意外な事実

 小駒に大同駅まで送ってもらい、電車に乗った。


 小駒はホームまで来てくれて、私を見送ってくれた。豊かな緑を背景にした彼が、どこか照れくさそうな笑顔で手を振る姿を、夢の中のシーンのように眺めた。


 車窓の向こうで小さくなっていくのが悲しくて、その姿が見えなくなる前に、自分から目を閉じた。


 昨夜処方してもらったらしい睡眠薬の効果が残っているのか、昨日からの体調不良のせいか、私はあっさりと眠りに落ち、気がつけば降りる駅に到着していた。


 既にカンカン照りの空の下を、小駒の言葉を何度も、何度も思い出しながら歩いた。どこか夢の中にいるような気分だった。


 家に到着したのは朝の八時半ごろだ。太陽に熱せられた門扉を開け、玄関に向かう途中で、ふとカールーフの方を見る。


 そこに車はなかった。つまり父は、オウルから戻ってきて、あるいはオウルから直接、会社に向かったということだ。安堵とも嘲笑ともとれる笑いがこみ上げた。


 バカみたい。いい歳して、ほんとにバカみたい。


 ……でも、よかった。本当に。


 玄関を開け、ふらつきながら二階に登り、着替えを持って階下に下りる。体調はやはり優れないが、今日はカルチャーセンターのバイトがある。先日も休んでしまったし、できるだけ今日は出勤したい。


 汗で湿ったシャツや下着を脱いで洗濯機に放り込み、熱いシャワーを浴びて新しい服に着替えた。ビタミン剤と整腸剤と風邪薬を適当に飲んで、時計を見上げる。一眠りしたかったが、もうその時間はない。ため息をつき、リビングのソファにもたれて携帯電話を開く。


 画面を見てハッとする。永遠から何度か着信が入っていた。


 しまった、と思う。オウルでは電波が入らず、電車ではずっと眠っていたせいで気付かなかった。


 あらためて昨日のことを思い出す。昨日は永遠に悪いことをした。泣きついて、送ってもらって、その上で追い返した。事情が事情だったとは言え、今回ばかりは私が謝るべきだろう。


 でも──私はすぐに思う。謝るのはいいとして、昨日のことをどう説明すればいいのか。父と瀬能との件はまだしも、指導については施設関係者以外に話すわけにはいかない。


 私はまた時計を見上げた。永遠は先日、カルチャーセンターの手伝いをしていた。今日もあそこにいるのではないか。


 少し考えた私は、迷いを完全に捨てることもできないまま、携帯電話でカルチャーセンターの番号にかけた。


「おや、小夜ちゃん。おはよう」


 所長が出て、呑気な口調で言う。昨日の件、つまり私と永遠が所長に無断で車を使ったことは恐らくバレていないのだろう。つまり、永遠はあれから素直に帰って来、車をもとに戻しておいたということか。


「所長、おはようございます。あの、実は──」


 ひとまずの安堵を覚えつつ、まだ体調が悪い旨を伝えた。


「疲れが溜まってる感じで、なかなか本調子にならなくて」


「ああ、それはいけない。こっちのことはいいから、しっかり休みなさい」


 あっさりと言ってくれる所長に罪悪感を覚える。体調不良は嘘ではないが、休みたい理由は別にある。


「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて──」


「うん。ゆっくり休むんだよ。じゃあ」


「あ、所長」


「うん? どうかしたのかい」


「今日、永遠って来てます?」


 言ってしまった後で、後悔する。今日は休みを取れたのだから、永遠と会うこともないのだ。もっとも、あいつのことだから、私から電話があった話を聞いたら、家まで押しかけてくるかも知れない。


「永遠かい? いや、今朝は私と同じくらいの時間に出ていったよ。例の記者のアシスタントの仕事があるって」


「あ……そうですか。なら、いいんです」


 だが、このやりとりに何か含みを感じたのだろう、今度は所長の方から「小夜ちゃん」と言ってくる。


「永遠がまた、何かを言ったのかね? ほら、この間も、あっただろ」


 そうか、と思う。先日カルチャーセンターで永遠と言い合いになった。あのことを所長は言っているのだ。所長は私たちがまだ喧嘩中だと思っている。


「あ、いえ、それはもういいんです。あいつは昔からああいう感じだし、それに、何言われたって、私はもう大丈夫っていうか」


「そうかね。それならばいいんだが」


 一瞬、所長には話すべきだろうか、と考える。


 永遠には言えないことも、この人になら素直に話せる気がする。


 だが、母の入所についても、そして父と瀬能の一件、あるいは指導についても、所長に話したところで何が変わるわけでもない。それならば、これ以上余計な心配をかけるべきではない。


