目覚め

 ……


 ……


「戸田さん……戸田さん……」


 体を揺すられ、私は目を覚ます。


 朧気な視界に、顔を覗き込む小駒が映っていた。


「……小駒さん」


「ああ、気が付かれましたね。大丈夫ですか? 気分は?」


 何を言われているのか最初はわからなかった。だが、意識がはっきりしてくるうちに、徐々に記憶が戻ってくる。そうだ、あれは夢ではなかったのだ。私は小駒と住居棟に行き、そして──


「ああっ」


 恐ろしい記憶に、思わず上半身を起こす。鋭い光が目に差し込んできて、咄嗟に眼前に手をかざした。眩んで黒っぽくなった視界に、深い緑色をした植物の重なりが、四角く切り取られているのが見えた。


 それは窓だった。正面の壁に取り付けられた窓。閉まっているが、その向こうから蝉の声が漏れ聞こえている。


 そして私は自分がどこにいるかを理解した。


 ロッジだ。私はロッジにある赤いソファに寝かされていたのだ。


「気を失われたんです。昨晩、指導室で。覚えてらっしゃいますか」


 小駒が言う。外はすっかり朝だ。つまり私はここで一晩寝ていたということなのだろうか。再び記憶を探る。


 ──住居棟の二階だった。そうだ、あの部屋の扉には確かに「指導室」と書かれてあった。ホールのような大きな部屋で、多くの利用者や職員が集まっていた。そして……そこで私は恐ろしいものを見た。


 頭の中に、棒のようなものを押し当てられる父や瀬能の姿が浮かんだ。しかし、あれは本当に現実だったのだろうか。あんなことが、福祉施設で行われていたのだろうか。


「すみません……私……まだ混乱してて……」


 正直にそう言うと、「ええ、そうでしょうとも」と、思いのほか強い口調で小駒が言った。


 思わず顔を上げる。小駒は真剣な表情で頷くと、ゆっくりとソファの縁に腰を下ろし、そして、私の肩にそっと手を置いた。


「事情が事情だったとは言え、ショックを受けられたと思います」


 そして小駒は苦しげに視線を落とし、頭を下げた。


「本当に申し訳ありません」


「え……いえ、そんな……」


 小駒は視線を上げぬまま続ける。


「本来であれば、有用性を十分に説明し、内容をご理解いただいた上でお見せするべきでした。というより、そうするつもりだったのです。もう少しオウルに慣れてもらってから、と考えて、指導については戸田さんにまだお伝えしないよう、職員たちにも指示してありました」


 指導。そうだ。あの不気味な職員──本島が何度も叫んでいた言葉。


「あの……その指導というのは……」


 私が言うと、小駒は頷いて、肩から手を離した。


「ええ、こうなった以上はきちんとご説明します。いまコーヒーを淹れますから」




 小駒の淹れてくれたコーヒーを飲むと、少し気分が落ち着いた。


 昨晩指導室で気を失った私は、職員たちによって住居棟内の医務室に運ばれ、やがて目を覚ました私自身の希望によって、睡眠薬を処方されたらしい。


 混乱のせいなのか、あるいは半分夢の中だったのか、私にそのあたりの記憶は全くない。そして、薬を飲み、朦朧とする中で私は、事もあろうに小駒のロッジで休みたいと何度も訴えたらしい。


 その話を聞いたとき、恥ずかしさのあまり叫びそうになった。記憶にはないが、きっとそれは本当のことなのだと思う。


 もちろんそれは、あの恐ろしい出来事のあった住居棟にはいたくない、という気持ちが大きかっただろう。不気味な本島や、あの風景を黙ってみていた職員や利用者たちと一緒にいたくなかった、ということもある。


 だが、酒に酔った人間が思わず本音を漏らしてしまうように、私の小駒に対する想いを、混乱と睡眠薬が漏らしてしまったのかもしれない。


 もしかしたら──小駒は私の想いに気付いたかもしれない。


 コーヒーを飲みながら、小駒の顔を盗み見る。だが小駒はそんなことよりも、思惑とは違う形で私が「指導」を知ってしまったこと、それによって大きな精神的ショックを受けたことを気にしている様子だった。


「……オウルで問題が起きたとき、それを解決するための方法として作られたのが、あの指導というプログラムです」


 そう、いま重要なのはこのことだ。色恋のことを考えている場合ではない。


 実際、私が見たのは異様な光景だった。だが状況から考えて、あれは突発的に起こったのではなく、日常的に行われている行事に見えた。


「問題……ですか」


 私が言うと、小駒は頷いた。


「そうです。暴れて何かを壊してしまったとか、誰かの持ち物を盗んでしまったとか、あるいは喧嘩して相手を怪我させてしまったとか。施設ではそういう問題が日々起こります」


