私の居場所
父とは住居棟の入口で別れた。
父は職員フロアへと戻っていき、私はクラブハウスまで行って鍵を借り、一人PCルームに向かった。小駒が仕事をしている間、ここで私も作業を進めようと思い、許可を取ってあったのだ。
自分の席に座り、カバンの中から参考書を取り出す。ECサイトづくりのために昨日、書店で買ったものだ。だが、中身を読み始めても、なかなか集中できない。
先ほどの母の反応が気になっていた。そいつらをここにおびきよせ、指導する?
母はあれ以上のことを説明してくれなかった。一体どういうことなのだろうか。
小駒は宝木たちから遠ざけるため私と父を施設に連れてきた。おびきよせる、という言葉の対象が宝木のことなら、母の言うことは私たちの思惑とはほとんど真逆の話ではないか。
「……どういうこと?」
思わず一人つぶやく。だが、小駒が考えを教えてくれない以上、想像したところで意味はない。そもそも、おびき寄せるという言葉は、小駒ではなく母から出てきたものなのだ。母には小駒の頭の中がわかるのだろうか? 本当に小駒はそんなことを考えているのだろうか?
気づけばまた時間が過ぎている。こんなんじゃだめだ、と参考書に視線を戻し、サンプルコードを書くためにエディタを立ち上げるが、数分経ったころには指は止まり、別のことを考えている。
そんなことを何度も繰り返していると、窓をノックする音が聞こえた。
顔を上げると、そこには磯野が立っていた。慌てて椅子から立ち上がり、ガラス戸を開ける。
「磯野さん、お疲れさまです」
「先生こそ、お休みなのにご苦労さまです」
そう言って磯野は小さく頭を下げる。私が仕事をしているように見えたのだろう。実際はほとんど考え事をしていたのだとは言えない。
「それで……どうかされましたか?」
気まずさ混じりに聞くと、磯野は、「小駒さんからの伝言がありまして」と言った。
小駒の名に、反射的に昨晩の出来事が頭に浮かんだ。
今更のように、どうしてあんなことを、と考える。宝木の件で、父だけでなく私もおかしくなっていた。強烈なストレスから開放されて、大胆になっていたのだろうか。
「あ、そうなんですね。それで、伝言というのは?」
「はい、先生には、午後もこちらの部屋をお使いただくように、とのことです。あの、小駒さんが用事で外に出られてまして、それで、ロッジが使えないものですから」
磯野の口からロッジという言葉が出て、またどきりとする。だがなるほど、私と父は今後しばらくオウルに留まるのだ。父にはゲストルームが割り当てられていたが、私は昨晩ロッジに泊まった。そのロッジは小駒がいない時間は使えないのだ。
「あ、わかりました。わざわざありがとうございます」
私が頭を下げると、磯野はいえいえ、と首を振った。それから少し照れくさそうに視線を落とし、言った。
「何かできることがあれば遠慮なく言ってください。私たちは、オウルは、先生の味方ですから」
正午過ぎ、昼食を取ろうと住居棟まで行き、職員フロアに父を訪ねた。
父はゲストルームのベッドに横になっており、気分が悪いから昼食は食べない、と言った。慣れない場所で過ごす疲れのせいか、今朝の母との会話が影響しているのか、いずれにせよ無理はしないほうがいい。
「わかった。ゆっくり休んで」
磯野の言葉が、思いの外自分を勇気づけていた。小駒だけでなく、ここの職員たちも私たちを心配し、応援してくれる。考えてみれば、母のあの言葉も、私や父を苦しめている宝木や瀬能の母親に対する怒りから発せられたものだろう。
食堂に行って昼食をとっている間も、同じテーブルで楽しそうに食事をする利用者や職員の姿、素材の味を生かした美味しい料理、それに窓の外に広がるまっさらな森の姿に、心が落ち着きを取り戻していく感覚があった。
ここなら、大丈夫だ。ここにいれば、仲間が大勢いる。
食事を終えて食器を返しに行くと、そこでちょうど砂山と徳武のコンビに出会った。パソコン教室の愛すべき教え子たち。
「先生っ、先生っ、先生っ」
私を見つけた砂山が興奮した様子で叫び、音を立てて手を叩く。横で徳武が「砂夫、おい砂夫、うるせいぞっ」と大笑いする。
「ぱすこんは? 今日、ぱすこんは?」
「今日はお休みだけど、明日はあるわよ」
私が言うと砂山はわーいわーいと喜び、「うるせいっ」と繰り返す徳武と仲良さそうに去っていった。
その後ろ姿を見ながら、自分が微笑んでいることに気付く。
──これは君の人生なんだから。
先日所長に言われた言葉を思い出す。仲間がいるだけではない。ここは私にとっての職場でもある。やりがいのある、全力を傾けられる仕事場だ。
住居棟を出ると、一度クラブハウスに戻った。今朝キー貸し出しのノートに書いた時間を修正するためだ。
パソコン教室を使うとしたら私しかいないのだから、特に利用時間をオーバーしても問題はないのだが、できるだけきっちり対応したかった。それに、自分も他の職員たちのように、当たり前にクラブハウスを出入りできるようになりたかった。
中には数名の職員たちが、揃いのオウルくんTシャツを着て働いていた。事務処理をしている人、電話をかけている人、職員同士で打ち合わせをしている人もいる。私も近いうち、彼らと同じTシャツを着て働くようになるのだろうか。
「あっ、戸田先生」
言われて振り返ると、面識のない中年の女性職員が、受話器のマイクを手で覆うようにして私を見ていた。その手を一瞬離し、指先を動かしてこっちこっちというジェスチャーをする。
なんだろう、と思いながら近づくと、再びマイク部分を手で覆いながら、「戸田先生って下の名前、小夜子さん?」と聞いてくる。
「え? ええ、そうですけど」
戸惑いつつ答えると、女性職員は微かに困った表情になった。
「あの……お電話なんです。葛城さんって人から」
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