理由

 気がつくと私は食堂を飛び出していた。


 エントランスに向かって駆ける。住居棟の入口は基本的に施錠されているのだが、遅れて昼食にやってきたらしい利用者のために、ちょうど開けられるところだった。見張りの職員たちの注意も薄い。


 私はこちらに入ってこようとする利用者を押し弾くようにして、住居棟の外に出た。まっすぐ百メートルほど向こうにクラブハウスが見える。あそこを抜ければ外に出れる。


 私は必死で駆けた。もうここにいてはダメだ。父や母の事は考えたくなかった。もちろん、指導のことも。


 駆ける私の後ろで、誰かが叫ぶのが聞こえた。クラブハウスの前にいた職員が、怪訝そうに顔を上げ、こちらを見た。ベンチセットの所でくつろいでいた利用者のグループも、こちらを訝しげに見ている。


 私はその時まで、こうして全力で駆けることが自分を目立たせていることを、わかっていなかった。職員である私は、誰に邪魔されることもなくクラブハウスを通り抜けられるのに、ただただここを出なければと思い、最も目立つ方法で逃げたのだ。


 頭がどうにかなりそうだった。誰かの叫び声は大きくなった。でも、もう少しでクラブハウスに着く。ここまで来たら立ち止まるわけにはいかない。職員たちがトランシーバーを耳に当てている。


 一体どんな指導申請をするのだろうか。食堂で騒いだ、利用者を突き飛ばした、住居棟の門番に迷惑をかけた、そして──オウルから逃げ出そうとした。


 私は今どんな顔をしているのだろう。クラブハウスの扉が近づいてくる。あと五十メートル。息が荒くなる。興奮した知的障害者らしき利用者が飛び跳ねて笑っている。あと四十メートル。息が苦しい。足が重い。三十メートル。まるで服を着たまま泳いでいるようだ。


 こんな時なのに、いやこんな時だからなのか、私は視線を左側に投げる。クラブハウスに向かって左側。緩やかな坂がある。何度昇り降りしたか分からぬ坂。その先には小駒が用意してくれたプレハブ小屋。そこで私は彼らにパソコンスキルを教えた。彼らに、そう、彼らに──


 偶然にもそこには本当に、「彼ら」の姿があった。


 何かしらの作業を終えて戻ってきたのか、あるいはプレハブに向かう途中この騒ぎに気付いて振り向いたのか、磯野を中心に、砂山、徳武、羽原、吉田、坪家の全員が固まって、こちらを見ていた。私が育てた生徒たちが、そこにいた。


 私は足を止めた。


 辛かったからではない。


 私は一体何から逃げようとしているのか、わからなくなったのだ。


 私の生活は全て、ここにある。


 そうだ。仮にクラブハウスを抜けることができたとして、誰にも止められずにオウルを出られたとして、私はそれからどうするというのだ?


 大同駅までは徒歩でも出られるだろう。電車に乗って自宅の最寄り駅まで行くこともできるかもしれない。


 だが、その先は?


 自宅にはもう、誰もいない。


 母はここの入所者で、そして、父は職員になった。いや、父は家をオウルに渡したと言っていた。


 じゃあ、他は?


 カルチャーセンターにもすぐに行ける。自宅から徒歩五分。だが、あの建物も既に、オウルの販売所になっている。宝木と対峙した所長が今どんな状態なのかもわからない。


 私はずるずるとしゃがみこんだ。自分の意思でというより、崩れ落ちるような感じだった。


 手の先に触れるのはアスファルトではなく、どこか冷えたように感じる焦げ茶色の土だ。私はその土を握りしめる。爪の間に入り込むことも厭わず。


 そうだ、私はもう、オウルの人間なのだ。私の全てが、ここにある。


 今は確かにいろいろな事がうまくいっていない。だが、いつかきっと、状況は変わるに違いない。


 そうだ。私のスキルが必要になり、前のようにあのプレハブで講師をしたり、新しいカタログやチラシをデザインして、皆から賞賛される日がきっと来る。そうなれば小駒も私の価値を再確認し、以前のように毎日ロッジに私を招き、おいしいワインを飲みながら話をし、そして夜通し、あそこがひりひりするくらいに私を抱いてくれるに違いない。


