不可解な行動

 永遠と二人、駅前から私の家まで歩いた。


 制服を着ていたのはもう十年以上前のことなのに、こうして並んで歩いていると、それがほんの数ヶ月前くらいの出来事に思える。


 自宅に到着したのは八時半過ぎだった。


「あれ、いないっぽいな」


 家は暗く、カールーフに車は停まっていない。父が帰っていないのは明らかだった。


「でも、まだ八時半だから」


「八時半で、まだ、なのか。働きすぎだぜ」


 永遠の呆れた顔が、青白い街灯の光の中に浮かぶ。


「お前、もう一回電話してみろよ。今なら繋がるかもしれねえし」


 私は頷き携帯電話を取り出した。父の番号を表示させ、発信ボタンを押す。


 かける前から、どうせ呼び出し音が続いて留守電に切り替わるのだろうと思う。だが、今度は呼び出し音すら鳴らなかった。留守電にも繋がらず、「おかけになった電話は、現在電波の届かない場所におられるか──」というアナウンスが流れた。


「ダメ、かからなくなっちゃった」


 永遠が眉間に皺を寄せ「充電切れか?」と言う。そうかもしれない。あるいは私からの着信に気付いて、電話の電源を切ったのかもしれない。


「どうしよう、何かあったのかな」


「会社に電話してみるか?」


 永遠が言い、思わず「え?」と聞き返す。


「え、じゃねえよ。親父さんの会社だよ。こんな時間に商談でもねえだろ。家にいねえってことは、会社にいるんだろうが」


「あ、そっか」


 父は車通勤だから、帰りに居酒屋などに寄ることもない。いるとしたら会社。なぜそんな簡単なことに気が付かなかったのか。父の名刺がリビングにある。私は急いで鍵を取り出し、永遠と共に家の中に入った。


 私が先にあがってリビングの電気をつける。永遠がこの家に来るのはいつ以来だろう。


「なあ、何か飲んでいいか?」


 永遠は勝手にとキッチンへと入っていき、冷蔵庫を開ける。永遠が烏龍茶のペットボトルを取り出してコップに注ぐのを横目に見つつ、私は電話の脇の壁に画鋲で留めてある古めかしいアドレス帳を開く。


それはあ行、か行、さ行と行ごとにページがわかれているもので、レース編みの人形を象った表紙がついている。その柔らかい表紙をめくりあげると、その裏側に父の名刺が貼ってあった。


 私は受話器を取り上げ、父の部署である営業部の直通番号をプッシュしていく。やがて呼び出し音が聞こえ始めた。緊張が高まる。


「お電話ありがとうございます。株式会社──、潮田がお受けします」


 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、苛立った口調の男が出た。潮田、という名に覚えはないが、その声質と態度から父と同年代の男が想像された。


「あの……夜分にすみません。私、戸田勝次の娘で戸田小夜子と申します」


 潮田は一瞬黙り、「ああ、戸田君の」と、妙に含みのある言い方をした。君付けということは、上司か、先輩か、あるいは同期か。


「あの、そちらに父はいますでしょうか」


 私が言うと潮田は、「はぁ?」と驚いたように聞き返してきた。聞こえなかったのかと思い、「そちらに父がいれば、繋いでもらいたいんですが」と再度言う。


「ええと、あなた、どなたですか?」


 潮田はいきなり凄むような口調になった。私はわけが分からず、「ですから、娘です」と答える。


「だって、おかしいじゃない。娘さんとは少し前から同居しているって言っていたのに」


「え? ええ、一緒に住んでますけど」


 潮田は「んん?」と唸るような声を出す。


 何だろう。話が噛み合っていない。動悸がし始める。そしてそれは、潮田の次の一言で一気に速度を増した。


「戸田くんはここ数日、出勤してませんよ。体調不良で休んでいるんです。同居してるのに知らなかったんですか?」


 潮田はそして、バカにしているように笑った。私が何も答えずにいると、「なるほどね」とひとりごちる。


「いい歳して、ズル休みってわけか」


 潮田はやはり父より上、あるいは同期の社員なのだろう。話からすると、父が仮病を使って会社を休んだことは明らかだった。潮田がここで嘘をつく理由はない。


 どう誤魔化せばいいだろう。うまくやらなければ、父の評価にも繋がりかねない。


「ああ、いえ、そうじゃないんです。私もここ数日仕事で出ていて、今も出先で。携帯や自宅に何度も電話してみたんですが、繋がらなくて、それで会社に」


 このご時世、オフィスの電話にはナンバーディスプレイくらいついているだろう。液晶画面にはこの家の番号が表示されているはずだが、潮田にはそれが戸田家の電話番号だとすぐにはわからないはずだ。


