関係がない

 そろそろ戻ったほうがいいと本島に言われ、私は一人で特別指導室を出た。


 吐き気がし、足元がふらつく。恐ろしいものを見たと思う。


 だが、一体何が恐ろしかったのか、思い出しているうちから忘れていくような気もして、自分を痴呆老人のように感じる。


 鉄格子の前につくと、人形のように無表情な職員が立ち上がり、扉を開けてくれる。私が通り過ぎるのを、目線だけが追っている。


 長い廊下が怖い。


 まるで人生から離れていくような感じがする。


 夢の中にいるようだ。あるいは私は死んでしまったのかもしれない。


 私はほとんど目を閉じた状態で進んだ。


 やがてたどり着いた扉を開けると、明るい光が私を包んだ。


 眩んだ目が慣れてくると、私のよく知っている風景が見えた。住居棟の職員フロアだ。 

 

 オウルくんTシャツを着た職員たちの姿に、徐々に現実的な感覚が戻ってくる。


 私はふらつきながらも、人の気配を求めて歩いていった。


 畳の敷かれた休憩スペースで、五、六人の職員が集まって酒を飲んでいた。その中の一人が渡しを認めて、手を上げた。


 勇太だった。「ああ、やっと戻ってきた」と笑い、私を手招きする。ノリがよく声が大きい、どこか永遠を思わせる軟派な男。だが小駒の掲げるビジョンに共感し、障害者支援に本気で取り組む仲間でもある。


「お疲れっす、先生」


「ああ、うん」


 普通に返事ができることに少し安心する。そして安心したからこそ、自分が強烈に疲れていることに気付く。


「先生も飲みましょうよ。ね」


「……でも」


 躊躇しながらも、人と話していたい、という気持ちもある。一人で部屋に戻って、眠れる気がしなかった。


 結局勇太の誘いを断り切れず、いつの間にか私も彼らの輪に入っていた。


 テーブルの上にビールやチューハイの缶の他、ウイスキーの瓶、炭酸水のペットボトル、柿の種やポテトチップスなどのつまみが並んでいる。


 顔は知っているが話したことはない女性職員が、「先生、何か疲れてる感じ」と笑いながら缶ビールを渡してくれる。


「うん、ちょっとね」


「まあ、飲めば治るって。さ、乾杯」


 勇太の音頭で皆がそれぞれのコップを近づけてくる。私もそれに応え、久しぶりのビールを口に運ぶ。続けて何口か飲むと、「おお〜」と場が盛り上がった。


「さすが先生、飲めますね」


 勇太が言った。悪くない気分だった。一人廊下を進んできた中で感じた不安を、仲間の笑顔とアルコールが和らげてくれる。


 飲み会は続き、中央に置かれたテーブルにはどんどん空き缶が増えていった。


 意識が風船のように膨らみ、膨らんだぶん中身は薄まっていくようで、誰と何を話しているのか、よくわからなくなってくる。疲労が、アルコールと深く絡み合う。


 だが皆が楽しそうに笑っていて、私もきっとたくさん笑ったのだ。


 そこにはいろいろな人がいた。その中に私は瀬能の姿を見た気がした。


「なぜ許せないんですか」


 瀬能も笑っていた。私をずっと憎んでいた瀬能。父とセックスした瀬能。私が指導した瀬能。自分の母親に洗浄指導を言い渡した瀬能。「なぜ許せないんですか」その瀬能が、私を慈しむような目で見つめていた。


