住居棟

 一人で住居棟に行き、職員フロアに向かう。途中、休憩スペースの脇にある横に長い手洗い場の所で、磯野に会った。


「ああ、先生。何かトラブルだって聞きましたけど」


 磯野はそう言って心配そうに私の顔を覗き込んだ。手洗い場にいた他の職員も、同情的な表情で私たちの様子を見守っている。家庭内の問題で皆に迷惑をかけていると思うと、恥ずかしさを覚えた。だが一方で、小駒や磯野はじめ、オウルの職員たちも皆味方なのだと思うと、心強さも感じる。


「すみません、ご心配かけて。小駒さんがいろいろとサポートしてくださっているので、大丈夫です」


 私が言うと、磯野は大きく頷いた。


「小駒さんに任せておけば安心です。ああ、そうそう。先ほどお父様に声をかけられて」


「え……父からですか」


「ええ。朝食を部屋まで運んでくれないかと頼まれたので、職員に運ばせました」


「そうだったんですか……お手数かけてすみません。私も今、様子を見にきたところで」


 頭を下げて、ゲストルームの方へと向かった。


 一体どういうつもりだろう。ホテルか何かにでも来たつもりなのだろうか。利用者が食堂で食べている中、部屋まで料理を運ばせるなんて……。


 ノックなく扉を開けると、父はギョッとしたように動きを止め、それから思い出したように苦笑いを浮かべた。普段は七三に撫で付けられている髪は、あっちこっちへと跳ねるような寝癖がついている。ベッド脇のキャビネットには、皿に盛られた食事が乗せられていた。


 私の無言に何かを感じたのだろう、父は慌てたように、「いや、だって、俺が食堂で食うわけにいかないだろう」と言った。


「なんでよ」


「いや……そりゃあ、だってここの皆さんと一緒ってわけにはなあ」


 よくわからない主張だが、その言い方に、ひとまず落ち着いたのだろうとわかる。時間の経過によってか、あるいは物理的に宝木から離れた安心からか、混乱は影を潜めていた。


「具合……どうなの?」


「ああ、まあ、だいぶな」


 そう言って父はうつむき、次の言葉を待つように沈黙する。媚びたような、甘えた沈黙。どちらかと言えば自己中心的で傲慢な父らしくない振る舞いではある。


「──ご飯食べ終わったら、一緒に母さんのところに行こうと思ってるの。一緒に来て」


 私が言うと、父は驚いたように顔を上げた。


「母さんのところに? 俺もか?」


「同じ施設にいるのに、会わないのも変でしょ」


「いや、しかし……」


 父が躊躇するのも無理はなかった。だが、小駒の言っていたように、この状況でコミュニケーションを取らない方が不自然なのだ。それに──


「大丈夫よ。母さんはもうオウルの人。瀬能さんとの件は、この間の指導で精算されてるんだもの」


 そうだ。小駒の言う通り、私たちはいまオウルのルール下にいる。私の言葉に驚いたように目を見開いた父は、「いや……そうは言っても」と煮え切らない。


 いい加減苛立ちを覚えた私は、「小駒さんがそうした方がいいって言ってるのよ」と強い口調で言った。


「小駒さんが?」


 父は一瞬怯えた表情になり、言った。私は頷く。小駒は、問題には直接関係ないのに、これほどのサポートをしてくれている。さすがに負い目は感じているのだろう、父も「そうか……」と項垂れて、結局は母との面会を了承した。





 職員フロアを出た私と父は、一度食堂に寄って空の食器を返し、その足で階段を上った。


 三階に上がると、二階とはまた雰囲気の違うエントランススペースが見渡せた。ソファやベンチが雑然と配置されており、壁には手作りらしい工作物や広報用のプリントが貼られている。七、八人の女性利用者と、同じくらいの職員。考えてみれば、女性フロアに来るのは私も初めてのことだった。


「ああ、お疲れさまです」


 何度か挨拶を交わしたことのある女性職員が私たちに気づき、声をかけてくれる。居室は女性専用だが、男性禁制フロアというわけではないらしく、父がいても特に驚いた表情を見せない。事情を話すと、女性職員は微笑んで頷き、母の部屋まで案内してくれた。


「今日は日曜だから、皆ゆっくりなんですよ」


 女性職員は気軽に話しかけてくれるが、緊張してうまく笑えない。私ですらそうなのだから、父はもっと緊張しているのだろう。いつの間にか口数が少なくなり、三階に来てからは一言も発していない。


 廊下を奥へと進んでいきながら、私はあらためて、障害者支援施設の日常を見た。


 タオルを忙しなく振りながら職員に何かを訴えている人、窓の外をじっと見つめている人、床に寝転がって何かを呟いている人、ベランダで空に向かって手を上げながら回転している人。


 当初想像していたほど狂気的ではなかったが、それでも突然聞こえてくる奇声や、職員に抱えられるようにして連れて行かれる姿に、ここが普通とは違う世界であることを再認識させられる。歩いている途中で突然何かが足に絡まり、驚いて見れば、誰のものなのかわからないブラジャーだった。


