予兆
次の日の朝、私は住居棟の職員フロアにあるゲストルームで目を覚ました。
小駒が言っていたように、住み込みで働いている職員も多いからか、部屋には化粧品や洗顔、クシ、ヘアバンド、そして寝間着まで、ホテル並みのアメニティが揃っていた。
部屋に風呂はないが、フロア内に職員用の共有バスルームが男女別に用意されていて、シャワーも使える。
昨日、ロッジでの食事を終えた後、小駒に送ってもらってここに来た。寝間着に着替え、小駒が引き継いでくれた女性社員の案内でシャワーも浴びたのだったが、かなり酔っていたのだろう、細かな記憶は曖昧だ。
小駒さんに何か失礼なことをしていなかっただろうか、と考える。
必死に記憶を手繰り寄せるが、浮かんできたのは私に微笑みかける小駒の顔ばかりだった。心配な気持ちはすぐに消え、少女漫画のようにピンク色に霞んだその記憶がぐるぐると繰り返し現れる。このまま想像していたら、頭の中で小駒といやらしいことまで始めてしまいそうだった。
「もう、しっかりしてよ」
敢えて口に出して言い、ベッドを出た。洗面所で簡単に顔を洗い、ゴムを髪を後ろでひとつにまとめる。
のぼせている場合ではない。私はここの職員で、今日もここで働くのだ。
置かれていた化粧品で簡単にメイクを済ませると、寝間着を脱ぎ、昨日と同じ服を着る。シャツやズボンはまだしも、この真夏に一日使った下着や靴下をもう一度身につけるのはいい気分ではない。こうなることが昨日にわかっていたら、と意味のないことを考える。
出勤準備はすぐに整ったが、時計を見ると、仕事の時間までまだ三時間近くあった。
慣れない住居棟内をうろうろする気にもならず、私は結局またベッドに戻り、正面の壁にかけられた時計をぼんやり見つめる。
普段の私なら、まだ準備をしている時間だ。そして家を出て、駅から電車に乗って、大同駅まで誰かに迎えに来てもらって、そしてここに到着する。そして仕事が終われば、行きと逆の道筋を辿って家に帰るのだ。
考えてみれば、毎回二時間以上を移動に使っているわけだ。
ここに住んでしまえば──ふとそんなことを考える。
そうすれば、夏の日差しに焼かれながらアスファルトの道を歩かなくてもすむ。景色はきれいだが退屈な田舎電車にも乗らなくてもすむ。メイク道具や着替えなども、部屋に置いておけばいいのだ。何より、と私は時計から窓の方に視線を移動させる。
何より、私が実家に戻った最大の理由である母は、既にあそこにはいないのだ。
そして私は今更のように、母のことを考える。体験入所から一度も戻らず、その足でオウルの入所者となった。そういえば、ロッジのウッドデッキで小駒と共に食事したとき以来、私は母に会っていない。施設に指示されたとおりに母の荷物を郵送で送っただけだ。
母に何かあれば、私の耳にもすぐに入るだろう。それがないということは、きっとうまくいっているのだ。そう考え、母の様子を見に行こうともしなかった。いや、私は母のことを忘れていたのだ。母のことはオウルに任せ、自分のことを考えたかったのだ。
思わずため息が漏れた。
そういえば、自宅で行われた父の会議はどうなったのだろう。泊りがけの会議と言っていたが、うまくいったのだろうか。
父が家を出る前に一度連絡しておこうか、とバッグから携帯電話を取り出した。
「あっ、そうか」
思わず声が漏れた。画面の左上には、容赦のない「圏外」の文字が表示されている。
ゲストルームを出て、どこかで電話を借りようと辺りをウロウロしていると、職員フロアの共有スペースらしき所を通りがかった。開けた場所の一角にパズル型のマットが敷かれ、その上に大きなテレビとテーブル、それを囲むようにソファが置かれている。休憩中なのか、あるいは勤務時間前なのか、そこでオウルくんTシャツを着た数名の職員が談笑している。
その横を通り過ぎようとすると、「あれえ、先生?」と聞き覚えのある声がした。
見れば、片手にスナック菓子の袋を持った勇太だった。
「どうしたの、こんな朝早くに」
