避難

 体を優しく揺すられて、目を覚ました。


 ゆっくりと目を開けると、微笑む小駒が覗き込んでいる。


「あ……小駒さん」


「お父様から話を聞きました。やはり、あなたからお聞きした通りの状況のようです。瀬能さんの母親が宝木という男を使って、お父様にお金を要求していると」


 まだ眠気が残っている。私はこめかみを揉み、言う。


「あの人……どういう人なんですか。普通のサラリーマンには見えませんでした……」


「詳しいことはお父様もわからないようです。でも恐らくこういう脅迫行為を生業にしている男でしょう。話から考えるに、相当手慣れているようだ。厄介ですね」


 その言葉に、小駒ならどうにかしてくれるのではないかという根拠のない期待が消えていく。あの男たちは、肝が据わっているというか、何かが麻痺しているというか、とにかく只者ではない感じだった。一般人の小駒に何とかしろというのも酷なのかもしれない。


「私たち、これからどうすればいいんでしょう」


 質問というよりは、見捨てないでくれ、という想いで言った。


「そうですね。私に考えがあります」


「……考え?」


「ええ」


 そして小駒が話をしようとした時、階下で何かが割れるような音がした。直後、鳥の鳴き声のようなものが連続して聞こえた。


 私と小駒は顔を見合わせ、慌てて部屋を飛び出し階段を駆け下りた。


 リビングに入ると、ダイニングテーブルの脇で、床に四つん這いになった状態の父が見えた。涙なのか涎なのか、顔をどろどろにしながら嗚咽している。


「父さん! どうしたの」


 駆け寄ろうとすると、「来るな!」と父は叫んだ。見れば、父の周囲には砕けた皿が散乱していた。先ほど聞こえたのはこれが割れた音だったのだろう。


「もう、ダメだ。俺は、俺はもう──」


 父は壊れかけていた。小駒に話したことで状況が整理され、不安や恐怖がリアルになったのかもしれない。それに我慢できずに破裂してしまった。


 呆然としていると、小駒は皿の欠片を踏まないように父に近づき、そのそばにしゃがみこんだ。それから父の脇の下に手を差し込むようにして立たせ、同じく皿に気をつけながらソファまで誘導する。


 父はまるでボケ老人のように無抵抗でそれに従い、ソファに身体を預け、焦点の合わない目で宙を見つめている。


「戸田さん、ちょっといいですか」


 私の傍に来て小声で小駒が言う。誘導されるまま廊下に出る。


「先ほど言いかけた話ですが──」


「あ、はい」


「お二人でオウルに来ませんか」


「え?」


 さすがに聞き返すと、小駒は眉間にしわを寄せ、ここにいない誰かを威嚇するように玄関の方を睨んだ。


「瀬能さんの母親の目的は、要するに金です。つまり、その母親に雇われた宝木は、お父様からお金を引き出すことを目的にしているはずです。今現在その目的が達成できておらず、そして、自宅に乗り込まれるのがお父様にとって強烈なストレスであると確認できた以上、宝木は何度もここにやって来るはずだ」


 宝木は何度でもやって来る。父が折れるまで、金が手に入るまで。……考えるだけで意識が遠くなる。


「宝木のような男は、目的を達成するためには、どんな非情な手段も厭わないでしょう。このままではお父様も、そしてあなたも危険です。ですから、問題が落ち着くまで、避難ということで施設に来られたらどうかと思いまして」


 私はオウルの全景を想像する。山の中に埋もれるようにして建っている施設。深く重なる森が自然の砦に見えてくる。それにあそこなら、職員や利用者など、自分たち以外に大勢の人がいる。


「小駒さん……でも、そんなことまで」


「戸田さんは施設の職員なのだし、お父様は入所者であるお母様の旦那様です。遠慮する必要は全くありません。もっとも、カルチャーセンターのお仕事は少し休んでもらう必要があるかもしれませんが──」


 それを聞いて、先日の所長の話を思い出す。オウルでの仕事にやりがいを感じるのなら、そちらに専念した方がいいのではないか、という話だ。しばらく休むと伝えても、所長が反対するはずがない。


「それは大丈夫だと思います。でも──」


 私はリビングの方を振り返った。父は状況が違う。自分がどこにいようが、会社の場所は変わらない。むしろ父は、会社生活が続けられなくなるかもしれないという不安で頭がおかしくなりかけている。父にとって会社は精神を保つための重要な支えなのだ。私の言いたいことが伝わったのだろう、小駒は頷いて言う。


「お父様の通勤のことですね。本当は戸田さん同様にしばらく休んでもらえればいいのですが、どうしても行くということになると、確かに交通面では不便になります。車で四、五十分は遠くなるわけですから。そうですね──では、オウルの職員が送迎を行う、というのはどうでしょう。いや、むしろそうした方がいい。ウチの車で移動すればカモフラージュにもなりますし」


「そんな、そこまでしてもらう事はできません」


 私は言ったが、小駒は譲らなかった。


「戸田さん、あなたは私に助けを求めている。違いますか?」


「それは……そうかもしれません。でも──」


 言葉を詰まらせる私を、小駒はそれまでよりもさらに真剣な眼差しで見つめた。そして突然、私の肩口に手を伸ばし、引き寄せた。


「あっ」


 気付いたときには、私は小駒の胸に顔を埋めていた。


「そんな顔をしているあなたを、放ってはおけません。力にならせてください。お願いします」


 鼻孔から小駒の体臭が入ってきた。それは麻薬のように一瞬で私の意識を痺れさせる。


「小駒さん……」


 動悸と共に強烈な喜びが訪れる。


 そうだ、私はずっとこうして欲しかった。


 どうでもいい男ではなく、これからの人生を一緒に歩んでいける信頼できる男に。


 私はその胸に自ら顔を押し付ける。それに合わせて背中に回った小駒の手に力がこもる。


 やがて小駒は私を優しく離し、言った。


「さあ、急ぎましょう。まさか宝木も今日の今日であなた方が移動するとは思わないはずだ。お父様も、ストレスの原因から離れれば落ち着くはずですから」


 小駒に促され、私は移動の準備を始めた。父のことは小駒に任せ、先日母の体験入所の際にも使用した旅行用のボストンバッグに父の着替えや下着などを詰め込んでいく。それが終わると自室に戻り、自分の着替えのほか化粧品などを用意する。


 二つのバッグが玄関先に置かれ、車で待機していた本島がそれを運んでくれる。父はとても運転できる状態ではなかったので、私と共に本島の運転するワンボックスに乗せてもらい、車は置いていくことになった。


 外に出るともう日は完全に沈んでいた。私たちは夜に紛れて自宅を後にした。

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