癇癪

 クラブハウスにも小駒の姿はなく、私は残念に思いながら鍵を借り、一人でPCルームへと向かった。


 クーラーをつけ、端末の電源をつけていく。やがて磯野が到着し、私は外に迎えに出た。そこには五名の生徒が並んでいたが、磯野の様子がおかしい。


「どうかされました?」


 磯野は曖昧に頷いて、「とりあえず、皆を先に入れちゃいましょう」と、生徒たちを室内に誘導する。彼らをそれぞれの席に座らせて戻ってくると、私をプレハブから少し離れた場所に連れていき、「実は──」と話し始める。


「砂山さんなんですが、少し体調が悪いというか……荒れてまして」


「……荒れてる?」


 私はいまPCルームに入っていった砂山を振り返る。


 聞けば、砂山はときどき癇癪かんしゃくを起こすことがあり、昨晩から何度も騒ぎを起こしているという。欠席させようかと思ったが、本人は行く気だし、それを妨げればまた怒り出すということで、連れてきたらしい。


「それで……今日は彼をあまり刺激しないでいただきたくて」


 磯野は困った顔をして言う。刺激しないようにと言われても、どうすればいいのかよくわからない。


「普通に授業をしてくれればいいですから」


 磯野は頭を下げながらそう言って、先にPCルームへと入ってしまった。



 結局私が行なったのは、砂山のことを半ば無視するような対応だった。授業が始まってから、いつものように私が各人の席を回って課題を与えていくのだが、刺激するなと言われた砂山に対しては、必要最低限のことしか言わないようにした。


 だが、砂山はそれが気に入らなかったらしい。


 事件は突然起きた。


 徳武の席で操作を説明している時に、砂山はいきなり自ら椅子から転げ落ち、プレハブの内壁に自分の頭を激しくぶつけながら頭痛のするような奇声を上げたのだ。


 驚きのあまり硬直する私をよそに、磯野が素早く立ち上がって砂山に駆け寄り、背中から被さるようにして身体を押さえつけると、片手で腰のトランシーバーを引き抜き、どこかに連絡をした。


「先生、ドア開けておいて下さい」


「え? あ、はい」


 磯野に言われるがまま引き戸を開けると、まもなく坂の下から三名の男性職員が駆け上がってくるのが見えた。


 あっという間にPCルームに到着した職員たちは、手慣れた様子で砂山を拘束し、抱えるようにして部屋を出ていく。


「先生、ちょっと私も行ってきます。すぐに戻りますから」


 磯野が言い残し、獣のような叫び声を上げ続ける砂山を連れてあっという間に坂を降りていった。


 オウルに来て初めて目の当たりにする出来事に私は呆然としていたが、「先生、授業」とマッシュルームカットの羽原に言われ我に返った。


 慣れているのだろうか、他の生徒達に大きな動揺は見られなかったが、私は動悸がしたままで、脇の下を嫌な汗が何度も流れ落ちた。


 いつもは元気な徳武も、相棒がいなくなって寂しいのかおとなしく、なんとなく調子が戻らないまま授業は終了した。



 授業後、重苦しい疲労を感じながらレポートをつけ、しばらく放心した。


 終わり際に戻ってきた磯野が「よくあることですから、気にしないでください」と慰めを言ってくれたが、そう簡単に割り切れるものでもない。


 普段は「愛らしい」と言っても差し支えない砂山が、目の前で豹変した。


 もしあの場に磯野がいなかったら、と考えて怖くなる。


 気付くと正午を過ぎていた。体が怠い。ため息をつき、額に手を当ててみる。朝よりも少し熱い気がする。昼食をしっかり食べて、持ってきた解熱剤を再度飲もう、そう思いながらカバンの中のピルケースを確認し、「よし」と気合を入れて外に出た。



 坂を降り、作業所群を抜けると、既に住居棟へと向かう利用者の列ができていた。集団で移動しているからか皆の歩みは遅く、その最後尾にすぐに追いついてしまう。


「先生」


 列に加わってしばらくすると、少し前を歩いていた吉田がこちらに気付き、近づいてきた。五人の中でも特に覚えが早く、精神障害を持っているということもほとんど感じさせない、目立たないが優秀な生徒だった。風貌についても、二十六歳にしては白髪が多く、多少暗い印象を受けるものの、ごく普通の青年という雰囲気だ。


