訪問者

 分厚い参考書が何冊も入った袋は重かった。


 正午を過ぎた時分。日差しは強くなり、道路に陽炎が立ち上っている。全身がじっとりと汗ばんで、額やこめかみから雫が落ちる。さすがにタクシーを使った方がよかったかもしれない、と思いながら、交差点を曲がった。ここは自宅のある広い住宅街の入口のような場所だ。


 しばらく進んでふと顔を上げると、熱気でぼやけた視界の先の方に、一台の車が見えた。カメラのフラッシュを焚いたような明るい道路に、黒のセダンが止まっていた。ここからではよく見えないが、高級車と呼ばれるような車だろう。


 反射的に嫌なイメージが浮かぶ。母が自傷行為に及んだ際、救急車が停まっていたのは丁度あのあたりだ。


 落ち着け。自分に言い聞かせながら進んでいった。救急車が停まっているわけじゃないし、そもそも家に母はいない。ただの乗用車が一台停まっているだけだ。


 だが近づくに従って、嫌な予感は増していった。明らかにその車は自宅の前に停まっていた。それに、確かに高級車には違いないが、スモークというのだろうか、窓は黒いシートが張られていて、不穏な感じがする。


 家まで十メートルほどの位置まで近づくと、カールーフの下に父の車が停まっているのが見えた。父はどこに行くでも車を使う人だから、今も家の中にいるのだとわかる。だとするなら、黒い車の持ち主は父の客なのだろうか。


 微かな動悸を覚えつつ門扉を抜け、玄関に近づく。参考書の入った袋を肘にかけると、ゆっくりとドアノブを回した。鍵はかかっていない。特別何も聞こえないし、もしかしたらあの車はうちに関係なかったのかもしれないと思いながら扉を引いた。


 だが次の瞬間、私は悲鳴を上げた。


 目の前に、見知らぬ男が立っていた。


 足を肩幅に開き、腕を後ろに組んだ、黒いスーツを来た丸刈りの大男。身長は百八十センチ以上あるだろう。肩口は筋肉で丸く盛り上がっており、首は顔の輪郭とそう変わらぬほど太い。


 泥棒? 暴漢? だが男は落ち着いた様子で、私を見ても何も言わず、微かに首を傾げるだけだった。


「だ、誰──」


 やっとの事で言った。大男は困ったような顔をして、それからどこかを見た。視線の先はリビングだ。テレビの音が聞こえている。父がそこにいるのだろうか。


「誰ぇや?」


 リビングの中から低いダミ声が聞こえた。その声を聞いて私は恐怖を覚えた。


 父ではなかった。


 誰だ。誰の声だ。目の前の大男はまた私を見る。その見知らぬ声が投げかけた質問の答えを促すように、首を傾げて。


「だ、誰って、ここの人間です」


 恐怖を投げ捨てて乱暴に靴を脱ぐと、大男の脇を抜けリビングの入口に立った。部屋の中には、玄関先の男よりは小柄な、派手な紺色のストライプスーツを着た男がいた。


 肌は浅黒く、髪をオールバックに撫で付け、両耳に黒いピアスをつけている。男はソファに浅く腰掛け、ローテーブルに足を投げ出し、リラックスした様子でテレビを見ていた。


「な、何を──」


 どう言えばいいのかわからず言葉を詰まらせると、男は面倒くさそうにテレビから視線を外し、こちらを見た。細面、掘りが深い目。


「ああ、どうも、お邪魔してます」


 きつい関西訛り。その態度はどう見ても普通のサラリーマンではない。四十代半ばくらいだろうか。親しげな言葉遣いに反して、目つきは異様に鋭い。玄関先の男の方が明らかに力は強そうなのに、この男にはもっと恐ろしい何かがあるような気がする。


「あ……あ……あなたは」


 やっとのことで言うと、男はまるで赤ん坊を見るように嬉しそうに顔を綻ばせた。


「私? 私、宝木言います。それで、そう言うあんたはどなたですか」


 たからぎ? 名前にも聞き覚えはなかった。いや、それ以前に、自宅に入り込んだ不審者から「あんたは誰だ」と聞かれる理不尽に、今更ながらに怒りが湧き上がってくる。


「ここの人間だって言ってるでしょ。……あ、あなたこそウチで何をしてるんですか」


「ああ、じゃあ、あんた勝次さんの娘さん? 小夜子さんとか言いましたっけ」


 父の名、そして私の名が宝木の口から出て、私は思わずつばを飲み込んだ。この人は間違いでここに来たわけではない。少なくとも父や私の名を知っている。


「いやあ、なかなかのべっぴんさんやないですか。こらええわ」


「し、質問に答えて下さい。あなた、ここで一体何を──」


 言いかける私を、宝木が片手を上げて制した。手首に高そうな時計がつけられている。


「その辺はね、お父さんから聞いてくださいや。私ら、別にあなたに用はないんでね」


 そうだ。父だ。宝木は父の知り合いなのだろうか。だが肝心の父の姿がない。吐き気を感じる。この男は、父をどうしたのだろう。父はいまどこで何をしているのだろう。


「父は……父はどこにいるんですか」


 呻くように言う。宝木は眉間にしわを寄せ、首を傾げる。


「さあ、少し考えたいと奥に行きましたけど」


 宝木は胸ポケットからタバコを取り出してくわえると、躊躇なく火をつけた。父も母も非喫煙者だ。私も随分前に辞めていたし、実家で吸ったことはない。目の前で白い煙がたち、怒りより息苦しさを覚える。私はリビングを出て、大男を避けて廊下を右に曲がる。


「父さん! 父さん!?」


 言いながら廊下突き当りのトイレを開けるが誰もいない。そのまま隣の浴室の引き戸を開け、脱衣所に入って息を呑んだ。


 擦りガラスの入った風呂場の扉の向こうに、肌色の人影が映っている。


「父さん……?」


 シャワーの音は聞こえない。一体何をしているのか。


 考える間に体が動いていた。折りたたみ式の扉に手をかけ、横に引いた。


 そこに、全裸の父が、私に背を向ける格好で立っていた。


 たるんだ尻の輪郭。薄いのに長く伸びた太ももの毛。それでいて頭は液体整髪料できっちりと整えられたままだ。想定外のことにどう反応していいのかわからない。


 呆然としているその時、玄関先で物音が聞こえ、「じゃあ、また来ますからぁ」という宝木の間延びした声がした。


 慌てて廊下に出ると、ひらひらと手を振りながら玄関を出て行く後ろ姿が見え、すぐに扉が閉まってしまった。あの大男も一緒に出ていったらしい。


 入れ替わりに、背後で床を走る音が聞こえ、風呂場を飛び出た父が、全裸のままトイレに駆け込むのが見えた。


 もはや何を言うこともできず、私はふらつきながら廊下を戻り、トイレの前で腰が抜けたように座り込んだ。


 その直後、扉の向こうで父の呻き声が聞こえ、軟便を排泄する水っぽい音がした。

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