 しばらく間があって、「ふうん」と潮田はつまらなそうに言った。


「父は体調不良で休んでいるんですね? じゃあ、家にいるはずなんですけど。どうして出ないんだろう」


「寝てるんじゃないですかね。体調が悪いわけだから」


 既に潮田はこの件に興味を失ったようだった。うまく誤魔化せたようだとほっとする。


「確かにそうですよね。心配なので、今から家に戻ることにします」


 礼を言って電話を切った。受話器を置くと、今更動悸がしてくる。


「おい、どうだった?」


 永遠が言い、近づいて来る。私の顔を覗き込む。


「父さん、会社に行ってなかった」


「はあ? なんで」


「わかんない」


「じゃあどこにいるんだよ。今もその美人職員と一緒にいるのか?」


「わかんない」


「おいおい、お前大丈夫か?」


「わかんないよ!」


 大声が出てしまう。永遠は驚いたりせず目を細め、「小夜子、とりあえず落ち着いて考えようぜ」と諭すように言った。


「ああ……うん……ごめん」


 何が何だかわからない。父が数日前から会社を休んでいるのだとするなら、昨日の会議もやはり嘘ということなのか。


 そうなれば、脱衣所に残されていた瀬能の化粧ポーチも、会社の誰かの持ち物という線がなくなる。状況から見れば、昨日父がここで一緒にいたのは、会社の人ではなく瀬能だったと考えるのが自然だ。


 そして、そう、今朝の電話。会社の人間はもう帰った後で、自分も今から出勤するのだと言っていた。それも嘘。


 そして私はその時、ある事に気付いた。先ほど感じた微かな違和感。その理由。


「小夜子?」


 私は無言で再度受話器を取り上げ、父の携帯番号が登録されている短縮ボタンを押す。


「おい、どこにかけてるんだ」


 だが結果は先ほど同様、電源が入っていない旨を伝えるアナウンスが流れるだけだった。


 ──おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません。おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか──


 私はその繰り返される短いアナウンスを聞きながら考えた。


 電波の届かない場所におられるか──


「もしかして……」


「なんだよ」


「父さん、オウルにいるのかもしれない」


 声が震えていた。オウルが電波の届かない場所にあること。瀬能がオウルの職員であること。根拠はそれしかない。だが、口にしてしまえばそうに違いないという気がした。だが、何のために? わからない。ここ数日の父の言動はわからないことだらけだ。


「おい、大丈夫か」


「どうしよう、ねえ、永遠。どうしよう」


 私は永遠の腕を握る。いつもふざけてばかりの永遠が、真剣な顔で私を見返す。


「施設の番号、どれだ」


 永遠が言い、私それしかないと思いつつ、とてもそんなことはできない気がした。


「嫌」


 私は首を振った。父が若い女に手を出した。そういうよくある不倫騒動で済ませておきたかった。話を大きくせず、そう、私たち家族と瀬能の間で、解決すればいい。施設を絡めたくない。施設には──大切な小駒がいるのだ。


 永遠はしばらく私の顔を見つめていたが、「どっかで見たな」と呟き、やがて周囲を確認するように視線を移動させ、やがて私の手から逃れてキッチンの方に行った。


 「これか」と呟き、冷蔵庫にマグネットで留めてあった体験入所のチラシを持って戻ってくる。


「永遠……やめて」


 私が受話器を抱えて永遠を制すると、「馬鹿、親父さんがヤバイことになってたらどうすんだよ」と声を荒げた。永遠は自分の携帯電話を取り出し、チラシを見ながら番号をプッシュした。


