喫茶店
「はいよ」
数度の呼び出し音の後、永遠の呑気な声が聞こえた。
「何だよ、とうとう謝る気になったか?」
茶化すようにそう言われ、そうか私たちは喧嘩していたんだっけと思い出す。だが、そんな事はどうでもよかった。動揺が伝わらないようにしながら、「今、どこ?」と聞く。
「今? 駅前のサ店。親父にこき使われて、さっきこっちに戻ってきたんだよ」
「永遠、あのさ」
ツバを飲み込み、言った。語尾が涙声になってしまった。駄目だ。我慢できない。
「小夜子?」
様子がおかしいのが伝わったのだろう。永遠が真剣な声で聞き返す。
「……あのさ、今から、ちょっと会えないかな」
話している途中で涙が溢れ出た。息が苦しい。
「お、おい、どうしたよ……お前、泣いてんのか?」
「今から……ねえ、駅前にいるの?」
「お前、いま家か? すぐ行くからちょっと待って──」
永遠の言葉を遮り、「嫌」と言った。
もうこんな家には一秒もいたくなかった。父が瀬能と会っていたかもしれない家など。
今からその店に行くから場所を教えてと頼み、所在地を聞くと、バッグに手をかけつつ電話を切った。
永遠がいたのは駅前の、私が普段使っている藤堂線の駅に近い、古くて薄暗い喫茶店だった。 二つのパチンコ屋の間で押しつぶされそうになっている。薄紫色のガラスが入った扉から中を覗くと、中には意外にも大勢の客が見えた。
恐る恐る扉を開けると、昭和風というか、紫色で統一されたレトロな内装が目に入った。カフェやラウンジとは違い、いかにも喫茶店といった雰囲気の店だ。
「おい、ここだ」
見れば一番奥のボックス席に永遠がいた。タバコを咥え、手をぶんぶんと振っている。
私が席につくやいなや、「何にする? カルピス?」などと呑気に言う。
永遠の前には既に空になったグラスが置かれている。スプーンが刺さっているところからすると、クリームソーダだろう。永遠は昔からクリームソーダが好きだった。
「……カルピスって何よ」
「あれ、お前カルピス好きじゃなかった?」
永遠はあっけらかんと言う。呆れる一方、いつもの雰囲気にほっとする。
「それ、私じゃないでしょ。どこの女と間違えてんのよ」
冗談めかして言ったが、永遠は「いや、絶対お前」と譲らない。
「高校の時、購買でよく買ってたじゃねえか。パックのやつ」
妙に強い口調でそう言われた。記憶を探れば、確かにそうだったかもしれないと思う。
私たちの高校は地元でもそれなり知られた進学校で、当時は共働きというのは珍しく、生徒の多くが毎日弁当を持参していた。私の家では母がホームセンターで働いていたこともあり、毎日五百円をもらって購買で昼食を調達する日々だった。
そういう生徒は少なかったので、必然的に購買前に集まるメンバーは決まっていて、その中に永遠もいたのだった。
「ああ、確かにそうだったかも」
「ほれみろ。俺が忘れるわけねえんだよ。でも懐かしいなあ、もう二十年も前か」
「そんなに前じゃないよ、バカ」
笑いながら言うと、永遠は一瞬目を細めて私を見て、「おお、笑った」と言ってメニューを持ち上げ、店員を呼んだ。
「クリームソーダおかわりとカルピス」
オーダーを勝手に済ますと、「で、どうしたんだよ」と短くなったタバコを灰皿に押し付けながら言った。
昨日父から電話があって、家で泊りがけの会議をするからオウルに泊まれと言われたこと。今日仕事を終えて家に戻ったら、風呂場で見慣れぬ化粧ポーチを発見したこと。それはオウルの女性職員の私物によく似ているということ。その職員を父は気に入っていたこと。そして、少し迷ったが母が入所した件も併せて話した。
永遠は意外にも一度も茶化さず、真剣な顔で聞いてくれた。
話が終わると、途中で運ばれてきていたクリームソーダのアイスにスプーンを刺しながら、「なんか、嫌な感じだな」と言った。
「うん。それでカーっと来ちゃって、あんたに電話を」
永遠はアイスを口に入れつつ、「でもなあ」と唸る。
「でも、何よ」
「いや、正直さ、お前の勘違いって線はまだ捨てられねえと思うぜ。むしろその可能性のが高いんじゃねえかと俺は思ってるんだけど。でも、とりあえずお前の仮説が合ってるとしよう」
「うん」
「俺がわからねえのは、その美人職員の心理だ」
「心理? どういうことよ」
「いや、こう言っちゃなんだけど、お前の親父さん、別にイケてねえじゃん? ぶっちゃけ、どこにでもいる量産型オヤジだ」
「失礼ね。確かにそうだけど」
量産型オヤジ、という言い方に、思わず笑ってしまう。
「だろ? それなのになんだってその美人職員は、親父さんなんかになびいたんだ?」
「なんか、とか言うなバカ」
遠慮のない言い方に思わず言ったが、考えてみれば永遠の言う通りだった。
整髪料で撫で付けた髪、特徴の無い顔、確かに父は「どこにでもいる量産型オヤジ」だ。あれだけ美人の瀬能が父に惹かれる理由などない気がした。
大手企業に勤めてはいるが、業界的には地味だし、女性が聞いて憧れを抱くような会社でもない。父側がしつこく口説いたという可能性はあるが、瀬能がそれを受け入れる理由もわからない。
「でも、確かにそうよね。何でなんだろう」
「親父さん、携帯は?」
「何度もかけてるけど、出ない」
腕時計を確認した永遠が、「でも、もう帰ってきてんじゃねえの」と、その液晶を私に見せる。そこには、私から見れば逆になった文字で、1948と書かれてある。
もうすぐ夜の八時。これほど早く帰ってくることはあまりないが、確かに就業時間は過ぎている。
「ここで話してても正解はわかんねえよ。やっぱ本人に聞くしかねえんじゃねえの」
確かにその通りだった。いくら考えても、憶測でしかない。だが、父と対峙して、自分が冷静でいられる自信がなかった。それに、仮に父が全てを告白する気になったとして、それを聞く覚悟が私にあるのだろうか。
「まあとにかく、これ飲み終わったら行ってみようぜ」
「え? あんたも来てくれるの?」
「こんな中途半端なとこで降りられねえだろ」
そう言って永遠は、スプーンに盛ったアイスを口に入れ、うまそうに目を閉じた。
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