規則

「さすが夜は空いてるな」


 永遠は慣れた手つきでハンドルを操作し、オンボロ外車だということを忘れそうなほどスムーズな運転で、軽快に道を走っていく。


 自宅を出た私たちは、永遠が居候している所長の自宅に行った。そして、早寝の所長が既に眠ったらしい静かな家から、車のキーを無断で持ち出してきたのだった。


「こんなにスピード出して大丈夫なの?」


 車が少ないせいか、先日小駒に送ってもらった時よりずっと早い。ボロボロのミニクーパーが、どんどん先行車を追い抜いていく。


「大丈夫だよ、俺、運転上手いから」


 そう言って永遠はタバコに火をつけ、鼻歌交じりにアクセルをふかす。今更のように、永遠と一緒に来てしまってよかったのだろうかと思う。だが、もうここまで来たら仕方がない。


 途中、携帯からオウルに電話を入れた。小駒につないでもらおうとしたが、見当たらないとのことだったので、幼馴染の車で向かっているので駅までの迎えは大丈夫だ、と伝言を頼んだ。


 私は気が気ではなかった。小駒がいないということは、既に話し合いが始まってしまったのではないか。もしかしたら例の話は既に母の耳に入ってしまったのではないか。


 永遠の運転する車はこれ以上ないほどのスピードで走り、所長の家を出て四十分足らずで、私たちは大同駅前に到着した。駅まで向かい、電車で来ていたらこうはいかない。そもそも最終電車に乗れたかもわからないのだ。


 ひとまずほっとしつつ、フロントガラスを染める闇に目を凝らし、進む方向を指示する。


「あそこ、左斜め前に上り坂があるでしょ。あの細くて、カーブしてるやつ」


「ああ、けっこう急だな。この車で登れりゃいいけど」


 坂道に入ると今まで以上の音で車が唸った。それでも車は、何とかじわじわした足取りで坂を登り始めた。


「よしよし、その調子だぜ相棒」


 やがて正面の闇の中に、ポツポツと明かりが見え始めた。私は永遠の体越しに窓の外を注意深く観察し、右手にある駐車場を指をさす。


 平坦な駐車場に入ると、並んでいる業務用ワンボックスや職員の車の間に、見慣れた灰色のセダンが見えた。それは間違いなく、普段は自宅のカールーフ下にある父の車だった。本当に、父はここに来ているのだ。


「すげえとこだな、マジで山ん中」


 車を降りて外に出ると、永遠が呑気な声で言う。見れば、両手を大きく広げて伸びをしている。


「いやあ、星が綺麗だわ。空気もうまい」


「もう、そんな場合じゃないんだって」


 私は空を見上げてニヤついている永遠の腕を乱暴に掴み、クラブハウスの方へと引っ張っていった。



 こんな時間でも、クラブハウスには数名の職員が残っていた。照明は半分ほどしかついておらず、職員たちも勤務中というよりは休憩中といった雰囲気でくつろいでいる。夜勤として待機してはいるが、普段は客が来ることもないのだろう。


 永遠を伴ってガラス扉を開けると、その音に顔を上げた職員の中に知った顔があった。


「あっ、先生。待ってましたよ」


 勇太は立ち上がり、身長は同程度だが自分よりずっと細い永遠をちらりと見て、「小駒さんから聞いてます」と満面の笑みを見せる。


「ねえ、父たちがどこにいるのかわかる?」


 私は緊張しながら言った。勇太はどこまで知っているのだろうか。クラブハウスに父や母、そして瀬能の姿はない。


「みんな住居棟にいますよ。先生が来たら連れていくことになってます」


 勇太があくびを噛み殺しながら言い、オウルくんTシャツの裾から手を入れて腹をぼりぼり掻く。まるでボディビルダーのようにでこぼこした腹の筋肉が顕わになる。


「お兄さん、腹筋すごいね」


 永遠がいきなり口を開いた。何言ってるのと思いながら顔を振り返ると、永遠はなぜか目を細め、不敵な笑みを浮かべて勇太を見ている。


「別に」


 勇太は興味なさそうに言い、「じゃ、行きましょか」と永遠ではなく私に笑いかけた。



 ゲストハウスの裏の扉から敷地内に入り、暗い中を三人で進んでいく。


 所々に街灯が設置してあるが、かろうじて進む方向がわかる程度で、あまり役には立っていない。スイッチひとつで明るくなる部屋と違い、山の中ではどこまでも闇が続いている感じがする。


 昨日はそんなこと思わなかったな、と住居棟に向かいながら考える。昨日はロッジで小駒と食事を楽しみ、アルコールの酔いに揺られるようにこの道を歩いた。酒のせいだけではない。小駒が送ってくれたから気分がよかったのだろう。


「すげえな、真っ暗」


 永遠が呑気に言い、へっくしゅ、とくしゃみをした。


 そう言えば、永遠は小駒と電話で話したのだ。言い合いのような雰囲気もあった。幼馴染と説明したが、小駒はどう思ったのだろうか。こうして永遠を連れてきてよかったのだろうか。今更のようにそんなことを考える。


