指導

 小駒は無言で私を迎えると、小さく頷いて歩き出した。食堂とは反対方向に廊下を進んでいく。住居棟の中はクラブハウス同様、照明は半分ほど消されていて薄暗い。


「あの……状況は」


 小駒の背中に聞く。小駒は肩越しに振り返り、「実は──」と答える。


「戸田さんが来られるまでなんとかもたそうと頑張ったんですが、お父様とお母様は既に接触してしまいました」


 驚いて思わず足を止める。小駒もそれに気付いて立ち止まり、振り返る。


「じ、じゃあ、母はもう、知ってしまったんですか」


「──ええ、私たちではお父様を止めることはできませんでした。お母様は全てを知ってしまわれました。すみません」


「そんな……」


 遅かったのか。全身から力が抜けるようだ。頭の中に、自宅にいた頃の母の姿が浮かぶ。母はまた、壊れてしまうのだろうか。


「でも、予想外のことが起こりまして」


 小駒が突然、明るいと言ってもいい口調で言う。顔を上げると、笑顔になった小駒の顔が目に入った。


「え……予想外って……」


「ええ、それが、お母様はお父様の不貞を知っても眉一つ動かさず、オウルのルールに従って、適切な指導申請を行われたんです」


「……は?」


 指導申請。なぜここで、その言葉が出てくるのか。


「一つ、約束してほしいことがあります」


 小駒の顔がまた真剣になる。だが、何を言っているのかよくわからない。


「戸田さんは今から、この施設、オウルのルールを知ることになります。一般的な感覚に照らせば、きっとショックを受けるでしょう。私自身もそうでした。でも、お願いです。私を信じて、一旦すべてを受け入れてほしいのです」


「あの、小駒さん……ちょっと意味が」


 小駒は一体何を言っているのだろうか。全く意味がわからない。


 私はただ、父と母との間を取り持つためにここに来たのだ。母が父の不貞を既に知ってしまったとしても、その目的に変わりはない。オウルのルール? すべてを受け入れてほしい? 困惑する私に、小駒は笑顔を浮かべたまま大きく頷いた。


「わかります。あなたには何の話かさっぱりわからないでしょう。でも、とにかく約束して欲しいんです。何を見ても、大きな声を出したり、勝手に動いたりしないでください。それを守ってくれれば、お父様とお母様の関係も、問題なく修復されるでしょうから」


 私には、小駒が何を言っているのかいよいよわからなかった。


 黙っていると、小駒はそれをどう捉えたのか、さらに笑顔を深くして妙なことを言った。


「大丈夫です。見た目ほどの危険はありませんから」




 階段を上がり、二階の廊下を進んでいく。


 前に小駒から受けた説明の中で、二階は男性フロアだと聞いた気がする。だが時間は既に夜十一時近い。利用者も休んでいるのだろう、人影はなく、物音もしない。


 だが、廊下を進んでいく内に違和感を覚え始めた。等間隔に並んでいる居室の扉がいくつか開いていて室内が伺えたが、どこにも利用者の姿がないのだ。急いで歩いているせいで部屋の中が見えるのは一瞬だが、薄暗い部屋のベッドの上に、人の膨らみは見えない。


 やがて私たちは廊下の突き当りまで来た。正面に観音開きの扉がある。入口には「指導室」と書かれた古いプラスチックプレートが貼ってある。


 小駒がドアノブに手をかけ、手前に引いた。と、中から一気に光が漏れた。目が眩んだようになり、私は思わず手の平で顔を隠した。


 ゆっくりと、手をどかす。


 そこに見た風景に、私は言葉を失った。


 部屋はかなり広く、五十畳ほどはある。部屋というより小型ホールといった感じだ。他の場所と違い、蛍光灯が全て点灯している。


 その光は、そこに集まった数十人の人間を浮かび上がらせていた。


 全部で三、四十人。皆、私たちに背を向けて立っていた。物音に気づいて何人かが後ろを振り返る。


 入所者たちだ。私は思う。──いや、よく見ればオウルくんTシャツを来た職員の姿もある。


 窓には分厚そうな黒カーテンが引かれ、そしてなぜか、壁がでこぼこしていた。よく見ると、それはスーパーなどで売っている卵のケースだった。衝撃を吸収するためにつけられている、薄いダンボールのような素材のあれだ。それが壁にびっしりと貼られているのだった。


