永遠が私に好意を抱いていることは、ずっとわかっていた。


 高校の頃、初めて言葉を交わしたあの海浜公園から、ずっと。


 だが私は気付かぬふりをした。


 永遠を失いたくなかったからだ。


 気持ちに応えてしまえば、私たちはどこにでもいる恋人同士になってしまう。そして皆と同じように些細なことで喧嘩し、別れる。それで終わりだ。


 そんなことになるのは嫌だった。


 周りとうまくやれない私にとって、永遠は唯一の友達で、私の理解者だったから。


 でも、あれから長い時間が経った。永遠と私の人生は、卒業を境に枝分かれした。私は都会で一人暮らしを始め、永遠は東南アジアを放浪するようになった。


 大丈夫だ。私はもう、永遠を失うことができる。


 いや、そうではない。


 永遠は今でも、私の大切な理解者だ。この間も、取り乱す私を一生懸命支えてくれた。私は永遠を失いたくなんてない。


 しかし、私には永遠以上に失いたくないものができてしまったのだ。




 プレハブから二人でロッジに移動してくると、小駒は早々にシャワーを浴びに奥へと消えた。電話はそこのを使ってくれていいですから、と言い残して。


 小駒は私を信用している。いや、あるいは私を試しているのかもしれない。今回のことで、小駒はついに私を判断するのかもしれない。


 玄関脇にある固定電話の前に立ち、ツバを飲み込む。カバンから携帯電話を取り出すと、永遠の番号を表示させ、固定電話のボタンをプッシュしていく。


 永遠はきっと、記事を書くことで私を救おうとしていたのだろう。無理やり連れて帰っても、頑固な私はきっと自ら施設に戻ってしまうと考えたのかもしれない。


 あるいは、明確に敵対関係となった小駒がいるここに来たくなかったのかもしれない。


 それに、オウルがあるのは、深い山の中だ。常に人が行き交う街なかとはまるで違う、ある種の閉鎖空間なのだ。


 永遠はここに来ることを危険だと判断した。そしてそれは当たり前の思考だ。


 ──だが、私から直接助けを求められたら話は別だ。


 オウルに監禁されていた。ずっと逃げ出したかったが、無理だった。彼らの目を盗んで施設の外に出てきた。今すぐに来てくれたら一緒に逃げられる。


 永遠。助けに来て。


 私がそう言えば、永遠は必ずここに来る。


 必ず。


 最後のボタンを押し終えると、私は目を閉じた。





 約四十分後、私は小駒から与えられた数名の職員を伴ってクラブハウスを出た。


 オウルでの生活に慣れてきたからだろうか、以前は真っ暗だと感じた夜の山は、月の明かりのおかげで白みを帯びて見える。


 この明るさなら十分に──施設の人間なら十分に──目が効く。そう思いながら坂を下る。ほんの数十秒で、左手に駐車場が見えてきた。


 たっぷり葉をつけた枝先が屋根のように垂れていて、駐車場の敷地内は通路部分よりずっと暗い。街なかの明るい照明に慣れた人間なら、ほとんど何も見えないくらいだろう。


 私は連れてきた職員たちを、あらかじめ決めていたポイントに配置していった。木や草の影に入ってしまえば、その姿は完全に見えなくなる。


 私はポケットから携帯電話を取り出した。電波は入らないが、時計は動いている。早ければそろそろ到着する頃だろう。


 私は電話をポケットにしまうと、駐車場の入口脇に身を隠した。



 遠くから機械音が聞こえたのは、それから十分ほどした頃だった。


 どこか懐かしい音。先日も聞いた、所長の所有するオンボロミニクーパーのエンジン音だ。


 それは徐々に近づいてきて、やがて坂の下の方でヘッドライトの光がちらつくようになった。じっと息を殺して待っていると、丸みを帯びた小さな車影が見えた。あの旧車にはやはりこの坂は堪えるらしい。


 そんな大きな音を出していたら、嫌でも施設の人間は気付いちゃうじゃないの。まったく、バカ永遠なんだから。


 そんな言葉が頭に浮かび、今更のように、私は何をしているのだろうかと考える。


 車は駐車場の手前二十メートルほどの位置まで迫っていた。車はそこで停車し、それからフロントライトが消える。駐車場まで来なかったのは、一応の警戒のためだろうか。やがてドアの開く音がして、中から長身の人影が現れた。


 腰を落とすようにして、周囲を見回しながら近づいてくる。


「小夜子……おい……小夜子」


 やがて声が聞こえだした。


 永遠だった。間違いなかった。私の嘘の電話に騙されて、ここまでやって来た。


 動悸がし始めた。来た。本当に来てしまった。


 私は何をしているのだろうか、とまた思う。頭の中に、あの施設奥深くの密室で、洗浄指導を受ける瀬能より子の様子が思い浮かんだ。ベッドに縛り付けられ、身動きの取れない状態で、長時間の指導を受けた。