 確かに、それはイメージできる。先日も授業中に砂山が錯乱したのを見た。磯野がいたから大事にはならなかったが、一般的な「職場」と比べ、そういったトラブルが起こりやすい環境であるのは理解できる。


「そういった問題を解決……解決というか、精算する方法として指導は生まれました。ルールはシンプルです。問題が起きれば、当事者がああして皆の前で指導を行います。指導を与えるのは基本的に、その問題で被害を受けた人です。例えば、誰かが誰かの物を壊した場合、壊された人が、壊した人を指導する。どの程度の指導を行うかについては、問題の内容によってある程度の基準があります。つまり、これくらいの問題なら電気棒一秒を二セットとか、そういうことです」


 小駒が当然のように使った言葉に、思わず背筋が冷たくなる。


「で、電気棒というのは……あの?」


「ああ、すみません。昨日本島さんがお母様に渡した、黒い棒状の機器です。あれが皮膚に触れると微弱な電気が流れ、ショックが与えられる仕組みです」


 あの棒を押し付けられて父や瀬能は痙攣した。その名の通り、電気が流れていたのだ。


「……危険はないんですか。その、電気棒に」


「それは心配ありません。きちんと安全性を保ったレベルで電気が流れるように作られています。そうですね、構造的には、南米などで古くから使われていた、いわゆる牛追い棒に近いものです。電流を弱めたスタンガンのようなもの、と言えば伝わるでしょうか」


「でも……見た感じ、すごく……」


 頭の中に、一瞬でのけぞった父の姿が思い出された。椅子の上でガクガクと痙攣し、そして床に転がった。涎か涙で濡れた顔を思い出し、今更のように気分が悪くなった。思わず手の平で口元を覆う。


「確かにショックは受けます。それがなければ指導になりませんから。しかし、肉体に深刻なダメージを与えたり、まして命を奪うことなどはできません。適切な衝撃を与えることで適切な反省を促す。そういう道具です」


 小駒の言葉に迷いはなかった。だが私は、どう反応していいかわからない。命の危険がなかろうが、安全なものだとはとても思えない。


 なんとなく気まずくて、私は話の方向を変えた。


「あの……それで、父はどうなったんですか? まだオウルにいるんでしょうか」


「ああ、いえ、お父様はもうオウルにはいらっしゃいませんよ。指導が終わって間もなく帰られました。自分で車を運転して」


「え?」


 あのような状態にあった父が、自分で運転して帰った?


 私の疑問に気付いた小駒が、微笑みながら大きく頷く。


「そうなんです、戸田さん。電気棒で受けるショックはその程度のものなんです。初めて見た方は、昨晩のあなたのように、大きなダメージを負ったように見えるでしょう。でも、指導が終わってしばらくすれば、皆それがなかったことのように元気になります」


「そう……なんですか」


 そういうものなのだろうか。だが、実際に父が自分の運転で帰ったのなら、少なくとも運転できる状態には回復したということなのだろう。


「安全性は万全です。一方で、効果としては非常に高いものがある。以前、オウルではできるだけ利用者さんたち自身に任せている、職員は手を貸し過ぎない、というような話をしましたが、覚えてらっしゃいますか?」


「あ……はい」


 オウルに見学に向かう時の車内で、確かに小駒はそういうことを言っていた。主任という、利用者が担当するリーダー的なポジションがあるという話だった。


「つまりオウルは、利用者の自治を目指しているわけです。今回戸田さんにお願いしたパソコン教室にしても、利用者さん自身の生きる力を向上させることを目的に企画しています。そういうわけで、利用者さんたちがこの施設を自分たちで運営していく上で、施設内の言わば治安を守るルールが必要だったわけです。そしてそれは、シンプルかつ強力で、さらに、公平なものでなければならなかった」


「公平……」


「そうです。何か問題を起こせばきちんと罰せられる。でも、当事者による勝手な私刑リンチではなく、皆が見ている前で、皆が納得する基準で、安全性に問題のない電気棒によって、つまり公平な形で、です」


 なるほど……と思う。確かに、それは公平と言えるかもしれない。


「オウルでは、個人的な報復は固く禁じています。どんな問題であれ、必ず指導の場で解決するのです。そしてここも大きなポイントなのですが、指導の完了は問題の解決、完全終了を意味します。つまり、適切な指導を受けたら、その加害者の罪は精算されたと見做されるわけです。何か問題を起こせば指導されるが、指導を受けさえすればもうそれ以上責められることはない。それがオウルのルールなのです」

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