 ──何だ、ここは。一体、何だ。皆、何をしているのだ。


 混乱は収まるどころか、ひどくなっていく。利用者や職員が集まっているということは、何かのイベント、催し物なのだろうか。小駒に聞きたいが、その小駒は下で話して以来、私の言葉を拒絶するように背中を見せている。


 どうにもできずに呆然と立ち尽くしていると、やがて部屋の奥の方から、集団を割って誰かが近づいてきた。


 中肉中背の男性。ヌメッとした、爬虫類を思わせる顔。


 それが本島だと気付くまでに数秒を要した。あの、独特の雰囲気を持った、だが小駒からは信頼を得ているらしい、不気味な職員。


「それぞれ、三秒の二セットです」


 本島がいつもの平坦な口調で言った。一瞬私に言ったのかと思ったが、「そうですか」と小駒が答える。本島は小さく頭を下げると、いま自分が作った道を戻っていく。


 訳も分からずその背中を目で追った。本島は道を進み、やがて部屋の一番奥へと辿り着いた。本島が戻っても、人が割れてできた道は開いたままだった。おかげで部屋の奥がどうなっているのか、初めて見えた。


 ブルーシートだ。


 正面の壁の少し手前に、なぜかブルーシートが敷かれてあった。花見などで十数人のグループが敷物として使うような、大振りなものだ。


 なぜこんなところに? そう思う間もなく、私の視線はそのシートの上に立っている人、一人の女声利用者に奪われた。


 蛍光灯の青白い光に照らされたその利用者の頬には、大きな傷が浮かび上がっている。


「……母さん」


 それは母に違いなかった。表情のない顔で、視線を天井に向けた母。それまで感じていた混乱と恐怖に一瞬の安堵が混じり、だがそれは、同じブルーシートの上に別の人間を認めたことで、すぐに強烈な不安に変わる。


 母から三、四メートルほど離れた所に、パイプ椅子に座らされて、うな垂れている男女の姿があった。


 私はそれが、父と瀬能であることに気付いた。つまりブルーシートの上に、右から本島、母、そして椅子に座らされた父と瀬能がいるのだ。


 思考がコマ送りのようになり、何が起きているのか把握できない。それでいて全灯した蛍光灯のおかげで視覚情報はこの上なくクリアなのだ。


 やがて本島が、あの滑るような足取りですっと母のそばに近づくと、手にしていた棒状の何かを差し出した。黒っぽい、髪を巻くコテのような何かに見えたが、私のいる場所から母たちまで十五メートルほど。はっきりとはわからない。


 本島は母の手にその柄を握らせると、耳元に口を近づけて何かを言った。母は特に驚いた様子もなく、無表情のまま頷く。


 何かが始まる。そんな予感があった。


 私は思わず、一歩前に立つ小駒の腕に手を伸ばし、その袖を掴んだ。


 小駒は肩越しに振り返ると、私の顔を見て、大丈夫というように深く頷いた。そのいつもの穏やかな笑みに、今日は安心することができない。小駒は明らかに、これから何が始まるかを知っている。


 絶望的な気分で視線を戻すと、母がゆっくりとした足取りで移動し、椅子に座った父と瀬能の後ろに立つのが見えた。


 母が動きを止め、準備完了と言わんばかりに視線を上げた。それを待っていたかのように本島は一歩前に進み出ると、いきなり声を張り上げた。


「戸田っ、勝次さんっ」


 名を呼ばれ、父が弾かれたように顔を上げた。うつむいていたせいで見えなかった表情が明らかになる。


 父は青ざめていた。遠目からわかるほど、青白い顔をしている。それに、今にも精神が崩壊しそうな表情をしている。


 本島は、バカみたいな大声で続けた。


「あなたはっ、妻がありながらっ、当施設の職員っ、瀬能多恵とっ、肉体関係を結びましたっ。間違いありませんかっ」


 冷たい無表情のせいなのだろうか、大声なのに、妙にのっぺりしている。ロボットが拡声器を使って話しているようだ。そして……何だって? 父と瀬能とのことを言っているのか。


「はい……間違いありません」


 一方の父は、表情通りの小さな掠れ声で答えた。普段家で見る、あのふてぶてしい態度は微塵もない。


 本島は父の言葉に無表情のまま頷き、今度は母に視線を移動させる。


「ではっ、三秒をっ、二セットっ。指導者はっ、妻である戸田佳代さんっ」


 そう言いながら本島は母たちの方に歩いていき、父の前でしゃがみ込んだ。そして父の着ているYシャツの袖ボタンを外し、肘が完全にでるまでまくり上げた。椅子に座ったままの父は、怯えた顔で顕になった自分の腕を見下ろしている。


