初めての夜
父との電話を切った後、せっかく施設にいることになったので、私は小駒に打ち合わせの続きをお願いした。
デザインサンプルが出てきたことで、小駒のイメージもより明確になったようだ。一時間近く具体的な要望や修正点などを話し合った上、小駒から商品や施設の写真素材が入ったCDを受け取った。
「かなり古いので、あまり使えるものはないかもしれませんが」
小駒はそう言って苦笑いを浮かべたが、写真素材が手元にあるとないとでは大違いだ。一旦こちらの画像をサンプルに当て込んでみる、必要ならカメラマンを呼んで再撮影しようという話をし、もう少し作業させてもらう許可を得、ロッジを後にする。
クラブハウスに戻って鍵を借り、PCルームに戻った。
小駒から受け取ったCDを読み込むと、なるほどかなり古くに撮影されたらしき写真データが入っていた。解像度も低く、画像サイズもかなり小さい。
だが、レタッチソフトを使って色合いを調整すれば、ある程度はこれらを活かすこともできるかもしれない。
デザインサンプルに小駒がいい反応を示してくれたことが、私の気分を上向けていた。思わず持ち上がる口角を意識しながら先ほど作ったレイアウトに、読み込んだ写真を仮で配置していく。
体調不良もどこ吹く風で、私は作業に没頭した。画面には、よりカタログらしいデザインができていった。
夢中になっていたのだろう、気づくと外は暗くなり始めていた。時計を見ると、作業開始から既に二時間以上が経っている。
そういえば、夕食は何時からなのだろう、と今更のように思った。恐らく昼食同様に住居棟の食堂で食べるのだろうが、時間は決まっているのだろうか。いつも三時過ぎにはここを出てしまう私にとって、夜のオウルは未知の世界だった。
とにかく一度作業を中断して、住居棟に行ってみよう。そう思って準備していた時、日が落ちかけ薄暗くなっていた窓の外に、急に人影がすっと現れた。
幽霊でも出たのかと私は驚き、思わず後ずさった。影は窓に近づき、顔をガラスに押し付けるようにして中を覗き込んだ。
オウルくんTシャツを着た中年の男──本島だった。
本島は無表情で私を見ている。一体何だというのか。そのまま数秒、私と本島は見つめ合った。彼は少し変わっている、そう言った小駒の言葉が蘇る。
私が窓に近づくと、本島はやっと顔を離した。不気味に思いつつガラス戸を開ける。
「……あの、何か?」
中からは見えなかったが、本島は左手に何かを持っていた。中華料理屋とか蕎麦屋とかが出前で使う、金属製のおかもちのようなもの。
「ロッジに来てください。そこで夕食をと、小駒さんが」
「……え?」
早口で抑揚のない、独特の話し方。思わず聞き返すと、本島は微かに苛立ったような表情を浮かべ、繰り返した。
「ロッジに来てください。そこで夕食をと、小駒さんが」
そして素早く振り返ると、滑るように坂を降りていってしまった。
◆
「ああ、そうですよね。また怖がらせてしまったな」
ロッジに戻り、急に現れた本島を一瞬幽霊かと思った、という話をすると、小駒は笑ってそう言った。
キッチンに沿うようにして置かれたダイニングテーブルには、夕食が既に並べられていた。あのおかもちで本島が運んできたらしい。
本島がPCルームを去った後、私は急いで片付けを行い、このロッジに向かった。そのほんの五分ほどの間に、本島はここに来て料理を並べ、出ていったらしい。
「小駒さんも仰っていましたけど、本島さん、少し独特なので……」
わかります、というように小駒は含み笑いをし、私を椅子に座らせた。
「とは言え、私は彼を信頼しているんです。慣れないとちょっととっつきにくいのは確かなんですが、ああ見えてこの施設にはなくてはならない人なんです」
自分は座らずキッチンに向かいながら小駒が言う。私はそれに頷きつつ、確かに小駒は伝言や送迎を本島に頼むことが多いな、と思う。信頼しているというのは本当なのだろう。