 結局、私が知っているのはパソコン教室の生徒たちだけなのだな、と思う。そして彼らは、オウルの中でも軽度の障害者に分類される。ここには、パソコン技術を身につけたくてもつけられない、重い障害を持った利用者も大勢いるのだ。




 母の部屋は「みづき」という区画にあった。


 案内してくれた女性職員が、こういう区画をユニットと言うのだと教えてくれる。各ユニットは五つから七つの個室または二人部屋と、そのユニットメンバーたちが皆で使う共有スペースからなっている。


 その共有スペースで、母は他のメンバーと共にテレビを見ていた。


「戸田さん、ご家族が来られてますよ」


 女性職員が声をかけると、母が振り返った。私と父を認め、微かに驚いた表情になる。


「どうしましょう、お部屋に行きますか?」


 女性職員の質問に、「そうね。ここだと迷惑だしね」としっかりした口調で答え、ソファから立ち上がると、迷いのない足取りで奥の居室に向かっていく。職員に促され、他の利用者たちに頭を下げつつ、その後を追った。


 母の部屋は四畳半程度の広さで、奥に長く、ベッドとテレビと洋服ダンスしかないシンプルな造りだった。正面に窓が一つあり、そこからは外に広がる深い森が見えている。決して新しくはないが、掃除が行き届いていて清潔な雰囲気だ。


 私たちが部屋に入ると、先ほどの女性職員がパイプ椅子を二つ持ってきてくれた。礼を言って受け取り、父と並んで座ると、ベッドに腰掛けて窓の外を眺めている母にあらためて向き合った。


「ごめんね、突然」


 私が言うと、母は諦めたようにこちらを見た。私は今更のように、その姿に衝撃を受けた。母は真っ白のブラウスとグレイのスラックスを身に着け、きちんと髪もとかされており、驚いたことにその顔には薄化粧の気配もある。頬の傷はもちろん消えてはいないが、家に引きこもっていたときとは全く違う雰囲気だ。


「別に、今日は作業がないからね。暇してたんだよ」


 迷いのない言い方。母らしい話し方。いや、しかし、私を罵倒していたようなあの口調とは違う。そう、それは、母がまだ元気で活動的だった頃の話し方だった。


「どうしたんだ、あんたはまだしも、父さんまで」


 驚く私に、母は続けて言った。


「う、うん……それがね」


 私は覚悟を決めて事情を話すことにした。


「実は、困ったことになってて」


 数日前の指導の後、瀬能の母親が事情を知って金を請求してきていること。宝木という恐ろしい男を寄越したこと──隣で父がうつむいているのがわかる。一方の母は冷静に聞いていた。瀬能の名や二千万円という金額が出てきても、微かに目を細めるだけで、大きな反応はない。


「──それで、家にいたら危険だろうってことで小駒さんが私たちを施設に呼んでくれて。それで私も父さんもここに」


「なるほどね。そういうことかい」


 母は淡々と言い、話が一段落したことを確認すると、ベッドから立ち上がった。そして奥の洋服ダンスの上に乗っていたポットから茶を注ぎ、それから「あんたらも飲むかい?」と聞いてくる。


 私は父と顔を見合わせる。小駒に後押しされたとは言え、私は内心、母が怒り出すのではないかと心配だったのだ。


「ああ、ううん。大丈夫」


「俺も……いい」


 母は私たちの方をチラリと振り返ると、そうかい、と言って自分の茶を注ぎ、ベッドに戻ってくる。そして、湯気のたつ湯呑みをゆっくりと傾け、味わうように口に入れる。


「それで……今後のことについても、小駒さんが考えてくれているみたいで。まだ内容は聞いていないんだけど、でも、いろいろとお任せしようと思ってて」


 先ほど父にもそういう話をしていた。父も小駒に全面的に任せたいと言った。今回の件で、父の小駒に対する信頼度は格段に上がっているようだ。当然といえば当然だ。あの宝木から自分を救ってくれたのが小駒であり、他に頼れる人もいないのだから。


「あの……母さんは、どう思う?」


 落ち着いた様子の母が不気味で、思わず伺うような口調になってしまう。すると母は、独り言のような口調で言った。


「──さすがだよ、小駒さんは」


「え?」


 母は口元に笑みを浮かべている。


「さすがって……何が?」


 母は私と父を見比べるようにして、薄く笑った。その笑いの意味がわからない。母はゆっくりと茶を飲み、それからほとんど聞こえないくらいの音量で「バカどもが……」と呟いた。


 ぎょっとして「え?」と聞き返すと、母は顎を上げ、私たちを見下すような目をして、「あんたたちにはわからないだろうね」と吐き捨てるように言う。


「母さん……どういうことなの」


 不安がじわじわと侵食してくる。母はまた茶を口に含み、何が楽しいのか目元にシワを寄せて微笑んだ。そして私たちを見て、言った。


「小駒さんは、そいつらをここにおびき出すつもりなんだ。私たちに喧嘩を売ったバカどもを、指導してやるのさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る