勇太

 次の日の朝、父たちが帰ってくる可能性を考え、いつもより早く起きた。


 平日である今日、父が会社の始業時間に間に合うには、この家を八時には出る必要がある。間に合うつもりでオウルを出るなら、出発は遅くとも七時頃になるだろう。


 小駒から説明を受けたことで不安はなくなっていた。とはいえ、できることなら出勤前に二人と会って、体験入所がどうだったのかを直接聞いておきたい。


 早めの朝食を食べ終え、それからは掃除などをしながら時間を潰していたが、父たちが帰ってくる気配はなかった。壁掛け時計を見上げると、既に七時半近くになっている。


「まだ施設にいるのかな……」


 そこで私は、今更のように気付いた。携帯電話があるではないか。オウル自体は山深すぎて電波はほとんど入らないが、既に施設を出てこちらに向かっているのなら、問題なく繋がるに違いない。


 私はさっそく自分の携帯電話から父の番号にかけてみた。


 だが、呼び出し音が鳴ることはなく、ブツッブツッというノイズの後、「おかけの電話は、電波の届かないところにいるか──」というアナウンスが聞こえてきた。


 私は終話ボタンを押し、もう一度壁掛け時計を眺める。


「やっぱりまだオウルなのかな」


 何となく不安のようなものを覚えたが、父だって子供ではないのだ。いちいち心配し過ぎるのは私の悪い癖だ。


それに、そろそろ私も出かけなければならない。私は出勤準備をするため二階に上がっていった。




 既に慣れてきた藤堂線に乗り、大同駅へと向かう。


 ホームから駅舎に入ると、門の形にくり抜かれた風景の中に、柳の木を背に停まっているワンボックスが見えた。


 私の姿が見えのだろう、運転席のドアがすぐに開き、中から人が出てきた。


 当然小駒が出てくると思っていた私の目に、明らかに小駒ではない、痩せて背の高い男の姿が映った。


 男は日が眩しいのか、兵隊が敬礼するように手を掲げながら小走りに近づいてくる。オウルくんTシャツを着ているので、施設職員の一人なのだろう。


「おはよっす、先生」


 男は軽い口調で言った。髪色は明るい栗色で、耳にはリングのピアス。


「小駒さん忙しくて手が離せないからって、俺が代わりに来たんすよ」


「……あ、そうだったんですね。すみません」


 私が頭を下げると、その男は大袈裟に驚いたふりをする。


「ちょっとちょっと先生、敬語なんてやめてくださいよ」


 間近で見ると、男は私よりも随分と若そうだった。二十代前半、下手をすれば十代後半かもしれない。見ればオウルくんTシャツの胸部分には名札がついていて、そこには手書きの汚い字で「イケメン勇太」とあった。本当に見た目通りの男らしい。


「いえ……私、まだ新人なので」


「固い固い。そんなこと言ってたらいつまで経っても馴染めませんよ」


 その男──勇太はまた大きな声で笑い、大きな手で躊躇なく私の肩をポンポン叩く。その馴れ馴れしさ、そして無邪気さに、思わず笑ってしまう。


 確かに、今後は生徒だけでなく、オウル職員たちともいい人間関係を築いていかなければならない。新人だからと自ら萎縮していては、仲良くなるキッカケも掴めないだろう。


「確かにそうかもね。これからは気をつける」


 敢えてタメ口で言うと、勇太は嬉しそうに笑った。


「いいね、その調子」


 勇太の運転でオウルに向かう途中、父が施設を出たのは八時過ぎだったという話を聞いた。やはりすれ違いだったらしい。


 駐車場に車を停め、勇太と一緒に施設までの坂を登る。すぐに、古い案内板と、三角形の建物──クラブハウスが見えてくる。


 中に入ると、事務仕事をしていた職員が気づいてそれぞれに挨拶をしてくれる。勇太と一緒だからだろうか、これまでよりもどこか親しげな雰囲気だ。


「おはようございます」


 意識して少し大きな声を出しカウンターを抜ける。


 こうやって私は新たな居場所を作っていくのだ。これまでは、気が詰まるような自宅と、居心地はいいが張り合いのないカルチャーセンターの往復だった。


 これからは違う。私はここで、やりがいを感じながら働いてくのだ。


 私は前向きな気分で貸出帳に名前を書き、PCルームの鍵を手に扉を抜けた。




 クーラーをつけ、デスクを回って端末を一台一台起動させていく。


 全ての画面が立ち上がり、自分のパソコンで今日の授業計画を確認していると、窓をノックする音が聞こえた。見れば、生徒を連れてきた磯野だった。


「今日は全員参加ですよ、先生」


 ドアを開けた私に磯野は嬉しそうに言う。見れば確かに、磯野の向こうに五人のメンバー全員が揃っていた。


「よっ、先生様!」


 顔にデキモノのある徳武が大声で言って、隣にいた砂山がわははと笑う。他の三名──坪家、吉田、羽原──は無反応だったが、別段気分が悪そうにも見えない。


 先ほどの勇太とのやりとりしかり、生徒たちの雰囲気しかり、やはり私はここで、少しずつ居場所を作り始めているのだ。それが実感としてわかる。


「よし、じゃあ、今日も始めましょう。皆さん、中に入って」



 精神的な落ち着きを得たからだろうか、授業は順調に進んだ。


 それに、個人ごとに進捗をウォッチするという方法が、思った以上に有効だということもわかってきた。


 五人に同じ内容を教えるのではなく、一人ひとりの能力や適性に応じた個別授業を同時進行で行っていく。そういうスタイルに変えたことで、一人ひとりのモチベーションが上がっただけでなく、全体の見通しも良くなった。


 手応えを感じた私は、ちょっとしたデモンストレーション的な時間を作ってみた。


 この時間は一旦個人事業を止め、皆に手を止めてもらう。そして私が自分用の端末で、デモ操作のようなものを行って見せるのだ。


 例えば、Illustratorを起ち上げ、簡単なページレイアウトを作ってダミーテキストを流し込む。二、三分で画面には雑誌のページのようなものができあがる。


 決して難しい技術を使っているわけではないが、何もなかった白紙の画面にどんどんデサインができあがっていく過程は、見ていて面白いはずだ。


 あまり複雑なものでは、特に知的障害を持つ砂山や徳武には伝わりづらいということで、多角形ツールを使って画面に大きな星型のオブジェクトを作り、それを黄色く塗る、というようなわかりやすい操作も間に挟む。


 すると、これまでマウスを持つことすら拒否していた砂山が、画面に顔を近づけて「星っ、星っ」と歓声を上げた。

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