真相

「最初のキッカケは、お母様の体験入所一日目です」


 体験入所一日目と言えば、小駒、本島、そして瀬能の三人がこの家まで母を迎えに来た日だ。父と瀬能はそこで初めて会った。それは間違いないことだろう。


 想定していた答えだったので、大きな驚きはない。だが小駒は続けて妙なことを言った。


「その日の夜、ちょっとした出来事がありまして」


「え? 夜ですか?」


 思わず聞き返す。


「実は体験プログラムが終わった後、お父様がお酒を飲みたいと仰いまして」


「お酒?」 


「そうなんです。まあ、慣れない場所で一日過ごされたわけで、少しリラックスしたいと考えられたのだと思います。……それで、その日たまたま職員のあるグループが飲み会を開く予定がありまして。まあ、飲み会と言っても、職員フロアにある共有スペースでだらだらと飲むだけのものです。テレビとソファセットがあるだけの場所なんですが」


 その場所には覚えがあった。今朝、電話を探して職員フロアをうろうろしているとき、勇太に声をかけられた。あれが休憩スペースなのだろう。


「その話を聞いて、お父様は自分も少し合流させてほしいと。それで、こちらも強くお断りできず、では一緒に飲みましょう、ということになったんだそうです」


 そうです、ということは、小駒はその場にはいなかったということか。なぜかそれに微かな安堵を覚えつつ、問題はそこではないと思い直す。これは父と瀬能との話なのだ。


 そして私は気付いた。


「その飲み会に……瀬能さんも?」


 私が言うと、小駒は「その通りです」と答えた。


「昨晩もお伝えしましたが、オウルの職員の多くが酒を嗜みます。瀬能さんもそういった職員同士の飲み会にはよく参加する方で、その場にもいたと。その場にいたメンバーから聞く限り、たいそう盛り上がったみたいです。お父様も楽しんでくださったんでしょう、少しで済ますつもりが、三時間近く飲まれて、かなり酔われてしまったようです」


 頭の中に、家のリビングでちびちびと日本酒を飲む姿が思い出された。車通勤なので外で飲んで帰ってくることはほぼない。家で飲むのも晩酌程度に一時間ほどなので、酔っている姿自体をあまり見たことはない。


 だが一方で、泥酔する父を想像できないわけではなかった。瀬能の尻あたりを見ながら下品な笑みを浮かべていた姿が頭に浮かぶ。


「それで?」


「ええ、そろそろ終わりにしてお部屋に、ということになったんだそうです。で、たまたま、なのか、あるいはお父様が希望したのか、部屋までの案内を瀬能が行ったそうで」


「……なんですか、それ」


 酔っぱらい、瀬能にだらしなくもたれかかる父。想像するだけで、怒りと嫌悪がわきあがった。


 小駒はまた小さくため息をついた。


「……とにかくお父様と瀬能はゲストルームの一室まで一緒に行き、まあ、そこからの詳しい経緯はわかりませんが、その部屋でそういう行為に及んでしまった、ということのようです。そして、その後連絡先を交換し、瀬能の非番と予定を合わせて今回の件を計画したんだそうで」


 私は絶句した。瀬能が家に来た、そのまま父と一晩を過ごした。それが事実だとすれば、想定される流れではあった。だがあらためて説明されると、いくらあの父でもそんなこまでするだろうかと、信じられない気持ちになる。


 私は言葉が継げなかった。小駒が続ける。


「このことは今日まで、誰にも知られていませんでした。職員も私も、まったく気がついていなかったんです。お父様と瀬能さん、二人だけの秘密だった」


 そう、私も知らなかったのだ。知らないまま父と話し、知らないままオウルに出勤していた。だが、そうだ。私は思い出す。ではなぜ父はいまオウルに行き、そして小駒に事情を話したりしたのだろう。私は小駒にそういうことを言った。


「罪悪感、と仰っていました。特に、今回自宅で過ごされたことで、それが一気に膨らんでしまったのだと」


 私はそして、今朝オウルからかけた電話のことを思い出す。父は明らかにおかしかった。それは会議がうまくいかなかったからではなく、娘に嘘をついてまで瀬能を呼び込み、一晩を過ごしたことに対する罪悪感だと言うのか。


 そんなのはおかしい。罪悪感を感じるくらいなら、最初からそんなことをしなければいいのだ。しかも、会社をズル休みしてまで……


「……どうして」


 私は呆然として言った。本当に意味がわからなかった。


 電話の後ろが少し騒がしくなり、とにかく、と小駒は言った。


「とにかくお父様は、罪悪感にもう耐えられない、懺悔するためにオウルにやって来たんだと仰っています。瀬能さんも一緒です。それで、今回のことをきちんと精算したいと仰った」