 本島が立ち上がり母に頷いて見せると、母は手に持った黒い棒状のものを、突き出すように天井に向けて掲げた。


 突然、本島が叫んだ。


「ではっ、指導っ」


 ビクンと震えた母は、弾かれるように棒状のものを下ろした。それはまっすぐ父の腕に押し付けられた。その瞬間──


 空気の震えるような音がしたかと思うと、椅子の上の父の体がすごい勢いで後方へとのけぞった。そのまま上下に揺れるような激しい痙攣が始まる。母は目を見開き、だがその棒状のものを話そうとしない。


「三秒っ」


 本島が叫ぶと、母はやっと棒を離した。だが父の体の震えはすぐには収まらず、やがてバランスを崩し、椅子からごろんと転げ落ちた。


 私は手の平で口を押さえていた。そうしなければ、今にも叫びだしそうだったからだ。一体……一体何が起きたのか。あの棒が父に触れた瞬間、感電したように父は痙攣した。あの棒は何なのか。いや、そもそもなぜこんなことが施設で行われているのか。


 考えがまとまる間もなく、本島がまた叫ぶ。


「指導っ」


 母は上半身を傾け、ブルーシートの上に転がっている父の腕に、再度黒い棒を押し付けた。丸まっていた父の体が一瞬で伸び切り、痙攣がまた始まる。


 一秒、二秒──


「三秒っ」


 本島の声で母が黒い棒を離すと、震えは波が引くように徐々に収まっていく。


 本島が再度父のそばでしゃがみこみ、耳元で何かを言うと、転がったまま父は顔を上げた。


 涎なのか涙なのか、父は顔を何かで濡らしながら、ガクガクと首がもげるほど強く頷く。それを見て本島も、満足そうに大きく頷く。


「次っ、瀬能多恵さんっ」


 視線が瀬能に移動した。


「あなたはっ、勝次さんが既婚者だと知りながらっ、肉体関係を結んだっ、間違いありませんかっ?」


 瀬能はその言葉には何の反応も見せなかった。だが、感情の読み取れない無表情のまま、着ていたオウルくんTシャツの裾を自らめくり上げた。顕わになった白い腹を見て、私は息を呑んだ。


 傷。そこにはいくつもの傷があった。ミミズ腫れのような、いや、火傷かもしれない。昨日今日できた傷ではない。まるで焼きゴテをあてられたような、立体的な細い傷が何十本も無造作に並んでいる。


 焼きゴテ? まさか──


「ではっ、三秒をっ、二セットっ。指導者は引き続きっ、戸田佳代さんっ」


 微かに戸惑いの表情を浮かべた母が、また黒い棒を天井に向けて掲げた。


「はいっ、指導っ」


 母は、その傷らだけの腹に棒を押し当てた。瞬間、先ほどの父と同じように瀬能はのけぞったが、だが父のようにバランスを崩したり、椅子から転げ落ちたりはしなかった。目を見開き、苦痛の表情を浮かべながらも、呻き声一つ漏らさずに椅子の柄を掴んでいる。


「三秒っ、はいっ、指導っ」


 本島が叫び、母は二度目の「指導」を行った。瀬能の頭を後方にガクンと折れ、ガタガタと痙攣するが、やはり椅子の上に留まっている。


「はいっ、三秒っ」


 本島の声で母は棒を離す。ゆっくりと瀬能の震えがおさまっていく。


 私は既に現実感を失っていた。目の前で展開される出来事が、本当に起きている事だと思えない。母が父に、そして瀬能に、何かをした。二人は感電したように痙攣した。あの棒が触れると、それが起こった。


 それ以上に恐ろしかったのは、そのような異様な光景を前に、誰一人取り乱したりしなかったことだ。職員も、利用者も、ただ黙ってそれを見ていた。


「はいっ、それではっ、本日の指導は終了っ。皆さんっ、ごくろうさまでしたっ、挨拶っ」


 本島が「挨拶っ」と言った直後、それまで黙っていた利用者や職員が一斉に、「ありがとうございました!」と大声で応えた。


 それがスイッチになった。私の本能が、これ以上この場にいることを拒絶した。


 私の視界は急激に小さくなっていき──やがて真っ暗になった。

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