入所

 生徒たちがPCルームを去り、進捗管理表の記入を行っていると、再度窓がノックされた。見ればそこには小駒が立っていた。慌てて立ち上がりドアを開ける。


「小駒さん、どうされたんですか」


「お昼をご一緒したいなと思いまして」


 嬉しい話だった。私は手早く書類の記入を終えると、小駒と二人でPCルームを出た。


 坂を降り、住居棟のある右手に向かおうとすると、小駒が止めた。


「ああ、今日はそっちじゃなくて」


 そして、正面方を指し示す。その先にはあの、森の中へと続く細い道がある。その先にあるのは、小駒が事務所兼住居として使っているロッジだ。


「食事もあっちに運んでもらっています。実は、お話したいことがありまして」


 なんだろう、と思いつつ、ロッジで小駒と食事をするということに、喜びを覚える。わかりました、と笑みを作って頷いてみせる。


 だが、頷き返す小駒の表情はどこか固い。


 もしかして、話したいことというのは、何か嫌な内容なのだろうか。


「あの……何かあったんですか」


「ああ、すみません。決して悪い話ではないのでご安心を。ただ──」


「ただ?」


「少しばかり驚くと思います。なので、ぜひ落ち着いてお聞きいただきたいなと」


 一体何の話だろう。不安になりつつ二人で細い道を進む。道は右にゆるくカーブしていき、やがてロッジが屋根から徐々に見え始める。壁、窓、玄関──そして視界にウッドデッキが入ったとき、私は思わず足を止めた。


「え……」


 ウッドデッキに置かれたテーブルセット、そのベンチに、一人の女性が座っていた。


 パニックが襲ってくる。なぜここにいるのだ。驚くというより、理解が追いつかない。


 明るい日差しの下、小綺麗な格好をしてそこに座っていたのは──母だった。


 山中のきれいな空気を味わうように、穏やかな表情で空を見上げている。


「どうして……」


「戸田さん、落ち着いて聞いていただきたいのですが」


 小駒も足を止め、言う。


「お母様が、オウルに入所されることになりました」


 自分の目が見開かれたのを感じた。瞬間的に意識がボンヤリして、貧血に似たふらつきを覚える。思わず隣の小駒の腕を掴んだ。


「あっ、大丈夫ですか」


 小駒が私の肩を抱くようにして支えてくれる。


 小駒の体温、微かな汗のにおい。


 こんなときなのに、その意外に筋肉のついた腕や胸に、ときめきを覚える。


「すみません……驚いてしまって」


「ええ、そうでしょう。当然だと思います」


 きちんと説明しますから、と小駒は言い、私をロッジの方に促した。




 ロッジ外のテーブル──これも木で作られたものだ──には、既に食事が用意されていた。住居棟から運んだのだろう、お盆や食器類はいつものものだ。


 私は母と向かい合って座り、そして小駒は母の隣に座った。


 二日ぶりに見た母は、驚くほど自然な表情を浮かべていた。


「別にそんなに驚くことじゃないだろう」


 母はそう言って、箸を手に取り、味噌汁を口に運ぶ。


「でも……体験に来てそのまま入所なんて……」


 当然の疑問を口にすると、小駒が「まあ、戸田さんも食べながら」と手で促してくる。


「はあ」


 仕方なく私も箸を取る。


「確かに珍しいケースではあります。基本的には体験入所後、一旦ご自宅に戻られて、検討の上で結論を出されます」


「そうですよね。それが普通ですよね」


「ええ。でも、以前から何度かお伝えしているように、時間をかけることにメリットはないんです。体験してみてしっくり来たなら、一日でも早くその生活に移行したほうがいいわけで、そういう意味ではとてもよい判断だと思います」


 確かに、その通りなのだろう。だが、別の施設の体験に行くこともできる。いろいろな施設を比較し、その中で一番合っている場所を選べばいいではないか。


 だが、そう考えている自分に矛盾を感じる。


 オウルに定員の空きがあること自体が幸運だったのだ。他の施設は基本的には満員で、体験入所することもできないかもしれない。そう考えれば、これほどスムーズな入所を喜ぶことはあれ、拒絶するのはおかしい。


「母さんは……本当にそれでいいの?」


 そう聞くと、母はキャベツの浅漬けを口に運び、それをゆっくり咀嚼して飲み込んでから、どこか馬鹿にするような言い方で答えた。


「作業もおもしろいし、皆とも仲良くできてる。わかるだろ? 家にいるよりずっと居心地がいいんだよ」


 その躊躇のない言葉に、私は思わずうつむいた。


 悲しみとも怒りともいえない気持ちが襲ってくる。


 一人暮らしの家を引き払い、実家に戻って半年間世話をしてきた。至らない点はあっただろうが、私になりに頑張ってきたのだ。そんな言い方をしなくてもいいではないか。


 小駒が何かを察したように言う。


「戸田さん、これは本当に人によるんです。自宅でじっくり療養するのが合っている方もいれば、外に出て人と関わることで調子が良くなる方もいる。お母様の場合、これは私だけでなく体験プログラムを担当した職員の意見でもありますが、明らかに後者のタイプです。実際、こちらで過ごすようになって、表情や雰囲気が変わったと思いませんか?」


 私は顔を上げ、鶏肉のソテーを美味しそうに頬張る母を見る。


 確かに、小駒の言う通りだった。私が作った、もとい、レンジでチンした冷凍食品を、こんな風に美味しそうに食べてくれたことなどなかった。


「それは……確かに、そう感じます」


 私が認めると、小駒は嬉しそうに微笑んだ。


「ええ、それに、今回はタイミングがよかった。何しろ、入所を希望されても何ヶ月、何年とお待ちいただかないといけないケースがほとんどなんです。そういう意味では、まあ私が言うのもあれなんですが、ものすごくラッキーなことなんですよ」


 そう。やはりそうなのだ。さらに、と小駒は続ける。


「さらに幸運だったのが、オウルが作業重視型の施設だったという点です。お母様はもともと働くことが好きな方ですよね。その点でもマッチしている」


 確かにそれもその通りだ。交通事故前の母は、ホームセンターでの仕事が生活の軸になっているような人だったのだ。そこを起点に人間関係も作られていた。


「先日もお伝えしましたが、紙すきの作業の際には、早々に手順をマスターして、他の利用者さんの指導までしてくれています。このままいけば、早々に主任のポジションをお任せすることになりそうです」


 主任──確か、各作業所に配置されたリーダー的な立場の利用者のことだ。オウルの職員は、必要最低限のことしか手を出さないと言っていた。できるだけ利用者本人に任せ、その中で全体を仕切るのが主任なのだ。


 すると母がふふっと笑い、小駒に話しかける。


「私なんてまだ無理ですよ」


「そんなことはありません。期待していますよ」


 小駒と母が会話するのを、私はどこかぼんやりしながら見ていた。どういう理由か、母は小駒を大変気に入っているようだ。私や父に対する態度とは明らかに違う。


 そして私は今更のように、母が顔の傷を全く隠していないことに気付いた。


 頬に刻まれた大きな傷。一生消えない傷。これを晒すのが嫌で、母は家に閉じこもっていたのだ。


 その母が、傷のことをまるで気にせず、穏やかな表情で会話している。


 もはや、これが答えなのだという気がした。そして──父もきっと、自分の思惑もあったにせよ、こういう母を間近に見て入所に同意したのだろう。今夜家に戻ったら、父に確かめてみようと思う。


 いずれにせよ私にはもう、言うべきことがなかった。

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