違和感

 不安な気分のまま、クラブハウスに行って鍵を借りる。


 あれから何度か掛けなおしてみたが、父が電話に出ることはなかった。恐らく出勤するために家を出たのだろうが、それにしてもやはりおかしい。


 泊まり込んでまで頑張ったのに、会議はうまくいかなかった。このことが、父の仕事にどう影響をおよぼすのか具体的にはわからない。だが、あの落胆ぶり、そして混乱ぶりを考えれば、かなりの大事なのだろう。


 だが、だとしても、先ほどの父は異常ではなかったか。


 PCルームで授業の準備を始める。だが、父のことが気になって身が入らない。


 それでも授業の開始時間はやってくる。窓がノックされ、そこに磯野の顔を認めると、私は無理矢理テンションを高めながら立ち上がった。


 ドアを開けると、どこかいつもよりも緊張した面持ちの磯野の顔が見えた。


 その隣には、磯野に腕を支えられるように、砂山が立っている。他の四名はその後ろに並んで控えている。


「あっ、砂山さん」


 思わず言った。昨日の授業で砂山はパニックを起こし、職員に連れられていった。その時の様子が思い出されたが、恐ろしいという感覚はなかった。また昨日のように暴れだしたらどうしよう、とは思わない。そんなことよりも、また来てくれて嬉しいという感覚があった。私は靴をつっかけると、慌てて砂山に駆け寄った。


「砂山さん、来てくれたのね」


 そう笑顔で声をかけたが、昨日のことを気にしているのか、砂山はバツが悪そうに視線をそらし、うつむいた。


 私は迷った。こういう時は、どうすればいいのだろう。講師として、先生として、どんな態度で、どんな言葉をかけてあげればいいのだろう。


 私が黙っていると、磯野が砂山の耳元に顔を近づけ、ぼそぼそと何かを言った。


 砂山は一瞬、嫌な顔をした。眉間にシワがより、それから苛立ったように頬をばりばりと引っ掻く。


 そして、逸していた視線を再び私に向けると、大声で言った。


「先生、すみあせん」


「……え?」


 思わず聞き返す。すると磯野が、ほらもう一度、というように砂山の肩を叩く。


「先生、すみあせん。先生、すみあせん。先生、すみあせん」


 砂山は繰り返した。


 呆気にとられていると、「ね、戸田先生、砂山さんも反省してますから」と、磯野がやはり緊張した面持ちで言う。


「ちょ、ちょっと待ってください。何か勘違いされています。私はそんな──」


「砂山さん、今日からまた頑張ると言ってます。ですから何とか、チャンスをあげていただきたくて」


 磯野は何を言っているのだろう。私は慌てて、「もちろんです」と答える。


「チャンスも何も、私はこのメンバーで頑張っていくつもりですよ。砂山さんも、大切な生徒の一人です」


 やっと伝わったのか、磯野の顔がほっと緩んだ。そういえば前も、数分の遅刻を何度も謝られたことがあった。あの時も、何度も説明してやっと納得してもらえたのだった。


 私の戸惑いをよそに、磯野は嬉しそうに顔をほころばせ、「よかった。なあ、砂山さん」と肩を叩く。砂山もいつの間にか照れたように笑いを浮かべている。


 そして私は聞いた。


 安心した様子の磯野が、再び砂山の耳元に口を近づけて言った。


 先ほどより音量が大きく、私の耳にも微かに聞こえた。


 ──指導申請は、なしだ。


 磯野は笑顔でそう言ったのだった。





 正午までに授業の振り返りを終えた私は、パソコンをスリープモードにし、クーラーを切って外に出た。


 あの後、皆の様子におかしなところはなかった。


 授業はいつも通り進められ、砂山や徳武を含め、皆が課題に集中しているように見えた。今までの授業の中でも、最も良い雰囲気だったと言ってもいい。私のモチベーションも上がり、熱が入った。