 一方で、オウルでの仕事については伝えたいと思った。所長は私と小駒を引き合わせてくれた人で、そしてそのおかげで、私は新たな道に進み始めることができている。


「所長、私、オウルの仕事が本当に楽しいんです」


 意識して明るい口調で、私は言った。


「おや、それは素晴らしい。私が紹介した仕事だから、ちょっと気になっていたんだよ」


「ええ、本当にいい仕事を紹介してくれて、感謝してます。私、小駒さんの考えにすごく共感するんです。ただ講師をする、ただデザインをするってだけじゃなくて、小駒さんが目指す障害者の社会参加の形、それを実現するお手伝いができて嬉しいっていうか」


 嬉しそうな相槌を入れながら私の話を聞いていた所長が、ふとあらたまった感じで「小夜ちゃん」と言う。


「はい?」


「それほど充実しているのなら、なんというか……そちらに専念してもいいんだよ?」


「え?」


 意味が理解できず、聞き返す。


「いや、実はね……ここで明かすのもアンフェアなんだけど、小駒さんはもともと、小夜ちゃんにフルタイムでの勤務を希望していたんだよ」


 初耳だった。フルタイムの勤務。つまり正社員のような勤務ということだろうか。


「言い訳をするわけじゃないんだが、仕事を紹介するってのは、相応に責任の伴う話でね。ましてや大切な小夜ちゃんだろう? あまり急激に舵を切るのは、リスクが高いなと思ったんだよ。それで小駒さんと相談して、まずはこっちにも籍を置いたままオウルの仕事は週三程度で、という話に落ち着いたんだ」


 そうだったのか。むしろ小駒の方から、そういう提案をされた感覚だった。


「私も典子さんも、小夜ちゃんがここで働いてくれて本当に嬉しいんだよ。でも、小夜ちゃんみたいに優秀な人には、物足りない仕事だってこともわかってたんだ。わかってたけど、考えないようにしていた。だって、小夜ちゃんと過ごすのが楽しかったからね」


「所長……」


「でも、それは間違っているよね。本当に君のことを想うなら、素晴らしい才能がある小夜ちゃんが、生き生き働ける所に送り出してやるべきだ。今の小夜ちゃんの言葉を聞いて、それがわかったよ」


 所長の言葉に、私の頭は既にオウルくんTシャツを着て働く自分を想像していた。そしてその隣には、当然のように小駒の姿がある。私がフルタイムで働くようになれば、今よりも長い時間を彼と過ごすことになる。小駒はそれを喜んでくれるに違いない。


「でも、大丈夫なんですか。私が抜けて」


 そう言うと所長は笑った。


「大した仕事がないことは、小夜ちゃんもよーく知ってるだろ?」


「でも……」


「大丈夫さ。とはいえ、忘れないでおくれ。小夜ちゃんがどこで働いていようが、私たちは君の味方だよ。辛い時は、いつだってここに逃げ込んでおいで」


 嬉しくて、涙が出そうだった。所長には既に、私の出す答えがわかっているのだろうな、と思った。


「わかりました。考えてみます」


「うん、ゆっくり考えればいい。……おっと、具合が悪いってのに長話してしまったね。じゃあ、お大事にね」


 そう言う所長に挨拶をして、電話を切った。私はそのまま、ソファに横になった。そして、しんとしたリビングを眺める。


 実家に戻ってきて半年。何も代わり映えのない生活だった。だが小駒に出会ってから、様々なことが目まぐるしく変化している。ずっと手に入れたかった、将来を夢見ることができそうな相手が、やりがいのある仕事と共に現れた。


「大丈夫……よね」


 うまく行っているときほど不安になる。だが、引き返すという選択肢は私にはないのだ。


 大丈夫、すべてはうまく行っている。


 私もいい加減、覚悟をしなければならない。

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