それから

 二ヶ月後――。


「電気棒二秒、三セットとします」


 私はパイプ椅子の上で、密かに肩の力を抜く。


 よかった、今日はいつもよりも短い。


 一緒に作業していた利用者と少し肩がぶつかった。相手は怪我などしていない。だがその利用者は主任に指導申請を行った。


 もう、何度目だろう。


 週に一、二度行われる指導で、私の名前が呼ばれない日はほとんどなくなっていた。


 私が抵抗しないのがわかり、拘束バンドはなくなった。そのおかげで、拘束されたまま椅子ごと転倒して顔や頭を怪我することはもうあまりない。


 電気棒でのショックは、正直、もうそこまで苦痛とは感じない。それでも秒数が短いとわかっただけで、体は安心して力を抜くのだ。


 いつの間にか施設内の皆が私の敵となった。


 表面上は淡々と、時には丁寧と感じるほどの受け答えをしながら、些細な事をあげつらって指導申請する。


 私の後にトイレに入ったら便器が汚れていた、鍵を借りる際に記入する伝票のページを誤って破った、食堂の机に味噌汁を数滴垂らしたまま立ち去った。もはや内容は何でもよかったのだ。


 原因は、わかっている。


 勇太に無理やり性行為を迫ったという事で初めて指導を受けたあの日以降、小駒は私との距離を明らかに広げていった。


 本来なら、私が適切な指導を受けた時点で、この問題は精算されたとみなされるはずだ。父と瀬能の件を母がもう持ち出さないのと同様、小駒も私と勇太の件について、後から責めることはできない。


 確かに小駒が私を責めることはなかった。


 だが、もっともらしい理由をつけて離れて行かれたら、どうしようもない。


 小駒は自身の多忙を理由に私と二人で会うことをやめ、ロッジでの打ち合わせにも応じなくなった。


 私は自分の部屋である職員フロアの個室とPCルームを往復する生活をするようになった。小駒と顔を合わせる機会はほとんどなくなり、あっても小駒は常に他の職員と一緒にいて、二人きりで話すチャンスは皆無だった。


 私はそれでも、それまで通り仕事を一生懸命こなした。そうすればいつか小駒も認めてくれる。前のように、毎日のように私を抱いてくれる。そう信じて、必死にやった。


 おかげでオウルのECサイトは完成し、カタログやチラシ、その他の広報物もみるみる充実していった。


 また、パソコン教室の生徒たち、砂山、徳武、羽原、吉田、坪家という面々も、最初の状態が嘘だと思うくらいに、スキルアップしていったのだ。


 だが皮肉なことに、サイトや販促物が完成し、生徒たちの能力が上がるに従って、施設の私に対する依存度は落ちていった。


 公開したECサイトは私の手を離れ、生徒と数名の職員によって日々の更新作業が可能となった。デザイン業務についても、一通りは完成してしまい、新たに作るものはもうない状態だった。


 仕事のなくなった私は、開いた時間に作業所の取り組みを手伝わされるようになった。


 紙すき、畑作業、施設内の掃除、食堂の片付け、クッキーの袋詰め。


 それらを、利用者に混じって、主任の指示に従いながらこなした。最初は、なぜ私がこんなことをしなければならないのだろうと思っていたが、その後ろ向きな態度を理由に指導申請され、毎回のように電気棒による指導を受ける中で、疑問も消えていった。




 そんなある日、私は食堂で意外な人物と会った。父である。


 宝木の件が解決して父は自宅に戻っていたが、同じタイミングで私がオウルの正職員となり、住み込み勤務となったので、以降はほとんど顔を合わせる機会がなかったのだ。


 私はそれが父だと一瞬わからなかった。


 それほど父の相貌は大きく変化していた。


 どちらかと言えば小太りだった体は、驚くほど痩せていた。


 髪が薄くなり、顔色は悪く、目が落ち窪んでいる。病気なのだろうか。


 慌てて近づき声をかけた私に、「会社、辞めたんだ」と父は言った。


「辞めたって……どうして」


 私の頭は、度重なる指導のせいか働きが悪くなっていて、父が何を言っているのかうまく理解できない。


「取り返しのつかないミスをしてな。取引先に大きな損害を出した。責任を取って辞めるしかなかったんだよ」


 父は遠い目をして、自嘲的に笑う。徐々に状況がわかってきて、私は息苦しくなる。


「そんな……じゃあ、どうするのよ。仕事しないと、お金ないじゃない」


 父は首を振る。


「就職先なんて、簡単には見つからん。俺たちくらいの歳が一番難しいんだ。まさかコンビニのアルバイトってわけにもいかないしな。結局、家でただボーッとするようになった。ずっと仕事しかしていなかったから、家に一人でいると、苦しくてな。ノイローゼのようになってしまって」


 父からは酸っぱいにおいがした。汗と垢が混じったあのにおい。家に閉じこもって着替えもせず、一日中テレビを見て過ごしていた母と同じにおいだ。


「まずいと思ってカルチャーセンターに行った。あそこは今オウルの販売所になってるから……たまたま小駒さんがいて、相談に乗ってくれてな。施設で働かないかと誘ってくれて」


 私は息を呑んだ。父の顔を見ていられなくて、うつむいた。


 小駒が相談に乗ってくれた?


 施設で働かないかと誘ってくれた?


 本当にそれは、小駒の善意だったのだろうか。


 いや、それ以前に、父は本当に会社でミスなどしたのか?


 誰かが、そのミスを捏造したのではないのか。


 誰かが。


「小駒さんは、本当にいい人だ」


「父さん、あのね」


 何かを言わなければならない。だが、何をどう言えばいい?


「お前と同じ、正職員として働かせてくれるって言うんだ。それであらためて、真剣に話を聞いてみた。小駒さんの障害者支援にかける想いをな。素晴らしいと思ったよ。お前がそれほど熱を入れるのもよくわかった。お前は今、デザインとかだけじゃなくて、いろんな分野で活躍しているんだろ?」


 違う。違うのだ。


 父は何もわかっていない。


「家に一人でいると、死にたくなってくる。あんな気持ちではもういたくない。たくさんの人に囲まれて、福祉のために働きたいんだ」


 そう言って父は力なく微笑み、遠くを見るような顔をする。


「父さん、ねえ」


「ここに住んで働くなら、家はもう無用だものな。オウルに使ってもらうことにした」


 なに?


 家をオウルに使ってもらう? 


 何を言っているのか。


 吐き気がする。吐き気が。


「ねえ、父さん」


「退職金も寄付しようと思うんだ。これからの人生は、ここで障害者を支えながら、ゆっくりと自分の人生を──」


「父さん!」


 私の声が食堂に響いた。


 皆が私を見ていた。視界の端で、誰かがヒソヒソと話を始めた。メモ帳に何かを書いている人もいる。


 指導申請をするつもりなのだろうか。食堂で大きな声を出した、そう言って。


 気づくと父も、私を疑わしげな目で見ていた。


「どうしたんだ。お前だって、小駒さんには世話になったじゃないか」

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