疲労

 乗客の少ない電車に揺られながら、窓の外を流れていく風景を眺める。


 大同駅を出発して十五分、既に山深い地域は抜け、窓の外は住宅街に変わっていた。徐々に人工物が増えていく景色に、今日はなぜか安堵を覚える。


 母はオウルで過ごすことを選んだ。


 私や父との暮らしを捨ててでも、そうすることを決めた。


 いや違う、と私は目を閉じる。


 私や父との暮らしこそが、母を追い詰めていたのだ。救急隊の岩井に言われたことを思い出す。何より人を追い詰めるのは──孤独なのだ。


 電車を降りると、JRの駅前へと出る。


 そこには大勢の人がいた。オウルのある山奥とは比べ物にならない多くの人。だが、ただいるだけで、繋がっているわけではない。


 自宅に向かう道を歩きながらあらためて考える。孤独、というのはどういうことだろうか。自宅にいた母は孤独だったのだろうか。そして今は、孤独ではないのだろうか。


 私はどうなのだろう。私は今、孤独ではないのだろうか。




 夜十時半過ぎ、家の外で車の停まる音がした。


 私は自室を出て、階段を下りていく。一階に着く前に玄関が開き、父が入ってきた。


「おかえり」


 声をかけると、父は少し意外そうな顔をして「ああ」と答えた。見れば手には近所の酒屋のビニール袋を持っている。


「話、聞いたか」


 一度私に背を向け、靴を脱ぎながら言う。


「まあね。びっくりしちゃった」


 わざと冗談めかして言った。父は肩越しに振り返り、小さくため息をつくと、「そうだろうな」と疲れた笑みを浮かべた。


 二人でリビングに入る。父はネクタイを外し、ビニールの中から缶ビールとつまみを何点か取り出してダイニングに置く。


「でも、母さんの顔見たら、よかったんだと思った」


「会ったのか、母さんに」


「うん、小駒さんと三人でランチしたのよ。あんな穏やかな母さん、久しぶりに見た」


「ああ、まあな」


 父は疲れの滲んだ表情で頷く。今回の体験入所プログラムに同行したことで、父にも何か心境の変化があったのかもしれない。


 父はぷしゅっと音を立てて缶ビールのプルタブを開けると、ゆっくりと飲んだ。そして大きなため息をつき、ダイニングテーブルに肘をつくと、頭を抱えるようにして、指先でこめかみを揉む。父の体臭が、いつもよりも強かった。土日を慣れない施設で過ごし、そして今日は朝から仕事だったのだ。


 父もまた、今回のことで変わったのだ。そう思った。もしかしたらこれまでの自分の態度を悔やんでいるのかもしれない。


「これでいろんなことがうまくいくわ、きっと」


 父だけでなく、自分に対しても言う気持ちで、つぶやいた。


 父は視線を落としたまま、「だといいがな」と疲れた笑みを浮かべた。





 次の日目が覚めると、身体が怠かった。


 母の入所生活に必要なものを送るようオウルから指示を受けていたので、段ボールに着替えや生活用品をつめ、配送業者に集荷に来てもらった。


 別段大変な作業ではなかったが、それをしただけで私はぐったりとしてしまった。念の為、と体温計で測ってみると、三七度を大きく超えている。


 疲れているのだ、と思う。ただでさえストレスの多い日々だった。それが小駒との出会いをキッカケに、目まぐるしく変化している。新しい職場での仕事、母の自傷、体験入所、そしてそのまま一度も家に戻らないままでの入所。


 状況はよくなっているのだが、その変化の日々に私は疲れているのだ。母が家を出たことで、良くも悪くも張っていた緊張の糸が切れたのかもしれない。


 少し迷ったが、私はカルチャーセンターに電話をし、体調が悪いので休ませてほしいと伝えた。無理をすれば行けただろう。だが、この熱はきっと、体が自分に少し休めと言っているのだ。それに、こんな状態で永遠と顔を合わせたら、また同じようなことになってしまうかもしれない。


 所長は電話口で私をひどく心配し、ゆっくり休むように言ってくれた。


 電話を切った後、冷凍チャーハンを少量温めて食べ、解熱剤を多めに飲んだ。それから自分の部屋に戻って眠った。




 夢を見た。


 小駒がいた。優しい笑顔。


 だが、その笑顔を向ける相手は私ではなく、小駒の隣にいる人間だ。


 誰だろうと思って見ると、それは母だった。二人は顔を近づけて笑い合う。二人に私は見えていないようだった。


 やがて小駒の腕が母の肩に回ったかと思うと、二人の身体が重なり合った。小駒が母の痩せた背中を強く引き寄せる。


 私は叫び、二人を引き離そうと突進する。しかし、幽霊のように実態のない私は二人の体をすり抜けて、反対側の地面に転がってしまう。


 ハッとして振り返った時、小駒の首筋に鼻を埋め、満足そうに目を閉じる母の顔が見えた。


 いや、違った。それは母ではなかった。


 やがて音もなくその目が開き、私を見つめた。


 瀬能だった。昔の芸能人のような、濃い創りの美人。


 その瀬能の唇がゆっくりと開き、蛇のような細長い舌が現れる。そして、汗の光る小駒の首筋をゆっくり舐めあげるように、いやらしく舌先を動かした。




 次の日も、体調はあまり優れなかった。


 薬が効いたのか熱は三六度代まで下がっていたが、身体の怠さは相変わらずだ。あの醜悪な夢の記憶がふとしたときに蘇り、吐き気を覚える。


 オウルの仕事を休むつもりはなかった。体調が悪かろうが、私はオウルに行きたかった。行って、小駒と会いたかった。そして、夢が夢に過ぎないことを確認したかった。


 大同駅に到着すると、ホームを小走りに駆けた。頭がぼんやりして、視界に映る風景が少し遅れて着いてくる。酒に酔っているような感じだった。


 ホームから駅舎に入ると、その出口の部分に、柳の木を背景に立つ黒い影が見えた。その顔は逆光になっていて見えない。小駒がここまで迎えに来てくれたのだと思ったが、なんとなくシルエットが違う。


 ゆっくり近づくと、その直立不動だった影が動き、一歩前に進み出た。その一歩で身体が駅舎の中に入り、まるで鏡の曇りが取れるように顔が見えた。


 それは小駒ではなかった。あの不気味な職員、本島だった。母の体験入所の際、オウルのワンボックスを運転していた男。


 本島は私を認めると、くるりと踵を返し、駅舎を出ていってしまう。慌てて後を追うと、そばにいつものワンボックスが停まっており、本島が助手席のドアを開けていた。


「あの……小駒さんは?」


 車が施設に向かって走り始めると、沈黙が気まずいのもあって聞いた。


 本島は進行方向から全く視線を移動させないまま、「小駒さんが来れないので、私が代わりに来ました」と言う。先日、勇太が言った説明と同じだったが、抑揚のない早口だからか、感情が込もっていない感じがする。先日食堂で会った時も思ったが、この人からは人間らしさをあまり感じられない。


「施設にはいらっしゃるんですか。あの……小駒さんのことですけど」


 小駒にこだわる私に、初めて本島はこちらを見、「いますが、仕事で忙しいです」と、やはり冷たい口調で言った。なんとなく恐ろしくなり、私もそれ以上聞くのをやめた。

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