オウル
午後七時十五分、ワンボックスはオウルに到着した。
駐車場に入り、土の地面に足を下ろしたときには、ほっと力が抜けた。何名かの職員がクラブハウスから出てきて、私たちの荷物を持ってくれた。
「職員フロアにゲストルームを取りました。とりあえずそちらに向かいましょう」
クラブハウス奥の出入り口から施設内へと入っていく。まだふらつきを訴える父の手を職員が取り、前を歩いて行く。普段から介助の仕事をしているだけあって、手付きは慣れたものだ。灯の落とされた作業所郡を抜け、住居棟へと続く緩やかな坂を上っていく。
建物の中に入ると、靴を脱いで職員フロアへと向かった。
休憩所に職員の姿はなく、私たちは黙ってその前を通り過ぎる。トイレや浴場の前を抜けると、扉の連なる廊下に出た。先日オウルに泊まった際も利用させてもらったゲストルームが、何部屋も並んでいる。
先導していた職員が扉の一つを開け、「こちらです」と言いながら入っていく。中にはベッドと洋服ダンス、車輪のついたキャビネットがあり、部屋の隅には引き出しのついたワゴンが置かれ、その上には小型のブラウン管テレビがある。この間泊まったのと同じような作りだ。
「じゃあお父様はこちらをお使いください」
父は特に躊躇する様子もなく中へと入り、促されるままベッドに腰を下ろした。顔色はまだよくないが、家にいる時よりは落ち着いてきている。
「父さん、大丈夫?」
私の言葉に父は何度か細かく頷き、「ああ」と曖昧な返事をする。
「とにかく今日はゆっくり休んでください。明日は日曜ですし、ゆっくり考えましょう」
眠れそうかと聞くと、父は頷いて、むしろ眠気がすごいと言った。気持ちは痛いほどわかる。父が受けているストレスは、私以上に強いものなのだろう。
父がこのまま休みたいと言うので、風呂にも入っていないし、服装もポロシャツにスラックスというものだったが、部屋を出ることにした。
「戸田さん、今後のことについてちょっとお話したいんですが、ロッジまで来ていただけますか?」
「あ、わかりました」
職員と別れ、小駒と二人で来た道を戻った。住居棟を出て、暗い森の中をクラブハウス方面へと向かっていく。
「宝木はここの事を突き止めるでしょうか」
施設内には所々に照明が立っているが、作業所郡とも離れているロッジへの道はかなり暗い。すぐそばにいるはずの小駒の顔すら、満足に見えないくらいだ。
「そうですね。遅かれ早かれ、知ることになるでしょう。ただここは、少なくともご自宅のように簡単に乗り込めるような場所ではありません。中に入るには、基本的にクラブハウスを通り抜けなければなりませんし、あそこには常時職員がいますから」
言われてみれば、クラブハウス自体が施設の門となっていることに気付く。入ってすぐに大きなカウンターがあり、その向こうには職員のデスクがあり、昼間はもちろん、夜間でも誰かしらの目が光っている。見つからずに通り抜けるのは至難の業だろう。
「仮に何らかの方法でそれを突破してきたとしても、施設の中には多くの職員と入所者がいます。お父様とあなたしかいないご自宅とは、そういう意味でも全く違うんです」
クラブハウス前に到着すると、今度は進路を右に取る。この道を進んで右にカーブした先に、ロッジはある。
自宅に比べてずっと安全な環境であることが、実際ここに来てみるとよくわかる。だが、問題が完全に解決したわけではない。宝木は簡単には諦めないだろう。私たちがここに匿われていることを知れば、何か別の手を考えるのではないか。
「これから、どうすればいいんでしょう。ずっとお世話になるわけにはいかないし」
徐々に狭くなる道を進みながら、私は言った。左右に森がせり出してきて、道幅は二メートルほどしかない。
「大丈夫です。私がきっと何とかしますから」
「小駒さん……」
「考えがあると言ったでしょう? あなたは安心して、私に任せていればいい」
私はちらと小駒の顔を見た。なんとなくだが、小駒らしくない言い方だと感じたからだ。だが、クラブハウス前に比べてさらに光のない道だ。小駒の顔は暗闇に黒く塗りつぶされ、その表情は確認することができなかった。
その夜、私と小駒は初めて肉体関係を結んだ。
ロッジの中に入って扉を閉めた瞬間、小駒は私を抱き寄せると、当たり前のように唇を重ねてきた。
驚かなかったと言えば嘘になる。
だが私はどこかで、こうなることを予想していた。いや、期待していた、と言ってもいい。
私の小駒に対する好意、共に人生を歩みたい、いや、より正確に言えば、共に人生を歩んでもいい女だと思ってもらいたいという想い、そして、父と共に匿ってもらっている、こんな迷惑をかけてしまっているという負い目が混じり合い、それがどういうわけか、小駒に抱かれたい、抱かれてしまえばいろいろなことがうまくいくのではないか、という考えになっていた。先ほど自宅で私を抱きしめた小駒の行動が、その考えに拍車をかけた。
