慰謝料
吐き気がする。吐き気がする。吐き気がする。
私は壁に手をついて立ち上がり、よろけながら玄関へ向かった。外で車が発進する音がする。あのフルスモークのセダンは、宝木たちが乗ってきた車だったのだろう。
追いかける気にもならず、むしろ一秒でも早く彼らから離れたい気持ちだった。
私は靴下のまま三和土に降りると、鍵を閉め、チェーンを掛けた。
そして、玄関に転がった書店の袋もそのままに、漂ってくるタバコ臭い空気から逃れるように、二階に上がった。
一体、何が起きたのだ?
落ち着け、落ち着いて考えるんだ。自室に入って言い聞かせる。
家に戻ってきたら、知らない男が二人いた。巨体のプロレスラーのような丸坊主の大男、そして、そのプロレスラーよりも恐ろしい空気を放つ宝木という関西弁の男。
宝木はまるで自宅でくつろぐようにソファに体を預け、テレビを見ていた。二人はヤクザなのだろうか。父と話をしに来たと言っていたが、何の用事なのだろう。
家の中はしんとしている。だが、やがて階下から水を流す音が聞こえ、続けてトイレの扉が開く音。やがて足音。父の足音。
それは廊下を歩き、風呂場の方へ移動する。物音。多分服を着ているのだ。服を着た父は二階に上がってくるだろう。自分の父親なのに恐ろしいと思う。
やがて階段に足をかける音がする。一歩踏み出すたびに、木材が軋む音が聞こえる。
私はベッドに移動し、背中を壁に押し付け、枕を抱える。
父の動きが手に取るように分かる。一歩、一歩ただ黙って上ってくる。なぜあの人は風呂場にいたのだろう。なぜ全裸だったのだろう。何もわからない。
やがて足音は、私の部屋の前で止まった。
ノックの音と同時に、「小夜子」と声がかかる。黙っていると、「……入るぞ」と呻くような声がし、扉が開いた。
父が立っていた。
間違いなく、父だった。
「すまん」
開口一番父はそう言った。服を着ているが、先ほどの姿を思い出してしまう。
「驚かせて、すまん」
私はベッドの上、父から目一杯離れるように壁際まで後退し、黙ったまま枕を抱えて続きを待った。
「実は……困ったことになった」
そんなことはわかっている。だが重要なのはその内容、そして経緯だ。仕方なく私は言う。
「……あの人たち、誰?」
「あの人たちは……」
父は言い淀んだ。言いたくないことがあるのだろうか。「父さん」と促すと、父は痛みに耐えるように固く目を閉じた。そして言う。
「あの人たちは、瀬能さんの代理の人だ」
「は?」
瀬能、という言葉に小さなパニックが生まれる。瀬能の、代理の人? なぜ今ここで、瀬能の名前が出てくるのか。
「金を請求されたんだ……この間のことで。払わないなら俺を訴えると言っている」
私はツバを飲み込んだ。
「そんな……だって、その件は施設で……指導で……もう終わったはずじゃない」
父は苦しげに呻き「俺もそう思っていた」と言った。
「……いや、実際、瀬能さんの方もそういう認識だったんだろう。オウルでの指導を求めたのはあの人の方だしな。でも──」
「でも、何よ。どういうことなの」
父はうつむいた。肩が上下するほど大きく息をして、吐き出すように言った。
「瀬能さんの母親だ。事情を知った母親が、さっきの男たちを寄越したらしい」
「そんな」
父の説明によると、瀬能は先日の指導を受けた後、体調不良を理由に休暇を取り、実家に戻っていたのだという。そこで事情を知った瀬能の母親が激怒し、どういう伝手なのか、先ほどの宝木たちに依頼して、父を脅した。
話として理解はできるが、簡単に受け入れられる内容ではない。
「それで……あの人たちは何と言ってきてるの? お金って……」
喉が締め付けられるようだ。うまく声が出てこない。それは父も同じらしく、言いかけて何度か咳をし、苦しそうに言う。
「娘に傷をつけたことに対する慰謝料を払えと言っている。だが、もし払えないなら、訴えると」
「いくらなの」
「二千万」