「──あ、もしもし? 遅くにすみません。私、葛城と申しますが」


 初めて聞く永遠の大人の言葉遣いに、現実感が遠ざかるのを感じる。


「──ええ、そちらで勤務してる戸田小夜子の友人で、それで、お父さんが、はい、小夜子の親父さんです。はい、実は連絡が取れていなくて、いま心当たりに色々連絡しているんですけど」


 永遠が真剣な顔で話しているのを、私は夢の中の出来事のように見ている。


「え? ああ、分かりました」


 永遠が言い、それから携帯のマイク部分を手の平で押さえ「事情を知っている人を連れて来てくれるみたいだ」と私に言い、すぐに耳に戻す。


「あ……すみません私──え? いや、ですから小夜子の親父さんの──ええ、夜遅く申し訳ないんですけど──え? ああ、いるにはいるんですが、ちょっと今ビビッちゃってるって言うか、それで俺が代わりに──」


 永遠の口調が徐々に荒くなる。電話の相手に苛立っているようだ。まさか相手は小駒ではないのか。


「え? だから小夜子は──ええ、とにかく、親父さんはそっちに行ってるのかどうかってことを──ああ、はいはい、わかりましたよ」


 明らかに永遠は機嫌を損ねていた。またマイクを押さえてこちらを見、「お前に変われってよ、なんだよ偉そうに」ブツブツと文句を言い、そして携帯自体を私に差し出した。ツバを飲み込んでそれを受け取り、耳に当てる。


「も、もしもし」


「ああ、戸田さん。小駒です」


 声を聞いた途端に、カッと体が熱くなる。やはりそうだった。


「大丈夫ですか? 何か具合が悪いとお友達が言ってましたけど」


 小駒は含みのある言い方で「お友達」と言った。何か誤解されているのではないかと心配になり、「あの、すみません。父と連絡が取れなくて、それで動揺してしまって、幼馴染に相談を」と言った。幼馴染という言い方が適切なのかどうかはわからないが、とにかく恋愛関係にない相手だということを伝えなければいけない。


「そうですか。とにかく、連絡が来て驚きました。私の方も、あなたに連絡しようと思っていたところだったんです」


「え……私にですか。どうして」


 小駒がため息を吐く音が聞こえた。嫌な予感がする。


「落ち着いて聞いてくださいね。実は一時間ほど前、お父様がこちらにいらっしゃって」


 頭を殴られたような衝撃。予想していたことではあったが、ショックだった。


「自分で車を運転して来られたようです。我々も驚いてしまって、職員がどうしたのかと聞くと、とにかく話があるのだと仰ったらしくて」


「話? 話って、何ですか」


「ええ、それが」


 小駒はそこで言葉を切った。言おうかどうしようか迷っている風だった。


 私は続きを待たずに言った。


「もしかして、瀬能さんのことですか」


 向こうで小駒が息を呑むのが分かった。驚きが伝わってくる。


「──どうしてそれを?」


 やはりそうだ。小駒の返事は、父が瀬能との事でオウルを訪れたのだと認めていた。


 重苦しい気分が広がっていく。


 私は自宅に瀬能のポーチが残されていたことを説明した。オウルに見学に行った際に偶然見かけて覚えていた、それで父が瀬能とここで過ごしていたのではないかと疑ったのだと。


「いま考えてみれば、昨日の電話──あの、家で泊まり込みで会議をするというのが、嘘だったんだと思います」


 私が言うと、電話の向こうで小駒がため息を付くのがわかった。


「ええ、そうなのです。先ほどお父様から直接お話を聞きましたが、会議をしたという事実はないそうです。戸田さんが考えている通りです。お父様は昨日、ご自宅で、瀬能さんと二人で過ごされたそうです」


「やっぱり……でも、どうしてそんなことに」


 焦りや不安が、だんだんと怒りに変わっていく。言葉尻からそれを感じたのだろう、小駒は私に同情するようなため息をもう一つ吐き、言った。


「だいたいの事情は把握しました。戸田さん、お聞きになりますか?」


 その重い口調から、状況は決してよくないことが伺われた。隣で心配そうに立つ永遠の方をチラリと見る。どうした、というように永遠も見返してくる。


 聞くしかない。聞くしかないではないか。この家にはもう私しかいないのだ。


「はい」


 覚悟を持って言うと、わかりました、と小駒は言った。

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