 PCルームを施錠して、バッグ片手に坂を降りていく。


 授業前の出来事に対する違和感は残っていた。だが、一人で考えていても仕方がない。それよりも、やはり父のことが気になった。


 電話口で父は突然、私を罵倒した。父をあれほど感情的にしたものは何なのか。


 私はバッグの中から携帯電話を取り出した。電話で話してから既に五時間近く経っている。父は会社にいるはずで、多少は落ち着いているのではないかと考えたからだ。


 だが、携帯電話はやはり使い物にならなそうだった。画面左上には「圏外」の文字がはっきり表示されている。後でまた固定電話を借りて、会社に電話してみようかと考える。


 そうこうしている間に住居棟に到着した。落ち着かない気分で食堂に入り、配膳に並ぶ列を見ると、ちょうど最後尾につこうとしている母の姿が目に飛び込んできた。


 あのウッドデッキでの食事以来、初めて見る母だった。


 私の知らない女性利用者と一緒で、二人は自然な様子で言葉を交わし、母の顔には笑顔も見えた。その様子に思わず駆け寄りそうになり、ふと足を止める。


 母は私に話しかけられて、喜ぶだろうか。話しかけたところで、嫌がられるだけかもしれない。実家で辛く当たられていた日々が頭をよぎる。


 私と母、お互いのために、このままやり過ごしたほうがいいのかもしれない。


 だが、その時私の頭の中で、ある記憶が点滅した。


 思い出したのは、吉田のことだ。母が所属している紙すき班、そして同じく紙すき班にいるらしい吉田が、先日の授業後に、私に対して奇妙なことを言った。


 先ほど磯野が砂山に告げたのと同じ言葉が、吉田の話の中にもあった。そして、そうだ、あのとき磯野は、その「指導申請」という言葉に妙な反応を示したのではなかったか。


 気付いたときには足が出ていた。私は列の最後尾に近づくと、後ろから声をかけた。


「母さん」


 母は振り向いて、それが私だとわかると、一瞬驚いた顔をした後、露骨に迷惑そうな表情になった。暗澹たる気分になるが、何気ない風を装って聞いた。


「母さん、紙すき班なんだよね。同じ作業所に、吉田さんっていう人がいるでしょ?」


 母は微かに上向いて考える素振りをしたが、やがて首を振った。


「……さあ、わからないね。一人ひとりの名前まではまだ覚えていないんだ」


 確かにそうかもしれない。それに、吉田は明らかにおとなしいタイプだ。吉田の方は母を認識していても、まだ日の浅い母はそうでないのかもしれない。


「もう、いいかい」


 母に言われて、「ああ、うん」と答えてしまう。


 母は一瞬私を睨むような様子すら見せながら、拒絶するように前を向いてしまった。


 

 午後は昨日に引き続き商品カタログのデザイン業務を行い、オウルを出た。


 帰りの電車では、父のことや吉田のこと、そして母のことなど、様々な不安が浮かび、それは駅から家に歩いて向かう間もずっと消えなかった。


 玄関を開け、汗ばむシャツを脱ぎながらリビングに入り、なにか飲もうと冷蔵庫へと向かう。


 その時、視界の端に何かが映って、私は足を止めた。


 それは空き缶だった。キッチンのシンクの中に五、六本の酒の空き缶が固めて置いてある。


 そうだった、と思い出す。


 昨日ここに父の会社の人間が来ていたのだ。この缶ビールやチューハイの空き缶は、会議の後に皆で飲んだものだろう。何人いたのかは知らないが、どんちゃん騒ぎをしたという量ではない。


 私は振り返ってあらためてリビングの中を見渡した。この何でもない空き缶に違和感を覚えるということは、逆に言えば、これ以外には普段の家との違いを感じなかったということだ。


 何かが増えても減ってもなく、移動されてもおらず、あるいは何かのにおいがすることもない。一応父は、ちゃんとをしてから出ていったらしい。


 だが、そうなると余計に今朝の電話が奇妙に思えた。なぜ部屋の片付けまできちんとできる人が、あんな感情的な態度になるのか。


 考えても答えは出ない。それ以上に、身体が怠かった。考えてみれば、体調がよくない中たくさん酒を飲み、オウルのゲストルームに泊まったのだ。小駒にしろ職員たちにしろ何の不満もない対応をしてくれたが、慣れない場所で一晩過ごして疲れないはずもない。