「ああ、吉田さん。どうしたの、何か質問?」


 身体は辛かったが、無口な吉田の方から声をかけてくれたのが嬉しくて、笑顔で応えた。吉田の方はいつもの暗い表情を崩さず、妙なことを言った。


「あの……先生のお母さんに、指導申請したいんですけど」


「え? 何?」


 意味がわからず聞き返すと、吉田は神経質そうに唇を舐め、周囲を気にするような素振りをしながら続ける。


「先生のお母さんです。こないだ入所して、紙すき班に入ったでしょ」


 吉田は母のことを言っているらしい。確かに小駒から何度か、母は紙すきの作業を担当していると聞いていた。だが、吉田が何を言いたいのかはよくわからない。


「え……ああ、そうみたい。でも、それが何か?」


 戸惑いつつ答えると、吉田の顔に苛立ちの色が見え始めた。


「だから……今日はパソコンの授業に出てましたけど、普段は僕も紙すき班なんです」


 なるほど、と思う。生徒たちも授業以外の時間は何らかの作業を行っているのだ。そして吉田は母と同じ紙すき班なのだろう。


「そっか、吉田さんも母と同じ作業をしているのね。それで、うちの母がどうかした?」


「主任から特別扱いされてて、やり方を変えようとしてる。そういうの、やめて欲しい」


 よくわからないながらも、吉田が同じ班に配属された私の母のやり方に、何らかの不満を持っているらしいことは理解できた。


 だが、そう言われても、作業に関わりのない私に何ができるというのか。あるいは母に直接注意してくれということなのだろうか。


「吉田さん、ごめんね。私はパソコン教室以外のことはよくわからなくて……それに、さっき言ってた申請って何のこと? 指導申請って言ってたっけ」


 そう言うと吉田の顔から苛立ちがすっと消え、代わりに困惑の表情が浮かんだ。


「え……先生は職員じゃないんですか? さっきの砂夫の件も本島さんに──」


 今度はこちらが困惑する番だった。なぜ母親の話から、砂山や本島の名が出てくるのか。


「ちょ、ちょっと待って。あなた、一体何の話をしているの?」


 その時、「どうしたの、吉田くん」と後ろから声がかけられた。


 振り返ると、磯野が息を荒くしながら駆け寄ってきたところだった。何かトラブルだと思ったらしい。


 吉田はしかし、「何でもありません」と小さく呟くと、私と磯野をその場に残し、前の利用者たちを押しのけるようにして、住居棟の方に向かっていってしまった。


「大丈夫ですか、先生」


 吉田の背中が遠ざかっていくのを見ながら、磯野が言った。


「え、ええ……大丈夫です」


「そうですか。よかった」


 磯野がほっとしたように言う。最初こそどこか頼りないと思っていたが、先ほどの砂山の件での動きを見ても、やはり障害者の支援員として優秀な人なのだろう。その顔を見て安心している自分がいる。


「吉田さんが何か伝えたかったみたいなんですが、私、理解してあげられなくて」


「ああ……彼はちょっと表現が独特ですからね。何と言っていたんです?」


「よくわからなかったんですが、母の事を言っていました。あの、私の母は先日こちらに入所したんです。それで、母も吉田さんと同じ紙すき班らしくて」


「ああ、確かにそうですよね。なるほど。それで?」


「彼、母のやり方に何か不満があるらしいんです。主任に特別扱いされてて、やり方を変えようとしているとか。で、よくわからなかったんですが、指導申請がどうのって」


 指導申請、という言葉が出た瞬間、磯野の目が見開かれ、動きが止まった。


 何かマズいことを言ったのだろうか。先ほどもそうだった。吉田も、私がその言葉を知らないということに驚いた様子だった。


 磯野はゆっくりと視線を外し、「そうか、先生はまだ──」と独り言のように言った。


「何なんです? その指導申請って」


 私が聞くと、磯野は引きつった苦笑いを浮かべ、早口に説明した。


「指導申請というのは、オウルの制度の一つで、簡単に言えばですが、作業の現場で何か問題やトラブルが起こった時、主任や職員に仲介をお願いすることがあるんです」


 私は首をひねった。作業所で問題が起きた際、主任や職員が対応するのは当然のことではないのか。だがそんな当たり前のことならなぜ、吉田も磯野も妙な反応をするのか。


「まあいずれにせよ、先生が気にされることではありません。吉田くんも、何か勘違いしたんだと思いますよ」


 磯野はそう言って、私の反応を待たずに「じゃあまた」と住居棟の方へと登っていってしまった。

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