 ここには、残る理由がある。


 いや違う、私にはもう、ここしかないのだ。


 その時、近くに気配を感じて顔を上げた。


 クラブハウスの裏玄関、そのガラス戸の向こうに、小駒が立っていた。


「小駒さん……」


 私は思わず呟いた。小駒は微笑みながら扉を開け、こちらに近づいてくる。


「小駒さん!」


 私は叫んだ。喜びで頭がおかしくなりそうだ。


 よかった。本当によかった。あの顔を見れば分かる。小駒は忙しかっただけなのだ。今でも私を好きでいてくれたのだ。


 逃げなくてよかった。逃げなくてよかった。私は小駒の女なのだ。誰にも文句は言わせない。私はオウルで、小駒と二人、これからもずっと──


 だが、小駒はその笑顔のまま、後ろを振り返った。


 その影から、小柄なショートカットの女が、不安そうな表情をして姿を現した。


 見たことのない女。まだ二十代前半だろう、肌が真っ白で目が大きく、丁寧にメイクした顔はまるで人形のようだ。それにあの服装。赤いカーディガンに白いTシャツ、細いジーンズに、ベルトサンダル。およそこの山中には似合わない、私からすればどこか懐かしさすら感じる、都会的な服装だった。


 小駒はその女性ににこやかに話しかけながらこちらに近づいてきて、私の前数メートルの所で立ち止まった。手足を土で汚した私の格好については何も触れず、にこやかな表情のまま「皆さん」と言う。


 え? と振り向いてみれば、私の背後を囲むように多くの人がいた。小駒は私の起こした騒ぎに集まってきていた利用者や職員に向かって話しかけたのだった。


「皆さん、こちら佐々木さんと言って、本日施設見学に来ていただいた方です。今日一日かけてこの施設を見ていただきます」


 私は以前にもこの風景を見たと思った。


 そう、あれは──


 ここに初めて来た日。見学にやってきたときだ。あの時も小駒は職員たちにそういうようなことを言った。


「佐々木さんは有名な洋菓子店でパティシエとして働いていた方で、特に焼き菓子については素晴らしい技術をお持ちです。ここのクッキーも、もっと多くの人に認められるようなものにして──」


 小駒は嬉しそうに話している。その音声が徐々に小さくなっていく。頭の中に、ある情景が思い浮かんだ。


 瀬能。私がここに見学に来たあの日、瀬能がトイレから出てくる所と偶然行き当たった。


 あの時、瀬能は妙な表情をしていた。初めて会ったはずの私を見て、なぜかひどく驚いていた。


 ああ、と思う。


 そうだったのか。


 瀬能はあの時、こんな気持ちだったのだ。


 私は今更のように、全てを悟った。やはりそうだったのだ。やはり瀬能と小駒は男女の関係で、そこに私が現れたのだ。そして私と小駒は、急速に距離を縮めていった。


 瀬能は小駒に捨てられたのだ。だが、オウル以外に居場所はなかった。小駒が支配するオウルで暮らす以外に、公私共に全てが詰まったオウル以外に、居場所などなかった──今の私のように。


 頭がくらくらする。瀬能は私の父と、一体どんな気持ちで交わったのだろう。瀬能が誘った? まさか。いま全てがわかった。あれは全て小駒の指示だ。小駒との関係修復を夢見た瀬能は、それで小駒がまた自分を見てくれるならと、必死になってやったことだったのだ。


 私は自分が壊れていくのを感じた。


 かろうじて残っていた自我が、いま、崩壊しかけている。


 気がつけば小駒は、私の全てを奪っていった。


 母も、カルチャーセンターも、永遠も、父も、所長も、そして家まで。今思えば、宝木の一件すら、全て小駒が仕組んだものなのではないかと思えてくる。


 瀬能より子は本当に、宝木を雇って二千万を恐喝しようとしていたのか? あの日瀬能より子は、もしかしたら何も知らずにここに来ただけではないのか。娘の勤務先を見学しに来た、それだけだったのではないか。


 だが、と私は思う。そうだとして、一体何だというのか。


 この私に、既に全てを失った今の私に、何が選択できるというのか。


 私は小駒の女だ。


 小駒の傍で、障害者の社会参加を実現するのだ。もう、それ以外に生きる道はない。


 その道を、あのような小娘に奪われるわけにはいかないのだ。


 私は膝をついてうつむいたまま、足元に落ちていた石の一つを手に取った。鋭く尖った形状をした、こぶし大の石。


「──そういうわけですから、皆さん、今日はよろしくお願いします」


 そう小駒が言い、佐々木とかいうその女の腰を抱くようにして通り過ぎた瞬間、私は石を握った手を振り上げながら立ち上がり、尖った部分を、その女の背中に突き刺そうとした。


 だが石が女に届くよりも前に足がもつれ、バランスが崩れた。やがて怒号と共に駆け寄ってきた誰かに側頭部を思い切り殴られ、回転しながら落下し、地面に着地する前に、意識を失った。

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