋を後にした。

 家族のすすり泣く声や、おじいちゃん、と呼びかける孫の声が大きくなる。鈴木の心は、とても穏やかだった。


 すぐに医師が病室に戻ってきた。手には何かを抱えている。

「さあ、どうぞ」

 家族が並ぶ間を抜けてベッドの横に立った医師は、横たわる鈴木の胸の上に抱えた猫を置いた。

「にゃあ」

 薄緑色の目をした茶色のトラ猫は、鈴木の顔を見て小さな声で鳴く。鈴木は震える両手で猫を優しく包み、ゆっくりとその柔らかく暖かい体をなでた。トラ猫は目を細めてまばたきをし、嬉しそうに喉を鳴らした。その声は、鈴木の胸に静かに響いた。

 初めて猫を抱く彼の皺だらけの顔は、幸せに満ちていた。

 なんてかわいいのだ。なんて愛おしいのだ。

 鈴木はしばらくの間、無言で猫を抱きしめた。


 そして最後に、鈴木は猫を吸った。震える手で抱えた猫の、ふわふわのおなかに顔を埋めた。

 猫の優しく甘いにおいが、彼をいつまでも包み込んでいた。








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それでも僕は、猫を吸いたい。 立花 @hana_pokopoko

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