ガムのように
気付くと家から随分離れた場所にいた。
住宅街はとっくに抜けて、畑と田んぼが目立つ人気のない通りに差し掛かっている。家を出る頃にはまだ鋭かった日差しも、徐々に高度を下げ始めている。
私は立ち止まり、視線を上げた。
片道二車線の広い道路沿い。だが、そこを行く車はほとんどない。
遮るもののない風景。一キロほど向こうに、港でコンテナ作業をする大きなクレーンが見えた。その脇にはカモメの形を模したスポーツ施設。そして私は今更のように、ここが高校の頃によく通った、海浜公園へと続く道であることに気付く。
私は、何をしているのだろうか。一体何のつもりでこんなところまで歩いてきたのだろうか。
冷静になれ、しっかりしろ。そう考えてはみるが、風呂場に全裸で立つ父の姿や、異様な迫力を放っていた宝木、トイレの扉越しに聞こえた軟便の音、嫌なシーンが次々と頭に浮かび、吐き気を催す不安が襲ってくる。
瀬能の母親? 二千万? 払えなければ訴える? 何を言っているのだろうか。そんな主張が通るとは思えない。だが現実的に、父や私はこうして追い詰められている。そして、この状況をどう打開すればいいのか見当もつかない。
誰かに相談するべきだろう、と思う。私や父の手には負えない。
ポケットの中にあった携帯電話を取り出し、画面を見つめる。
警察? あるいは弁護士。それとも、こういう問題に専門的に対処してくれる会社などがあるのかもしれない。
だが、父はむしろ、この問題が外部に漏れることを何より恐れていた。不祥事に厳しい会社だから、クビにされるかもしれないと、金より会社を失うことの方を恐れていた。そんな父を無視して、誰かに助けを求めてもいいのだろうか。
いや、それよりも……父は大丈夫なのだろうか。
私は先ほどの父の様子を思い出す。父は明らかにおかしくなりかけていた。私はそんな父を放って家を飛び出してきてしまったのだ。この問題にこれからどう対処していくにせよ、父が壊れてしまったら、解決できたところで意味はないのだ。
やっと頭が働き始めて、私は家の番号を表示させ、発信ボタンを押した。しかし──
「あれ……なんで」
なぜか呼び出し音は鳴らなかった。携帯電話のようにアナウンスが流れるでもなく、ブツッというノイズを残して電話は切れた。
私は一度電話機を耳から離して画面を確認する。電波は十分だ。そして発信先は家の固定電話。有線なのだからかからないはずがない。何度もかけ直してみたが、結果は同じだった。
ふと、宝木たちが家に戻ってきたのではないかと考える。家を離れたと見せかけて、実はどこかから家を伺っていた。そして私が出ていくのを確認して、再び父に突撃した。
「父さん……」
私は思わず呟くと、来た道を振り返り、足を踏み出した。
父は無事だろうか。今度は一体、どんな仕打ちを受けているのか。プライドは高いが決して打たれ強い人ではない。これ以上ショックを受ければ、本当におかしくなってしまうかもしれない。頭の中で宝木たちに辱められる父の姿が展開される。
私はついに駆け出した。ここから家までは徒歩で二十分以上はかかる。タクシーを探すが、昼間でも交通量の少ない通りだ。夕方以降はトラックすらほとんど走らない。
「父さん……父さん……」
言いながら走った。だが、運動の習慣などない私の足は、情けなくもほんの一分足らずで悲鳴を上げた。限界が来て立ち止まると、大量の汗が噴き出してくる。
荒い息。空は徐々に黒ずんだオレンジ色の範囲を増していく。焦りが募り、涙がこみ上げる。
膝に手を付き肩で息をしながら、私が一体何をしたのか、と考える。
私は何も悪いことなどしていない。それなのに、世話をしていた母に感謝されるどころか罵倒され、勝手に不倫事件を起こした父の心配までさせられる。今すぐに自分の幸せを掴み取らねばならないのに、どうして皆、私の足を引っ張ろうとするのか。