 あの後より子がどうなったのか、私は知らない。


 今ならまだ間に合う、と思う。私を助けるためにここに来た永遠に、あんなことを受けさせるわけにはいかない。


 ダメだ、と思う。私は一体どうしてしまったのだろうか。小駒を助けるためだとは言え、大切な幼馴染を、自分を想ってくれている友達を裏切るなんて。


 近づいてくる永遠の声を暗がりで聞きながら、まだ間に合うだろうか、と考える。他の職員たちは私が永遠に接触するまで動かない。


 予定通り永遠に駆け寄り、その胸に飛び込んで、そして職員たちに気付かれないように説明すればいい。いや、説明などする暇はない。とにかく、全て嘘なのだと告げ、危険が迫っていることを伝え、帰らせるのだ。


 とにかく、こんなことをしてはいけない。そうだ。


 そうして私が腰を上げかけた瞬間だった。


「戸田先生」


 真後ろから声が聞こえた。


 後頭部から腰にかけて、冷たい液体がすっと流れた感覚。


 喉を掴まれたようになった私は、無言で、恐る恐る肩越しに振り返る。


 私の背後、三十センチと離れていない場所に、本島の顔があった。


 本島は言った。


「指導拒否も、指導対象になりますよ」


 瞬間、私の頭の中を様々な記憶が駆け巡った。


 私はまだ一度も指導を受けたことがない。怖い。嫌だ。危険がないなんて、嘘だ。


 恐怖と焦りで私が口をパクパクしていると、本島は何かを取り出し、私の眼前に掲げた。ピンク色の錠剤だった。


「安定剤です。飲めば落ち着く」


 私は頷いたのだろうか。気付いたときにはその錠剤は口の中にあった。




「永遠っ」


 悲鳴を上げながら飛び出し、その胸に飛び込む。


「小夜子っ」


 痩せた体が私を受け止め、腕が自然と私の背中に回った。


 その指先に、躊躇の気配を覚えた。抱きしめていいものかどうか、迷っている。


 出会ってから十年以上。冗談で叩いたりする時を除いて、永遠が私に触れたことは一度もない。私が永遠の気持ちに気付きながらそれを無視すると決めていることを、永遠もきっとわかっていた。


 それなのに、私を助けに、永遠は来た。


 私は何をしているのだろうか。私はそんな優しい永遠に、何をしようとしているのだろうか。


「小夜子……よかった。とにかくここを離れるぞ。話は後だ」


 永遠はそう言って私を離し、手ではなく腕を掴んで引っ張った。


「永遠──あのね」


 私が言った瞬間だった。暗がりから飛び出した職員たちが、永遠に飛びかかった。


 驚く間もなかった。彼らは暴れる人間を制御するプロなのだ。永遠はあっという間に拘束された。ただ組み敷かれただけではない。その腕には拘束バンドがつけられ、猿ぐつわも噛まされている。


 永遠はしばらく呻きながら抵抗していたが、拘束具をつけられた上、プロレスラーのような職員数名にのしかかられた状態では、歯が立つはずもない。


 職員の一人が猿ぐつわの間から、何かをねじ込んだのが見えた。永遠の表情が歪む。だが他の職員がすっぽりと黒頭巾をかけてしまい、その顔はすぐに見えなくなった。


 私はその様子を黙って見ていた。


 先ほどまでの迷いのようなものはもうなかった。


 心の外側に透明なゼリーのようなものがあって、全ての衝撃を代わりに受け止めてくれる。酒に酔った時のような、二度寝に落ちていくときのような、あらゆる感覚が鈍化して、ふわふわ浮いているような心地がする。


 視線を上げると、坂の上から本島が見下ろしていた。


「本島さん」


 私が呼びかけると、本島は「どうかされましたか?」と聞いてくる。


 私は思わず笑いそうになる。全部目の前で見ていたのに、どうされましたか、だなんて。


 だが次の瞬間には、本島のオウルに対する強い想いに敬意を感じている。この人は、オウルのルールを誰よりも強く信じているのだ。


 いや、本島自体がオウルのルールなのかもしれない。小駒が本島を信頼している理由がわかった。この人はオウルの一部として、オウルのために生きている人なのだ。


「戸田先生、どうかされましたか?」


 本島が促す。


 私はぼんやりとしながら、先ほど小駒の前でも練習したセリフを言った。


「はい。部外者が突然現れて、私を拉致しようとしました。相応の指導を申請します」


 私が言うと、本島の顔に一瞬、微かな笑みのようなものが浮かんだ気がした。


 直後、本島はいつもの顔に戻り、声を張り上げた。


「それではっ、この部外者をっ、洗浄指導としますっ」

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