「なぜ許せないんですか」


 誰かが言った気がした。


 許せないことなどない、私は思った。





 気がつくと私はゲストルームのベッドに寝ていた。


 大量に飲んだ酒のせいか、視界がぼやけてピントが合わない。時間の感覚も狂っている。


 働かない頭で、飲み過ぎて潰れてしまった私を誰かが運んでくれたのだ、と考える。


 ふと、においを感じた。男のにおい。


 小駒だろうか。


 いや、しかしここはロッジではない。職員フロアのゲストルームだ。それくらいはわかる。


 それを確かめるように動かした指先に、生暖かいものを感じて、私は飛び起きた。


「え」


 私の隣に裸の男が眠っていた。


 さっきまで飲んでいたあの若い男。


 勇太だ。


「ちょっと……何」


 状況を把握する前に体が震え始めた。ふと視線を落とせば、私は全裸だった。何も身に付けていない。乳房が顕わになっている。


「やだ……」


 驚きで吐き気が襲ってくる。


 どうしてこんな事に。何も覚えていない。


 よく見ればここは私の部屋ではなかった。見慣れないカレンダーや家電がある。息が荒くなる。今にも泣き出しそうなのを必死でこらえる。


 勇太を起こしたくない。顔を合わせたくない。何があったにせよ、今すぐここを出て、自分の部屋に戻りたい。


 部屋の隅にまとめて落ちていた服を掴み、立ち上がる。


 落ち着け、落ち着け、そう唱えながら服を着ていると、暗がりの中から「ふふ」と小さな笑い声が聞こえた。


 驚いて息が詰まる。シャツを引き寄せたまま、勇太の方を見る。


「……ああ、笑える」


 勇太はゆっくり体を持ち上げた。上半身は裸だが、短パンを履いている。立ち上がり、私の方に嬉しそうな笑顔を見せながら扉の方に歩いていく。


 そのまま出ていこうとする勇太を、「ちょっと待って!」と止める。


 なぜ止める? わからない。叫び出しそうな不安がせり上がってくる。


 今更のように、何が起こったのかを想像する。まさか、私はこの男と寝たのか? 記憶はない。だが、この状況。言い訳できるとも思えない。


 私は小駒という人がいながら、この男と寝てしまった。少なくとも、そう疑われる状況にある。私は勇太に駆け寄って、その筋肉質の腕を掴んだ。


「ちょっと……ねえ……どこに行くの。ちょっと待って」


 勇太は「先生、やめてくださいよ」と笑う。


「ね、ねえ、お願い。この事、小駒さんには」


「小駒さん?」


 勇太は私と小駒の関係を知らないのかもしれない。施設内で知らぬ者などいないと思ったが、私と小駒の逢引きは常にロッジだったから、知らない職員がいてもおかしくはない。


「つ、付き合ってるの、小駒さんと。だから」


「付き合ってる? 小駒さんと?」


 勇太は愉快そうに言い、また笑う。馬鹿にしたような笑い。


 私は苛立ちを覚える。だいたい私に勇太と寝たいなどという気持ちはなかった。どうしてそんな事になったのか。


「あなたが無理やり……ねえ、そうでしょう。私は嫌だったのに、あなたが」


 私は声を潜めつつ、だが語気を強めて言った。勇太は一瞬不思議そうな顔で私を見て、それから破顔して「こりゃいいや」と笑う。


「あんだけ喘いどいて、よく言うよ」


 そんな──そんなはずはない。私はこの男と寝た記憶などない。


 この男が嘘をついているのではないか。全ては捏造なのではないか。


 飲まされた酒に何か入っていたのかもしれない。父と瀬能との件を思い出す。


 そうだ、父もこの職員フロアのゲストルームで、酒に酔った状態で、瀬能と関係を──


「あのね、先生」


 勇太は私の方に向き直り、幼児をあやすような口調で言った。


「そういう事は、そういう事って今先生が考えてるいろんな事だけど、そういう事はもう、関係ないんだよ」


「関係ないって……何を言ってるの」


「とにかく、もう関係ないんだ。事が起こっちゃった以上、それはここのルールで処理されなきゃならない」


 ルール?


 私はゾッとした。


 オウルのルールと言えば、一つしかない。


「いい? 先生。先生は若い男の体を求めて俺を誘ったんだ。酒に酔って、男が欲しくなったんだと言っていた。俺は断ったんだ。でも先生が無理やりここに連れ込んで、無理やり服を脱がせて、無理やり──」


「う、嘘よ、私があなたにそんな事できるはずないじゃない」


 勇太の身体は盛り上がった筋肉で覆われている。脂肪のない、逞しく鍛えられた肉体。そんな男を、私が無理やり犯した、とでも言うのか。


「ねえ、バカな事言わないで。本当は何もなかったんでしょう? あなたは私を嵌めようとしてる」


「だから、先生。そういうのはもう関係がないんだ」


 勇太の言葉の意味はわからない。だが、このままでは私は大変なことになる。


「わかった。わかったから、お願い。あなたの言う通りにする。隠れてなら本当に抱かせてあげてもいい。だからお願い、お願いだからここだけの事に──」


「知らないんですか、先生」


 勇太の顔から表情が抜けていた。まるで本島のような顔。


「指導申請を邪魔するのは、けっこう重い指導対象になりますよ」


 そう言って勇太は私の手を振り払い、病室のような引き戸の扉を開けて出ていった。

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