 ──いや、そんなことよりも、今は父と母のことだ。


 自分に言い聞かすように考える。やがて自然のものに支配されていた視界の中に、明らかに人工物とわかる直線的な影が見えてきた。


 住居棟だ。


 カーテンの引かれた窓の奥から、微かな光の筋が漏れている。


 玄関前には、いつものように受付の職員が立っていた。見れば二人共、勇太に負けないくらいに逞しい体つきをしている。勇太が手を上げて見せると、一人が手を上げ返し、腰の鍵束を取り出して入り口の鍵を開けてくれる。


 その動作を無言で見守っていると、すぐそばでジジジというノイズが聞こえた。勇太が腰のトランシーバーを口元に近づけ、何かを話している。通話相手の声が返ってきたが、一瞬のことで内容は聞き取れなかった。勇太はまた何かを言って応えると、トランシーバーを腰に戻して言う。


「先生、中へどうぞ。すぐ小駒さんが迎えに来るんで」


 いよいよだ。私は心のなかでよし、と気合を入れ、頷いた。


「じゃ、行こう」と永遠を伴って入口へと歩いて行こうとした時──


「あ、ダメダメ。お兄さんはここまで」


 勇太が言った。驚いて振り返ると、勇太はおどけた様子で肩をすくめる。


「この先は、ご親族以外の方にはご遠慮いただいてまして」


 よく言えば人懐っこい、悪く言えば人を馬鹿にしたような軽々しい口調。すぐに永遠が反応した。


「はあ? 何言ってんだよ」


「だから、ここから先、親族以外の方にはですね」


「俺はこいつの付き添いで来てるんだよ。ここまで送ってきたのも俺だ」


「そんなことはわかってますって。でもこれ、規則なんでね」


 勇太は相変わらずヘラヘラした表情のままだが、言葉には迷いがなかった。


「おい、いい加減にしろよ。こんな夜中に呼び出しといて、土壇場で立入禁止ってか」


 永遠の口調が荒くなる。私は咄嗟に永遠の腕を掴み、それから勇太に一歩近づくと、「ごめん、この人は大丈夫だから。通してあげて」と言う。


 だが勇太は首を振った。


「ダメダメ。先生のお願いでもダメです。本当は、親族だってこの時間はNGなんですよ。今回は特例で、先生だけ許可を取ったんだから」


「でも──」


「ダぁメ。認められません。小駒さんからも、先生一人だけを入れるように言われてます」


「お前、マジでふざけんなよ」


 小駒の名に反応したのだろうか、後ろから永遠が乗り出してきて、勇太の胸ぐらを掴んだ。その瞬間──筋肉で膨れた勇太の体がぐにゃりと傾いたかと思うと、永遠の手を器用に掴んで、一気にねじり上げた。


「ぐっ」


 小さなうめき声を上げた永遠は、あっという間に地面に転がされてしまっていた。


「ちょっともう、勘弁して下さいよ」


 勇太は涼しい顔をしながら言った。格闘技でもやっているのか、動揺した様子は全くない。反対に永遠は苦しそうに歯を食いしばっている。


「ちょっと……やめて。離してあげて」


「しょうがないじゃん。襲ってきたのはお兄さんの方なんだし」


「でも……」


 勇太は永遠の腕を掴んだままため息をつく。


「いいですか先生、僕ら施設職員は、ここの利用者を守るのが仕事なんです。だから、よくわかんない部外者を中に入れるわけにはいかないの。当たり前っしょ?」


「うん……それはわかる。でも、この人は大丈夫よ。だから、お願い、やめてあげて」


 私は再度勇太に頼んだ。誘拐犯を説得するような気持ちだった。彼の言い分も一理あるが、このままでは、私のためにここまでしてくれた永遠に申し訳が立たない。


「ね、もう大丈夫だから、手を──」


 その時、勇太の顔からすっと感情が抜けた。


 冷たい無表情──


「先生、障害者支援、舐めてんすか?」


「……え?」


「俺たちは本気で利用者を守ってんだ。施設内で暴れるようなこんなバカに、情けなんてかけるわけねえだろ」


 驚きと恐怖とで、私は反論できなかった。黙って勇太を見つめ返すことしかできない。


 やがて、無表情だった勇太の顔がふっと緩み、いつもの無邪気な表情が戻った。


「じゃ、僕はお兄さんとクラブハウスに戻るんで」


「でも……」


「大丈夫、別に何もしない。このまま帰ってもらうだけだけだから……ていうか先生、早く行った方がいいんじゃないですか。ほら、小駒さん待ってんじゃないですか」


 勇太の視線が私ではなく、私の背後に注がれていた。ハッとして振り向く。


 ガラスの向こうに、小駒が立っていた。いつもの穏やかそうな笑顔。だが、永遠や私に手を差し伸べることはしない。


 もしかしたら小駒は、私が永遠を連れてきたことを怒っているのかもしれない。永遠が電話で言い合いをした相手だとわかっているのかもしれない。


 いや、それだけではないのかもしれない。もしかしたら小駒は、永遠が私の彼氏だとでも思っているのだろうか。だとしたら──


「……永遠、ごめん。私、行かないと」


 私の言葉に、永遠が目を見開く。勇太に腕を拘束されながら、私と小駒を見比べ、それから何かを言いたそうに唇を震わせる。


「……この埋め合わせは絶対するから」


 私は永遠の顔を見ずに言って、小駒の待つ住居棟の中へと足早に進んだ。

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