 とりあえず熱い風呂にでも入り、ゆっくり休もう。そう考えながら浴室に行き、シャワーで浴槽をさっと流すと、いつもよりも二度ほど温度を上げて湯張りボタンを押した。


 湯が溜まるまで横になっていよう、と脱衣所を通り過ぎる時、なんとなく立ち止まり、鏡を見た。


「ひどい顔……」


 自分が思っている以上に具合が悪そうだった。顔色は悪く、全体的にくすんでいる。それに、眠りが浅かったのだろうか、目の下にはくっきりとクマが浮いていた。もっとよく見ようと顔を鏡に近づけた時──映り込んでいる背後の空間に、私は奇妙なものを発見した。


 ゆっくり振り返って、タオルや下着が収納されている棚を見た。その天板に、見慣れぬポーチが置かれているのだった。


 黄色の柄がうるさい、幅十五センチほどの化粧ポーチ。


「何……これ……」


 私のものではない。もちろん、父のものでもないだろう。


 すぐ思い浮かんだのは、昨日の会議のメンバーに女性がおり、化粧直しのためにここに来て、忘れていったのではないかということだ。あり得ない話ではない。考えてみれば、シンクに置かれていた空き缶の中には、女性が好みそうなチューハイもあったような気がする。


 そうだ、そうに違いない。納得しかけた時、私は他でもない私自身の記憶によって、その考えを否定することになった。


 私は──そのポーチを知っていた。以前、この目で見たことがある。


 そう、あれは──オウルに初めて行ったときのことだ。


 間違いなかった。このポーチはあの日、クラブハウスの化粧室から出てきた瀬能が持っていたものだ。


 印象的なシーンだったからはっきり覚えている。私と小駒を見てなぜか異様に驚いた表情を浮かべた瀬能の手に、この黄色いポーチがあった。


「なんで……」


 私は混乱した。なぜオウルで見たポーチがこの家にあるのか。この個性的な柄のポーチをたまたま父の同僚が持っていた、とでもいうのか。可能性はゼロではないが、そんな偶然があるだろうか。


 今朝ロッジで受けた電話が頭に浮かんだ。父は明らかに様子がおかしかった。


 まさか、と思う。


 まさか昨日、ここに来たのは会社の同僚ではなく、瀬能だったのか?


「どうして──」


 思わず声が漏れた。父はここで会社の人間と会議をしていたはずだ。なぜ瀬能がここに来る? 瀬能はオウルの人間で、父の会社とはまったく関係がない。


 混乱の一方で、ある情景が頭に浮かんだ。体験入所のために、小駒たちがここまで母を迎えに来た時のことだ。あの時、メンバーの中に瀬能もいた。愛想よく対応する瀬能に、父が鼻の下を伸ばしていたのを憶えている。


 いや、しかし、父と瀬能に面識があるからと言って、それが何だというのか。そもそも昨日ここで行われたのは、父の会社の会議だ。オウルには何の関係もないのだ。


 だが私の頭は、既に父と瀬能が裸で絡み合うイメージを作り始めている。


「何……何なのよ……」


 吐き気を覚えつつ、ポーチを見下ろす。中身を確かめれば何かがわかるのかもしれないが、こんなものに触れたくもない。私は倒れ込むように脱衣所から出ると、リビングに戻ってバッグの中から携帯電話を取り出した。ボタンを操作し、躊躇なく父にかける。


 だが、父は出なかった。呼び出し音が十数回鳴った後、ブツッブツッというノイズを挟んで、留守電に切り替わる。


 その平坦な電子音声を聞いて、私の感情は爆発した。


「もう、何なのよ!」


 一瞬、オウルに連絡することを考えた。だが、何をどう伝えればいいというのか。まさか瀬能本人に話を聞くわけにもいかない。かといって、こんな話は小駒にはしたくなかった。


「何よ……何よもう」


 すがるような気持ちで画面を切り替え、連絡帳を上から順に見ていった。そこに「葛城永遠」という文字を見つけた私は、ほとんど無意識に発信ボタンを押していた。

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