素朴で奥手な印象は、意外にも覆された。二人してソファに倒れ込むと、小駒の手がTシャツの裾から入り込んで荒々しく乳房を揉んだ。小駒の指先が下着の中に入ってきた時に、ここ何年間もくすぶっていた欲望に火がついた。
◆
結局ロッジで一夜を明かしてしまった私は、朝、小駒の淹れてくれたコーヒーの香りで目を覚ました。ソファはいつの間にか背もたれが倒され、ベッドになっている。
「おはようございます。いまコーヒーを淹れますから」
キッチンから振り返った小駒の表情は、いつものように穏やかで優しいものだった。まるで、昨日の夜の出来事が幻だったかのように。
頷いた私は、ふと不安になり、かけられたタオルケットをそっとめくってみた。そこには、間違いなく全裸の身体があり、よく見れば、激しいセックスの証拠とも言うべき、青あざもいくつか見える。
「よかったら、シャワーを使ってください。さっぱりしますよ」
私はそれに甘えることにした。タオルケットに包まってシャワールームに移動し、熱い湯を浴びた。寝ぼけていた頭がスッキリする。もしかしたら朝、またセックスすることになるかもしれないと思い、身体や性器を入念に洗う。
家から持ってきた服に着替えて出てくると、小駒の姿がなかった。
どこにいったのだろうと思っていると、やがて上の方から「戸田さん、こっちです」と声がした。見れば、以前は気づかなかった細い階段の上から、小駒がこちらを覗き込んでいた。
「気をつけて上がってきてください」
屋外に出ると、突然風景が開けた。そこは屋根の一部を利用して作られたテラスで、視界の先には、広大な森が広がっている。何千本もの木々が重なり、まだ登って間もない日に照らされてキラキラと輝いている。それは驚くほど美しい景色だった。
「すごい……素敵」
「でしょう?」
小駒は自慢げに言い、テラス中央の丸テーブルに置かれたサイフォンから、二つのカップにコーヒーを注ぐ。テーブルにはコーヒーの他に、いつの間に作ったのか、ハムエッグ、クロワッサン、そしてヨーグルトなども並べられていた。
私たちはそこで朝食をとり、街中とは比べ物にならないほど静かな朝の時間を楽しんだ。テラスに置かれたデッキチェアに横になり、澄んだ空気を吸いながら空を見上げていると、あらゆる不安が消えていくような感じがした。
午前九時過ぎ、小駒と一緒に洗い物をすませると、さすがに頭が現実的な問題を考え始める。父のこと、宝木のこと、そして、母のこと。昨晩ロッジに向かう途中、小駒は自分に考えがあると言っていた。
「あの……昨日仰っていた、考え、というのは」
あの時、なんとなく詮索を拒絶された感じがした。だが、どうしても気になってしまう。小駒はちらりと私の方を見ると、「気になるでしょうが、今はちょっとだけ待っていてほしいんです」と言う。
「あ……そうですよね」
男と女の関係になれば、二人の距離も縮まり、安心できると思っていた。いや、それは別に間違いではない。だが、手に入れてしまえば今度は、失う恐怖と戦わなければならなくなる。私は小駒の機嫌を損ねたくなかった。
「ああ、誤解しないでくださいね。こういうことは、情報管理がとても重要なんですよ。今はできるだけ、私一人の頭のなかに留めておきたいんです。あなたを信用していないとか、そういうことじゃない」
小駒はそう言って私に笑いかける。私も微笑んで頷き返す。
しかし、なんだろう。やはりなんとなく小駒の雰囲気が変わったようにも感じられる。
言葉の選び方と言うか、話し方と言うか、今までとは少し違う印象を受ける。だがいずれにせよ、私にそれ以上を追及する気はなかった。
小駒が壁掛けの時計を見上げ、言う。
「そろそろ住居棟も開いているはずですから、もしお時間あれば、お父様の様子を見に行かれたらどうでしょう。私はちょっとやらなきゃいけない仕事がありまして」
「あ……そうですよね」
今更のように父のことが思い出される。あの後父はしっかり休めたのだろうか。
「ああ、そうだ。もしお父様の調子が良さそうなら、二人でお母様に会いに行ったらどうでしょう。今日は日曜で作業もありませんし、せっかく三人が揃っているわけですから。しばらくここで過ごすなら、事情は共有しておいた方がいいでしょう」
そうか、と思う。経緯はどうあれ、私たち家族は今、全員がオウルにいるのだ。だが私は、父と共に母に会いに行けという案には、素直には頷けなかった。
「でも……母になぜ父がここにいるかって聞かれたら……どう答えればいいのか。また瀬能さんのことを思い出させるのも……」
私が言うと、小駒は不思議そうな顔をする。
「それはもう気にしなくて大丈夫ですよ。瀬能さんの件は、お母様との間ではもう終わっているんですから」
「え?」
「ここはオウルです。オウルには一つのルールしかない。それはあなたもご存知でしょう?」
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