許せない

 本島が永遠をベッドに寝かせ、手足を拘束バンドで固定する。永遠は気絶したように動かない。まるで死体のように、されるがままになっている。


 私はそれをぼんやり見ている。数週間前はここに瀬能より子が寝かされていたんだな、と思い出す。あのとき私は小駒と共にここに来て、そしてあの覗き窓から、室内の様子を伺っていた。


「戸田さん、そろそろ始めます」


 本島に言われて、視線を戻す。安定剤のせいだろうか、顔を動かすと視界が少し遅れてついてくる。恐怖や焦りはもう感じない。


 本島が永遠の頭に被された黒頭巾を取る。


 意外なことに、その目は開いていた。意識を失っていたわけではないらしい。


 視界が開けたことに気付いたのか、永遠はしばらく左右を見回すようにしていたが、本島が額にもバンドを掛けて強く固定すると、ハッとして視線を左右に移動させた。


「小夜子?……お前……どうして……」


 本島が永遠のそばを離れ、後ろに控えていた私に、どうぞ、という素振りをする。私は頷いて本島と入れ替わり、ベッド脇に置かれた椅子に腰掛ける。


「おい……なんだよ、なんだよこれ。外してくれよ」


 自分が拘束されていることに今気付いたように永遠が呻く。


 それをぼんやりと見下ろす私は、自分の左手に電気棒が握られていることに気付いた。


 いつの間に手にしていたのだろう。私はその道具に愛おしさを感じた。


 これがオウルの自治を守っている。私の大切な人たちを、そして、私自身を守ってくれている。


「洗浄の前に、電気棒の指導を少し行います」


 本島の言葉に頷いた私は、特に何も思わないまま、永遠の左手、Tシャツから覗いた二の腕に電気棒を押し付けた。


「ごっ」


 喉の奥へと落ち込んでいくようなくぐもった悲鳴が、保護室の中に反響する。もともとぼんやりした状態の私の思考に、その声はふわふわと出たり入ったりする。永遠の体は鉄棒が打ち込まれたように硬直し、やがて痙攣が始まった。私はその様子を黙って見下ろしている。


「はい、そのあたりで」


 耳元で本島の声がし、私はそれに従って電気棒を離した。ゆっくり痙攣が収まっていく。


「例の件を」


 本島が言い、ああそうだったと私は思い出す。そのために私は永遠を指導しているんじゃないか。うっかりしていたなあと、思わず小さな笑いが漏れる。


 永遠が驚きと恐怖の混じった目で私を見る。電流が残っているのか、それとも精神的なショックのためか、うまく話せないらしい。


「ねえ永遠、もう記事は書かない?」


 永遠は目を見開いて、唇を震わせる。


「な……なんだよそれ」


「永遠は、オウルの記事を、小駒さんの記事を、書くんでしょ? それとももう書いた後なの?」


 ごくりとツバを飲み込む音が聞こえる。


「お前……小夜子、だよな」


 永遠がそう言った瞬間、私は再び電気棒を押し付けた。空気が震える。


 一、二、三──。おかしな呻き声。永遠は今更のように、拘束から逃れようと暴れた。また笑いそうになってしまう。そんなことしても、逃げられるはずないのに。


「ねえ永遠、これは大切なことなの。質問に答えて。記事はもう書いたの?」


 永遠の歯がガチガチと音を立てる。恐怖? いや、それとも、怒り?


「さあ、答えて。またこれ、押し付けられたら嫌でしょ?」


 私は電気棒を永遠の前で揺らしてみせる。その目に今度ははっきり恐怖の色が浮かぶ。


 だが、永遠は折れなかった。


「書く……書くぞ。こんなお前を見たら、書くしかない」


 私はカッとして電気棒を掲げ、その顔に向かって振り下ろそうとした。


 だがその瞬間、後ろから腕を掴まれた。振り返ると本島が私を見下ろしていた。


「先生、ここからは私が」


 静かな、だが有無を言わさぬ口調だった。



 小駒曰く、現在この指導ができるのは本島だけらしい。


 私は素直に電気棒を差し出す。本島が洗浄を始めると言ったら、すべて任せるようにと言われていた。その代わり、私は貴重な指導の様子を同室で見学することを許されていた。


 本島は頷いて電気棒を受け取り、私と交代で、ベッドの横に置かれたパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろす。永遠は何かを喚いていたが、本島が短く何度か電気棒を押し付けると、やがておとなしくなった。