「ああ、そういえば戸田さん、お酒は?」
「え? お酒ですか」
一瞬意味がわからず聞き返す。小駒はキッチン脇にある冷蔵庫の前でしゃがみ込むと、扉を開けた。
「もしお嫌いじゃなければ、どうですか。ワインとか焼酎とか、いろいろあるのですが」
小駒の背中越しに中を伺うと、お酒の缶や瓶が大量に入っているのが見えた。
今更のように、そうかここは事務所兼住居なのだと思い出す。小駒はここに暮らしているのだ。業務後にお酒を飲むことがあっても何もおかしくはない。
だが、小駒が酒を嗜むというのは、少し意外だった。なんとなくそういったものとは距離を置いている気がしていたのだ。
だがそれは、私にとっては嬉しい誤算だった。小駒の真面目さやまっすぐさは大きな魅力だが、あまりに堅苦しいと一緒にいて疲れてしまう。私もアルコールは嫌いではないし、小駒と一緒にそれが楽しめるのなら、尚いいではないか。
「あ、じゃあ、ちょっとだけいただきます」
私が言うと小駒は嬉しそうに頷き、ワインでいいですか? と赤ワインのボトルを取り出した。私が頷くと、オープナーで手早くコルクを引き抜き、ワイングラス二つと共に戻ってくる。
「もしかして、意外でしたか?」
小駒がいたずらっぽい表情で言い、「あ、はい、少し」と素直に答える。
「確かにもともとは、あんまり飲むタイプじゃなかったんです。でも、オウルに入ってここで暮らすようになってから、習慣になっちゃいまして」
そう言って小駒は椅子に座り、グラスにワインを注いでくれる。
「じゃあ、乾杯」
小駒の言葉の意味を考えつつ、私も「乾杯」と言ってグラスをチン、と触れ合わせる。そういえば風邪気味だったんだっけと思ったが、わたしは迷わずグラスを傾けた。
冷たく甘い液体が喉を滑り落ちていき、ふっと身体の緊張がほぐれる。小駒は目を閉じ、じっくり味わうように飲み込んだ後、視線を窓の外に向けた。私もなんとなくそれを追う。四角く切り取られた窓にカーテンはなく、既に日は落ちきり、完全な夜になっているのがわかる。
「ご覧の通り、ここは深い山の中です。携帯電話もほとんど通じないし、近くに繁華街があるわけでもない。ここにいると、夜はお酒を飲む以外にやることがないんですよ」
「ああ」
そういうことか、と思う。確かにそれはそうかもしれない。
「だからここで働く人間は、自然とお酒が好きになります。職員たちも、もちろん夜勤の人間は働いてますけどね、昼勤の人は勤務後、毎日のように飲んでますね。共有スペースで飲んだり、自分の部屋で飲んだり、あとはここもね、時々飲み会の会場になったりして」
だから冷蔵庫にも、あんなにたくさん用意されているのか。安心と納得が同時に感じられる。それに、施設内での飲酒と聞くとなんとなく不謹慎な気もしてしまうが、オウルは施設であると同時に住居でもある、と考えれば印象も違ってくる。
「そうなんですね。いつか私も参加してみたいです」
私が言うと、もちろん大歓迎です、と微笑み、私に食事を勧めた。
住居棟の食堂でも同じものが出ているのだろう、料理はやはり素朴な煮物やスープなどで、オシャレなレストランのような雰囲気ではない。
だが私は満足だった。小駒とこうして向き合って、二人きりで食事しているのが嬉しかった。
ちょっとだけ、と言ったくせに、私は小駒に勧められるまま、何杯もワインをお代わりした。酔いのせいか、あるいは風邪気味のせいか、だんだんと頭がぼんやりとしてきて、向かい側で穏やかに微笑みかけてくる小駒が、魅力的でたまらない。手を伸ばせば届く距離に小駒はいて、そして私に笑いかけ、見つめているのだ。
あの時、私に対するまっすぐな欲望を燃やしていた、その目で。
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