受容
夜十時過ぎ、自室にいた私の耳に、車のエンジン音が聞こえた。続けてバックする時に聞こえるピーピーという電子音。やがて玄関が開き、どさり、とカバンが置かれる。
私は立ち上がり、部屋を出て階段を下りていった。三和土に父の靴があるのが見えた。片方が転がって横を向いている。神経質な父にしては珍しいことだった。それだけで、父がまだ本調子でないことが伺える。
玄関に降り、リビングを覗くと、電気もつけず暗い部屋の中でうなだれている父のシルエットが見えた。顔を両手で覆っているのか、あるいは頭を抱えているのか。
暗い壁に手を這わせ、照明のスイッチを入れる。微かな音をたてて蛍光灯がつくと、父は眩しいのか、顔を背けるようにした。まるで空手の構えでもするように、顔の前で両手を開いている。
「電気くらいつけなよ」
リビングに入ると、父のいるダイニングの前を通り過ぎ、冷蔵庫まで行って烏龍茶を取り出す。グラスに注ぎ、それを持ってダイニングに戻ると、まだ妙な構えをしている父の前に置いた。
「いつまでそうしてんのよ」
そう言いながら、父の向かいの椅子に座る。
数秒して父はやっと手をどけたが、それで顕になった顔は土気色で、強い疲労が滲んでいた。
私たちは黙ったまま、二人してテーブルの上を見ていた。二人とも、話さなかった。
どれくらいそうしていたのか、やがて父は小さく鼻をすすり、顔を上げた。
「すまなかったな。いろいろ……」
それだけ言うのがやっとだったというように、父はまた頭を垂れた。傲慢で自己中心的な父が、これほど打ちのめされているのを見るのは初めてのことだった。
昨晩指導室で目の当たりにした、電気棒によって痙攣している姿が再生される。涎を垂らし、涙を流し、ブルーシートの上でガクガクと頷く父。瀬能との問題を、その被害者である母自らの手によって〝精算〟された。
この件は、オウルの問題として、オウルのルールに則った形で処理されたのだ。そう考えれば、もはや私に言えることなど何もない。
「いいよ、もう。全部終わったんでしょ」
不思議な事に、それを口にした瞬間、何かがすっと抜けたような感覚があった。
そして私は気付いた。いま私は、目の前の父を、ひどいことをしでかした父を、オウルのルールを根拠に〝許した〟のだ。それはつまり、私がオウルのルールを、あの指導というやり方を現実的に認めた、ということだ
「小夜子……」
父は驚いたように顔を上げ、私を見つめた。土気色の肌、私はその顔に、怒りではなく哀れみを覚えた。
この人はきっと、私から責められると思っていたのだ。なんて事をしたのだ、なんて嘘をついたのだ、そしてなぜあんな拷問のようなことを受けていたのか、と。
何もわかっていないんだな、そんなことを思う。
目の前にいる私は、小駒や瀬能同様、オウルで働くオウルの人間なのだ。それに、今日所長と話した通り、私はきっと近い将来、オウルの正式な職員となる。そうなれば当然、あのルールにも今まで以上に関わることになるだろう。
「許して……くれるのか」
父の言葉に、私は思わず苦笑いした。許すも許さないもない。既に適切な指導を受けたのだ。これ以上父を責めたりすれば、オウルのルールに反することになる。
「指導はもう終わったんだから」
私はそれだけ言って、立ち上がった。驚いた顔でこちらを見上げる父に、「それより、お腹は? 何か温めようか」と笑顔で声をかけた。
◆
次の日、朝九時を過ぎても父は部屋から出てこなかった。
疲れているのだろう。昨日の様子を考えれば、オウルのルールがまだ腑に落ちていないのかもしれない。必要のない罪悪感や後悔に苦しんでいるのだろうか。いずれにせよ今日は土曜だ。会社は休みなのだし、ゆっくり休んだほうがいい。
私はと言えば、妙に気分が良かった。どちらかと言えば出不精な性格で、暑さに強いわけでもない。だが今日は、窓から見える抜けるような青空に、居ても立っても居られないような気持ちになる。特段用事はなかったが、私は「買い物に行ってくる」と書き置きを残し、家を出た。
夏日には違いなかったが、風が吹いているせいか、あるいは気分的なものか、徒歩で駅まで行ってもあまり汗はかかず、不快でもない。いつも寄るスーパーの前を通りかかり、ふと、今後はもっと健康的なものを食べようか、などと考える。
一人暮らしをしている頃も、食事において健康を意識したことなどほとんどなかった。半年前に実家に戻り、母や父の食事の用意も自分の役割になった当初は多少気にしたが、それがすべて冷凍食品に変わるまで大した時間はかからなかった。
だが、オウルで働き始めて約二週間。あそこの食堂で食べる料理を美味しいと思うようになってきた。最初の時のような、その素朴な味付けに対する驚きからではなく、素直に美味しいと感じるようになったのだ。一方で、家で食べる冷凍食品は味が濃すぎて量が食べられなくなってきている。できることなら、すべての食事をオウルのようなものにしたい。
オウルのことを考えると、気分が上向く。
いろいろあったが、結果的にはうまくいき始めている。授業にも慣れてきたし、生徒との関係も悪くない。小駒の気配りによって隠されていた指導のことも知った今、これまでより深い信頼関係を築くこともできるだろう。
駅前の大通りに出て、アーケード街に入る。
目に入った書店に、ふと思い出したことがあった。先日から本格的に始めたデザイン業務だが、いま取り掛かっている商品カタログが完成した後も、紙媒体のリニューアル作業が続くことになっている。施設紹介のパンフレットや職員のネームカード、掲示用の書類テンプレートなど、作らなければならないものは山ほどある。
だが、それと並行して、ウェブでの情報発信にも取り掛かる必要がある。そもそも小駒が利用者向けのパソコン教室を企画したのも、インターネットを介してのビジネスを彼ら自身の手で行っていくためなのだ。
しかし、それらを行う「箱」とも言うべきウェブサイトは現状作られていない。そして今の私には、ネット上で商品販売を完結させるような、難しいショップサイトを作るスキルはない。
いずれ必要になる知識だ。今のうちから準備しておかなければと、私は書店に入った。
クーラーがしっかり効いていることもあってか、店内には多くの客がいた。皆、入口付近に並べられたファッション雑誌や週刊誌などを立ち読みしているが、私はそれを横目に店舗中央にあるエスカレーターに乗った。目的地は三階にある参考書コーナーだ。
途端に人の少なくなったフロアを進み、ウェブ関連の棚を探す。
思っていたよりずっと多くの書籍が並んでいた。「PHP入門」「問い合わせフォームの作り方」といった技術的なものから、「30記事で理解するネットショップ成功の秘訣」「重要なのはSEO 成果の出るWEBライティング」など、サイトの内容に関するものまで、気になったものを手にとって中身を確認する。
頑張れば何とか理解できそう、という部分もあるが、思った以上に難解で、時間がかかりそうだ。勤務中はしばらくデザイン業務にかかりきりだろうし、オウルへの行き帰り、電車で過ごす時間を勉強に充てるなどの工夫が必要だろう。
自分の時間を使ってオウルのための勉強をする私を、小駒はどう思うだろうか。
驚いて、そしてきっと喜んでくれるに違いない。
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