私は絶句する。父の口座にいくらの預金があるのかは知らないが、それが法外な金額だというのはわかる。一度二度の肉体関係の慰謝料としては明らかに高過ぎる。母が父と離婚してその際に請求するならまだしも、独身の瀬能には壊される家庭もないのだ。そんな話、通るはずがない。
「け、警察に言おう。金額もおかしいし、それに、あの人たちのやったことは脅迫だよ」
先ほど一階で見た二人のことを想像する。法律のことはよくわからないが、脅迫罪とか住居不法侵入とか、いくらでも罪に問えるはずだ。だが父は泣きそうな表情になりながら、なぜか首を振った。
「そんなこと………ダメだ。訴訟になったらこの事が会社にバレる。ウチは社員の不祥事には厳しいから、事情が知られれば、下手したらクビだ。それは絶対に避けなきゃならん」
この期に及んで何を言っているのか、と思う。だが、仕事しか生きがいのない父にとって、会社を追われるのは死ぬと同義なほどのことなのだろう。
「じゃあ……じゃあどうするのよ。まさか二千万払う気?」
父は肩を落とし、何かに耐えるように首を振る。それが、私の質問に対する返事なのかはわからない。そして私は父が全裸で風呂場にいたことを思い出す。思い出したくないが、触れないわけにはいかない。
「どうしてお風呂なんかにいたの。それに、なんで裸で」
父は目を伏せた。迷うように口ごもる。
「ねえ、ちゃんと話してよ。ここにはもう、父さんと私しかいないんだよ」
父は大きなため息をついた。それから言った。
「……今朝、お前が出かけた後、いきなり押しかけてきたんだ。出て行けと言っても、出て行かない。一方的に金の話をして……払わないなら訴えると。答えが出せないなら、一人でじっくり考えてこいと言われた。答えが出るまで戻ってくるなと。服を脱げと言われて──」
「何で服を……それで従ったの?」
「仕方なかったんだ。裸なら逃げれないだろと言われて。あいつらの目の前で……それで風呂場に行かされ、トイレに行かせてくれと頼んでも許してくれなかった」
言葉が詰まる。だが父の不可解な行動の理由がわかった。
父は宝木に命じられて服を脱ぎ、風呂場にいたのだ。答えの出せない問題をつきつけられて、トイレも禁じられて。
そして父は大便をもよおした。風呂場に閉じ込められた時点でトイレに行きたかったのかもしれない。私が帰ってきたのは、いよいよ我慢の限界に達しようとする時だったらしい。宝木はなぜか、私が戻ってくるとあっさりと帰っていった。用事があるのは父で私ではない、と言っていた気がする。とにかく宝木たちがいなくなり、それで父は慌ててトイレに駆け込んだ。
私は無言で父を見つめた。
経緯が明らかになったところで、何一つ解決はしていない。
むしろ、そのようなショッキングな話をときおり自嘲的な笑いを浮かべて話す父に、不安は増した。父が精神的に追い詰められているのは明らかだった。自分の最も大切な、会社での立場まで人質に取られたような状態で、頭がおかしくなりかけているのかもしれない。
「どうすればいいんだろうなあ、小夜子」
父は焦点の合わない目で私の部屋の絨毯を見つめ、笑う。
いずれにせよ、この家には私と父しかいない。父がおかしくなったのなら、私がどうにかするしかないのだ。だが、一体こんな私に何ができるというのか。金もなければ、人脈もない。自分の幸せを探すことに精一杯の私に、これ以上何をしろと言うのか。
もう──嫌だ。
なぜ私にばかり、このような不幸が起こるのか。
母のことだけで充分ではないか。どうして私は、家族にこうも苦しめられなければならないのか。
無言で立ち上がり、父の脇を通り抜け、部屋を出た。
ほとんど無意識の行動だった。とにかく父とここにいるのが嫌だった。
自分でもよくわからぬうちに家を飛び出した私は、自分の視界が、まるで半透明の膜の中に包まれてるような感覚を覚えた。ショックのせいだろうか、白昼夢の中にいるように、目に入る風景に現実感がわかない。
どこに向かうのか、なぜ家を出たのか、まるでわからぬまま私は歩き続けた。
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