「精算? 精算って……」


 一体どう精算するというのだろう。施設に出向いてまで、何をしようというのか。考えてみればおかしな話だった。もし本当に罪悪感に苛まされているのだとして、なぜそれを施設に懺悔に行くのか。オウルの中で、今回の件に関係あるのは瀬能だけだ。そして、もし懺悔するのなら、小駒や職員ではなく、まず家族である私ではないのか。


 家族。


 私はハッとした。まさか……


「お父様は今回の件を、自らお母様に告白するつもりです」


 頭を殴られたような感覚があった。指先がすっと冷たくなる。


「そんな……」


「それで……それで今から、お父様、お母様、そして瀬能さんで話し合いを持つことになりました。正直に言って、これがよい結果を生むとは思えません。ただ、プライベートな事なので我々が介入するわけにもいかず……」


 小駒の口調が忙しくなる。後ろが騒がしいのも何か関係があるのだろうか。だが逆に私の頭はうまく働かなくなっている。


 そんな私を励ますように小駒が言う。


「戸田さん、聞いてください。驚いてそれどころではないかもしれませんが、大切なことを言います。お母様のことです。いいですか、今のお母様に今回のことを許容する余裕などありません。ここにきて少しずつ調子が良くなってきているのに、それが全て水の泡になる可能性があります」


 私はハッとする。そうだ。最近の母を見ると忘れてしまうが、ほんの一週間ほど前までは、塞ぎ込んで家に引きこもっていた人なのだ。


「……そんな……そんなの、ダメです」


「ええ、私もそう思います。それで戸田さん、急な話なのですが、今からこちらに来れませんか?」


「え、今から、ですか」


 思わず時計を見上げる。既に、夜九時近くになっている。


「ええ。今は職員が何とかお父様を引き止めてはいますが、それがいつまでもつかわかりません。家族のあなたが来てくれれば何か状況も変わるのではないかと、連絡しようとしていたところだったんです」


 そうだったのか。そこにたまたま永遠と私が電話した。


「戸田さん、出過ぎたことを言ってすみません。でも、あなたがまた悲しむかもしれないと思ったら、どうしても我慢ができなくて」


 小駒の言葉が、すっと胸に入ってくる。


「小駒さん……」


「あっ、すみません。でも、これは場合によっては、家族の危機ですから」


 そうだ、と思う。実際にこれは家族の危機なのだ。そうでなくても既に壊れかけた家族なのだ。これ以上何かがあれば、もう本当に取り返しがつかない。


「行きます」


 私は言った。電話の向こうで小駒が大きく頷いたのがわかる。


「よかった。今はご自宅ですよね。電車はまだギリギリ残っているはずですから、よろしくお願いします。大同駅までは迎えに行きますから」


 わかりました、と言って電話を切った。そのままの姿勢で、頭の中を整理する。


「小夜子。行くって何だよ」


 永遠が私の顔を覗き込む。今から行くなら当然泊まりになるだろう。私は永遠を押しのけるようにしてリビングを出ると、急いで二階に駆け上がった。


「おい、何だよ、おい」


 自室に戻ってボストンバッグを引っ張り出し、着替えと化粧ポーチを突っ込んですぐに出る。階段の途中で永遠が眉間にシワを寄せて立っていた。


「おいおいおい、どうなってんだよ」


「ごめん、永遠。やっぱりお父さん、施設にいたの。私も今から行く」


「なんでそうなるんだ。行ってどうすんだよ」


 永遠は苛立ちを隠さず言った。永遠の反応ももっともだ。だが今は時間がない。


「ごめん、今度必ず説明するから。私、今から駅に戻って電車に乗らないと。間に合わなくなっちゃう」


 言っている途中で涙声になった。早くしなければ、私たち家族が今度こそ完全に崩壊してしまう。それだけではない。やっと光が見えてきた母の人生が、再び闇の底へと落ちてしまうかもしれない。


「電車ってお前、藤堂線だろ? あそこの電車、夜はほとんど動いてねえぞ」


 私は既に何度も見ている時刻表を思い浮かべる。確かに、普段自分が使う朝八時台と夕方四時台以外、あまり覚えていない。永遠の言う通り、夜間は運行本数が少なかったようにも思う。だが、小駒はまだギリギリ間に合うと言っていた。


「でも……でも、仕方ないじゃない。他に方法がないんだから」


 私は感情的になるのをやっとのことで堪えて言う。だが永遠はじっと私の顔を見つめ、「俺が送ってやる」と言った。


「……え?」


「だから、俺が車で送ってやるよ」


「そんな……だってあんた、車なんて持ってないじゃないのっ」


 怒鳴るような口調で言うと、永遠は前歯をむき出しにしたウサギの顔をして、言った。


「大丈夫だ、叔父さんのポンコツがある」

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