「何よ……何なのよ……」
思わずしゃがみこんで呟いた。
視界の先に、アスファルトの上に張り付いたガムがあった。私はこのまま、このガムのような人生を送っていくのだろうか。誰からも顧みられず、踏まれ、汚され、そしてひっそりと消えていく。
「何よ……何よ……何よ!」
私は我慢できずに叫んだ。
近くで車が停まったのは、そんな時だった。
音のした方を振り向くと、五メートルほど後ろに白いワンボックスが停まっており、運転席から無表情の男がこちらを見つめていた。
爬虫類を思わせる湿った顔。ぎょろりとした目。
「本島……さん?」
どうして本島がと考えた時、スライドドアが開いて、「戸田さん!」と小駒が飛び出してきた。
時間がコマ送りのようになり、音が遠くなる。
気付いた時には、私は小駒にすがって泣きじゃくっていた。
小駒は私を後部座席に乗せ、赤子をあやすように背中をさすりながら、何があったのかを聞いた。
家の前に停まっていた車、玄関先の大男、宝木と名乗る恐ろしい男、そして瀬能の母、二千万の要求、壊れかけた父、実家に電話したが繋がらなかったこと──隠そうとも思わなかった。吐き出さなければ、私が壊れてしまう。
「さっきの人たちが、また来てるんじゃないかって、私、心配で」
私の肩を抱いた小駒は、運転席の本島に何事かを言った。
それまで蝋人形のように黙っていた本島がフロントガラスの方を見たまま頷き、ワンボックスは勢いよく発進した。
◆
オウルのワンボックスは五分ほどで自宅のある住宅街に入った。
その車内で、小駒たちがオウルの作業場で作った商品の配達に来ていたこと、施設に帰ろうと走っていたら偶然私を見かけたこと、様子がおかしかったので慌てて停まったことなどを聞いた。
自宅の前に宝木の車はなかった。小駒に支えられながら車を降り、玄関に手をかける。それはあっさりと開いた。
音を聞きつけた父がリビングから出てきて、そこに小駒の姿を認めて驚いた顔をした。
「どうして……あなたが」
「そんなことより、電話、なんで通じないのよ」
「電話……ああ、いや、線を抜いていたもんだから……」
「なんでそんなことするのよ! こっちの心配も考えてよ」
意外と大丈夫そうな父の様子に、安堵よりも怒りを覚えた。父に向かって喚く私を小駒が優しく遮り、「あなたは少し休んだ方がいい」と耳元で言った。
「え?」
聞き返す私の肩を抱き、「さあ」と階段へと促す。父が呆然と見つめるなか二人で二階に上がり、上りきった所で小駒が私の顔を覗き込んだ。正面から両肩に手を置き、ゆっくりとした口調で言う。
「戸田さん、今から私がお父様と話します。問題解決のために、状況をできるだけ正確に把握する必要がありますから」
「え……じゃあ、私も行きます」
当然そう言ったが、小駒は微笑んで首を振った。
「今はあなた自身もショック状態です。そういうときは、とにかく一旦頭をリセットしなければいけない。部屋に戻って、できれば少し仮眠してください。大丈夫、こういうのは第三者が入ったほうがスムーズにいくものなので」
小駒にそう言われると、確かにそうだという気もした。それに私は内心、この問題に小駒が関わってくれることを期待していた。
「……でも、ご迷惑じゃ」
私の言葉に小駒は無言で首を振ると、また私の顔を覗き込むようにして、「いいですか、ちゃんと眠るんですよ?」と言って、一人階段を下りていった。
私はそれを見送ると、素直に自室に入り、マットレスに倒れ込んだ。枕を引き寄せ、タオルケットを頭から被ると、まるで嘘のように突然眠気が襲ってきた。小駒の言うように私はショック状態にあり、辛い現実から逃げたがっているのかもしれない。
小駒は何でもお見通しなのだな、と、おかしな満足感を覚えつつ、私は目を閉じた。
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