まだ面識のない人が多い中、知った顔の登場に、自分がほっとしたのがわかる。
「ああ……ええと、事情があって昨日は泊まらせてもらったの」
「へえ? あ、わかった。小駒さんに夜中まで残業させられてたんでしょ」
勇太はそう言ってケタケタと笑う。
「もう、そんなわけないじゃない。あ、そうだ。どこかで電話借りられないかな」
「電話?」
「うん、ちょっと家にかけたいんだけど、携帯使えないからさ」
「ああ、はいはい。着いてきて」
勇太は訳知り顔で立ち上がると、スナック菓子の袋を同僚に渡し、歩き始める。
案内されたのは、同じフロアにあった給湯室の脇、使われていない事務室のような所だった。扉を開けると、確かに固定電話が置かれている。
「じゃ、俺さっきんとこ戻ってるからさ、何かあったら言って」
勇太はそう言って外に出て、扉を締めた。
すりガラスの向こうを勇太が手を振りながら過ぎていく。チャラそうに見えて、意外とちゃんとしているのかもしれない。そんなことを考えながら、私はロッジにもあった懐かしい黒電話で自宅の番号をダイヤルする。
十回ほど呼び出し音が鳴ったところでやっと、「はい……戸田です」と父の掠れた声が聞こえた。
私だと言うと「ああ」とため息に似た返事を漏らす。疲れていることがよくわかる声だった。
「おはよう。会議、どうだった?」
「ああ……終わったよ」
それはそうだろうと思う。だが、その声色からすると、ほんの少し前まで話し合っていたのかもしれない。何か重要な会議だと言っていた。まさか一睡もしていないのだろうか。
「会社の人たちは、もう帰ったの?」
「……ああ。俺も今から出るところだ」
私は携帯電話を開いて時間を確認する。朝七時半過ぎ。父は通常通り出勤するようだ。
「大丈夫? 疲れてるみたいだけど」
私は言ったが、父は答えなかった。疲労のせいだろうか、さっきから反応が乏しく、様子がおかしい。それとも会議がうまくいかず落ち込んでいるのか。
「ねえ、聞いてる? 何かおかしいよ、大丈夫なの?」
心配になって言うと、電話口から小さく「うるさい」と聞こえた。
「……え?」
聞き返した直後、父はううう、と呻き声のようなものをあげた。それから荒い息継ぎ。
「ちょ、ちょっと、父さん?」
また呻き声。何かを呟く音。何を言っているのかまではわからない。
「ねえ、父さ──」
言いかけた時、「うるさい! 黙れ!」と突然父は叫んだ。
「どうしてお前は黙っていられないんだ! いちいち文句を言いやがって──」
大声でまくし立てる父に、息を呑む。突然どうしたというのだ。混乱して言葉が継げない。確かに父はどちらかといえば短気な人だが、こんな風に声を荒げるようなことはなかった。
「な、何……何なの、どうしてそんな──」
受話器からはまた、父の荒い息が聞こえてくる。カチカチカチ……という歯のぶつかるような細かなノイズ。
私は怖くなってきて、「やめてよ」と言った。この電話が繋がっているのは自宅の固定電話だ。つまり父は間違いなく自宅にいる。電話の置かれたリビング入り口の脇、父はそこで、一体どんな状況にあるのか。
「ちょっと……落ち着いて。ね、文句なんて言わないから」
私が言うと、十秒近い沈黙を挟んで、父は小さく「ああ……すまん」と答える。
「ね、何があったの。教えて」
できるだけ落ち着いた優しい口調で言う。
「何でもない……会議がうまくいかなかっただけだ」
先ほどまでのような感情的な声ではなかった。打ちひしがれたような、苦痛に満ちた掠れ声だった。やはりそういうことなのか。泊まり込んでやるほどの大事な会議が、うまくまとまらなかった。仕事命の父にとって、それは私が考えるよりずっと重大なことなのかもしれない。
「そっか……残念だったね」
それ以外に何と言っていいかわからず、黙った。やがて父が言った。
「大丈夫だ。だからもう……放っておいてくれ」
「父さ──」
呼びかけた時、ブツっという音がして電話は切れた。
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