「葛城さん──」


 本島の声が低く響く。永遠が血走った目を本島に向ける。汗と涙でどろどろの顔。先ほどの電気ショックで舌を噛んだのか、頬に血の筋が垂れている。


「あなたはなぜここに来たのですか」


 本島が言った。


 なぜここに来たのか。一体、何のための質問なのだろう。そんなことより、記事のことを話すべきではないのか。永遠も戸惑ったように視線を動かし、答えられずにいる。


「あなたは、なぜ、ここに来たのですか」


 本島はゆっくりと繰り返す。


「何だ……何を言ってる……」


 永遠の目には恐怖が浮かんでいる。不気味な男に意味不明な質問を投げかけられているのだ。戸惑うのは当然なのかもしれない。いや、永遠だけではない。それを横で聞いている私自身、本島の意図がわからない。


「あなたは、なぜ、ここに来たのですか」


 だが本島はあくまで繰り返す。


 永遠は呻くように、「なぜって、小夜子を助けに」と答えた。


「なぜ、助けに来たんですか」


 本島は微妙に質問を変えた。だがそのトーンは先ほどまでと変わらない。


「……小夜子は俺の……友達だ。だから、お前らのやり方は許せない」


「なぜ許せないんですか」


「おい! 一体何を言ってる……俺は」


 永遠が声を荒げると、電気棒が一 瞬だけ押し付けられる。永遠は顔をのけぞらせるが、感電が一瞬のため痙攣は起きない。そして本島は、声色を変えることなく、また同じ質問をする。


「なぜ、許せないんですか」


「クソ……それは、小夜子を……小夜子をこんな風に……お前らが……」


「なぜ、許せないんですか」


「洗脳したからだ、お前らが小夜子をこんな風に……」


「戸田先生を洗脳することが、なぜ許せないんですか」


「なぜって、おい、何なんだ、同じことを──」


「なぜ、許せないんですか」


 永遠が何を言っても、本島は同じ質問を繰り返した。そして、声を荒げたり質問に関係ない返事をすると、一瞬だけ電気棒が押し当てられる。


 本島は何をやっているのだろう。これが洗浄指導なのだろうか。見ているこっちまで時間の感覚がおかしくなってくる。


 本島はあくまで同じことを続ける。ずっと同じようなことを、同じようなトーンで聞く。だが、そこで妙なことが起こった。永遠の方に変化が見え始めたのだ。


 同じような質問を何十回と繰り返されているうち、永遠の表情は徐々に薄くなり、目から力が消えていった。どこかぼんやりとした様子で、唇から垂れていた血の色が、ピンク色に変わっている。涎と混ざって色が薄くなっているのかもしれない。


「卑怯だ……お前らは、卑怯だ……」


 永遠が独り言のように言う。本島はだがそれを執拗に拾う。


「我々が卑怯だと、なぜ許せないのですか」


「……誰だって、許せない」


「なぜですか、なぜ、許せないんですか」


 また同じだ。本島は同じことばかりだ。


「なぜ許せないんですか」


「それは──」


 なぜだろう。永遠はなぜ許せないのだろう。何を許せないのだろう。


「なぜ許せないんですか」


「それは──」


「なぜ許せないんですか。なぜ、許せないんですか」


 言葉の意味が崩壊していく。どう答えていいのかわからない。いや、質問されているのは私ではなく永遠だ。それなら私は、一体ここで何をしているのだ?


「なぜ、許せないんですか」


 なぜだろう。


 なぜなのだろう。許せないとは、どういうことだろう。


「なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか」


「それは──」


 言ったのは私なのか永遠なのか。この時間をさっきも過ごした気がする。だが、いま初めて聞いたような気もするのだ。一つ目の「なぜ許せないんですか」と二つ目の「なぜ許せないんですか」は同じ言葉なのだろうか。それとも、違う言葉なのだろうか。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか。


「それは──」


 それは──?


「なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか。


なぜ許せないんですか」


 呪文のような本島の声は、もしかしたら私の頭の中で響いているのかもしれない。本島は本当は、何も話していないのかもしれない。


 ベッドに縛り付けられている永遠を見る。涎を垂らし、どこか恍惚とした表情で宙を見つめている。本島は時々思い出したように電気棒を押し付ける。この部屋に来て何分経ったのかわからない。


「なぜ許せないんですか」


 わからない。私も。わからない。何も。


 私は何をしているのだろう。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。


「なぜ許せないんですか」。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


 わからない。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


「なぜ許せないんですか」。


 わからない。


 私はわからない。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ、


 なぜ、


 なぜ、



 ……


 ……


 ここに来てどのくらいの時間が経ったのか。


 なぜ許せないんですか。なぜ許せないんですか。


 本島は一体何の話をしているのだろうか。


 なぜ許せないんですか。


 「なぜ許せないんですか」。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


 「なぜ許せないんですか」。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ許せないんですか。


 なぜ、


 「なぜ」、なぜ、許せ────


 どれくらいの時間が経ったのだろう。私はここで何をしているのだろう。


 ふっと本島の声が途切れ、


 そしてまるで最後のピースをはめ込むように、


 「なぜ、許せないんですか」という声が聞こえた。


 そして──




「許します」


 永遠が答えた。

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