解決
小駒はそこで一度言葉を切ると、コーヒーを一口飲み、そして言った。
「だから今回のお父様と瀬能さんの件も、昨晩の指導で終わりです」
「あ……」
そうか、と思う。元々はそういう話だった。父は瀬能と不倫し、それを母が知った。家庭が壊れるかもしれない、という状況だったのだ。
だがそれは、昨日の指導をもって解決された。小駒の説明によればそういうことになる。
普通のやり方なら、そんなことはあり得ない。父と母の言い合いは何度も発生しただろうし、弁護士がどうの慰謝料がどうのという話もなっただろう。最悪、二人は離婚し、家族が崩壊するところだった。そんな問題を小駒は、オウルの指導というルールは、一晩、いや、ほんの数分で解決してしまったのだ。
本当に? 当たり前のように疑問が浮かぶ。本当にそんなことがあり得るのか。
私の心を読むように、小駒は言った。
「戸田さん、大丈夫です。今回の問題は、完全に、解決されたんです」
「本当……ですか」
小駒は強く頷いた。疑問がすべて消えたわけではなかった。だが私は小駒のその自信に満ちた頷きを受け入れた。肩からすっと力が抜けたのがわかる。
「良かった……本当に……」
思わず言うと、小駒は再び頷いて、どこか愉快そうな表情になった。
「しかしながら、お母様は見事でしたね。内心では当然、思うところがあったでしょう。しかし、オウルの住人としてルールを理解され、堂々と指導申請を行いました。入所して間もないのに、立派なことです」
小駒が何気なく使った指導申請という言葉に、一瞬体が縮こまるのを感じる。
昨日までは何のことかわからなかったそれが、今の私にはなんとなくわかる。
指導申請というのは、例えるなら警察に被害届を出すようなものなのだろう。先ほど小駒が説明してくれたように、何か問題があったとき、被害を受けた人間は指導を申請することができる。
小駒は先ほど、指導については折を見て説明するつもりだったと言った。それまでは私には情報を与えないよう、職員たちにも伝えていたと。吉田や磯野の反応がおかしかったのも、そういう事情があったからなのだろう。
もやがかった思考が、少しずつクリアになっていく。自分の頭の中で、疑問が解け、情報が整理されていく様子を、私はどこか戸惑いを覚えつつ見ている。
ふと気付くと、小駒が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「……どうでしょう。多少なりとも、ご理解いただけましたか?」
全てを受け入れられた実感はない。だが、小駒の説明は明確で、嘘はないように思えた。指導の内容を考えれば、その情報を私に伏せていたのも理解できる。
それに何より私は、いや私たち家族は、オウルに救われたのだ。
「まだなんとなく、ですけど。でも──」
私は言い、小駒に頭を下げた。
「私たちは助けていただいたんですよね。おかげで、家族がバラバラにならずにすみました。ありがとうございました」
「いえ、そんなそんな」
顔を上げると、小駒が眉を下げ、困ったように手を振っていた。
「私は何もしていません。むしろ、ウチの従業員がご迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なく思っているんです」
そう言われてみれば、実際にそうだという気もした。瀬能が父とそういう関係にならなければ、そもそも問題は起きなかったのだ。
「……そういえば、どうして瀬能さんは父なんかと」
私がずっと感じていた疑問を口にすると、小駒は困った表情になった。
「実はですね……瀬能さんというのはそういうところがあるんです。何というか、貞操観念が薄いというか。そして一度そういう関係になると、相手にすぐ依存してしまう」
「依存?」
「ええ。体験入所の夜、酔っ払った状態でそういうことになって、お父様ではなくむしろ瀬能さんのスイッチが入ってしまったんだと思います」
「えっ、そうなんですか」
驚いて言うと、小駒は重々しく頷いた。
「ええ。これはお父様の名誉のためにもお伝えしておかなきゃいけませんね。確かに最初に関係を求めたのはお父様だった。しかし、関係の継続にこだわったのは瀬能さんの方だったんです。あの日以降、瀬能さんはお父様の携帯に何度も連絡し、お父様がそれを嫌がると、会社に押しかけると仄めかしたりしたそうです。それでお父様は仕方なく、瀬能さんと話し合いを持つことにした」
「話し合い……もしかして……」
「ええ、そうです。自宅で会議をするからとお父様から電話があった日です。あんな嘘をつかなければならなかったのも、そういう事情があったからなんです」
話が繋がった。父はあの日、瀬能と話し合いをするつもりだったのだ。
「でも、一度の過ちとして終わりにしたいお父様と、関係継続を望む瀬能さんとの間で、話がこじれた。すったもんだの末、瀬能さんが要求した条件が、オウルで指導を受けることだったんです。つまり、お母様を含む皆に対し、どんな問題を起こしたのか、告白しろということですね。お父様としては当然はいそうですかと受け入れられる話じゃない。とはいえ、会社に乗り込まれるよりはマシだと踏んだんでしょう。結局その条件を飲み、その結果が昨晩の指導というわけです」
「そう……だったんですか」
今更のように、強い疲労が襲ってくる。何がなんだかわからなかった状況が、小駒の丁寧な説明であっさりと紐解かれた。
だがその分、不安や怒りは影を潜めていた。父がバカなのは間違いないとしても、その後の経緯を聞くと、微かな同情も感じる。仕事人間の父は、瀬能の対応に心底怯えてしまったのだろう。その結果が、あの日の朝電話で話した時の、異様とも言える言動だったのだ。
「……ごめんなさい。小駒さんにはいろいろ迷惑かけてしまって」
私はため息交じりに言った。
「いやいや、とんでもありません。それに、指導の件ではさぞ驚かれたことと思います。私がもう少し早くご説明していれば──」
「いえ、そんな。だって小駒さんは私のことを考えてくれて、それで──」
咄嗟に言い返したが、思わず途中で止めた。何をどう言えばいいのか。わからなくてすがるように小駒の顔を見つめた。
ふと沈黙が下りる。
「戸田さん──」
小駒はそう言って、私を見つめ返した。その目には、あの日感じた欲望が、私に対する欲望が確かに宿っていた。
微かに緊張した様子の小駒は、その欲を目から目へと放射するように、私の目から視線を外さずに言った。
「嬉しかったです。昨日、医務室じゃなくここで休みたいと言ってくれたこと。小駒さんと一緒にいたい、小駒さんじゃなきゃ嫌だ。そんな昨日のあなたの言葉を、私はずっと忘れないと思います」
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