電話

 いつもより熱い湯を張った浴槽に浸かり、正面にある鏡を見つめる。


 鏡は蒸気で薄く曇っているが、こちらを見つめる自分と目が合っているのがわかる。輪郭がぼやけているからか、気持ちがそうさせるのか、普段よりいやらしい顔に見える。


 セックスの経験は人並みにある。行為自体にそこまでの思い入れはないが、好きな相手から求められれば嬉しく感じる。


 今、私が求めている相手はどんな男だろうか。光沢のある派手なスーツに、スパイシーなコロンを振るような男ではない。教養があり、目標や夢を持ち、それに向かって誠実に行動する、そんな男だ。人生のパートナーとして、ずっと共に歩んでいけるような相手なのだ。


 手のひらに湯をため、鏡に向かって投げる。湯の当たった形に曇りが取れ、そこに先ほどよりずっと解像度の高い私の顔が現れる。


 二十九歳。まだまだ若い。そう思いたい。


 だが、そこに映るすっぴんの自分に、自信が持てなくなってきているのも事実だ。


 あまり時間がない。


 小駒のような人には、もう二度と出会えないのかもしれない。





 次の日の日曜、私は駅前に出かけていった。


 久々に訪れた百貨店でファンデーションとマスカラを買い、同じビルの上階に入っている生活雑貨店で洗顔を、そして洋服のセレクトショップで夏物のワンピースとブラウスを買った。


 買い物をしている間、頭の中には常に小駒がいた。小駒のためだと思えば多少の出費も痛くはない。今日買った化粧品でメイクをし、新しい服でおしゃれをした私を見て、小駒はどんな反応をするだろうか。そう考えるだけで、頬が緩んだ。


 午後三時過ぎ、歩いて家へと向かう。両手いっぱいに抱えたショッピングバッグは、冷凍食品やウーロン茶の入ったスーパーの袋よりもずっと軽かった。


 太陽の光は相変わらず容赦なく、歩き回ったせいで全身が汗ばんでいた。でも、それすら気持ちがいいと思えるほど、気分がよかった。



「すみません……ちょっと想定外の状況になっていまして」


 夕方、昨日より一時間ほど遅くかかってきた電話で、小駒は言った。


「え? 想定外って──」


 一体何のことだろう。まさか、母がまた自傷行為でもしたのだろうか。


「な、何かあったんですか。母や父に、何か」


 充実したショッピングで得た満足感が一瞬で遠ざかり、その空間を埋めるように不安が押し寄せてくる。


「ああ、いえいえ、ご安心ください。プログラムは順調に終了しまして、お母様にもお父様にも大変満足いただけました。ただ──」


「ただ、なんですか」


「ええ、それが、プログラム終了間近になって、お母様からご相談を受けまして」


「相談、ですか」


「ええ、体験入所を明日の朝まで延長できないか、と」


「え?」


 私は思わず身を乗り出した。体験入所の延長?


「驚くのも無理はありません。正直、我々も驚いていまして──」


「いや……でも、どうして延長なんて」


「はい、もう少しオウルで生活してみたい、特に住居棟内についてより詳しく知りたい、ということのようです。確かに、昨日は作業でお疲れになったのか、棟に戻って食事をとった後、まもなく眠ってしまわれて。予定していた大浴場での入浴や、他の利用者さんとのレクリエーションには参加できなかったんです」


「ああ、そうだったんですか」


「ええ。ですからもう一日泊まって、昨日できなかったプログラムを体験したいと」


 とりあえず事故やトラブルでないことがわかり、ほっとする。小駒の説明にも、特に理解できない部分はない。


 だが一方で、この家での母を思い出すと、本当にそんなことを言ったのだろうかと信じられない気持ちだった。日がなテレビをぼんやり見続けるだけだった母が、そんなに積極的になっているなんて。


「誰かに言われたとかじゃなく、母の方からそういうことを言ったんですか」


「ええ、そうなんです。昨日もお伝えしましたが、オウルでのお母様は本当に生き生きとされていて、人が変わったみたいだとお父様も驚いていました。ああ、そうそう、もし延長できるならお父様も付添人として残ってくれるとのことで」


 今度こそ驚いて「本当ですか?」と声を大きくしてしまう。


「だ、だって、明日は月曜ですから、父は普通に会社に行く日です。朝までの延長と言っても、そちらからじゃ出勤時間に間に合わないんじゃ……」


「ええ、そこは我々も確かめたんですが、お父様、明日は午前休みを取るか、あるいは家に戻り次第の出勤で大丈夫だと仰って」


 信じられない。父がそんなことを言うなんて。


 母にしろ父にしろ、たった一日でそこまで変化するものだろうか。少なくともこの半年間、二人は何も変わらなかったのだ。


 だが、これはいいことじゃないか、と考えている自分もいる。


 そもそも今回の体験入所は、言うまでもなくオウルへの入所を想定したプログラムだ。母がオウルを気に入り、もっと詳しく知りたいと言っているのなら、何を止めることがある。


 そこまで考えて、ああそうか、と思う。


 だから父は、仕事人間らしからぬ反応を見せたのだ。オウルへの入所に現実味を感じたからこそ、この貴重な機会を活かそうと考えた。


 そんな父に対し、反射的に嫌悪を覚えた。


 だがすぐに、父の気持ちに少なからず共感を覚えてしまっている自分にも気付き、何とも居心地の悪い気分になる。


「それで、実際延長することになったんでしょうか」


 私が聞くと、小駒はそうだと言った。


「こちらとしては特に問題はありませんので、ご希望ということでしたらどうぞ、とお伝えしました」


「そうですか。でも、本当によろしいんでしょうか。施設にご迷惑をかけるんじゃ」


「そのあたりはお気になさらないでください。もともと障害者支援施設というのは、日々想定外の出来事が起こるところでして」


 小駒はどこか愉快そうに笑った。なんとなく最初の授業の様子が思い浮かんだ。砂山と徳武の激しいやり取りにあのときは驚いてしまったが、今となってはむしろ微笑ましさすら感じる。


「確かに、そうかもしれません」


 私が同調して笑うと、「でしょう?」と小駒は笑った。


 しばらく二人で笑った後、「とはいえ」と小駒は言った。


「実はスケジュール調整に思ったより手間取ってしまって。それでご連絡が遅くなってしまったんです。でも無事、お母様の入浴体験も宿泊も、それから他の利用者さんを交えてのレクリエーションも、なんとか実施できることになりました」


「そうだったんですね。すみません、お手数おかけして」


「いえいえ、とんでもありません。もっとも、ちょっと無理にスケジュールをねじこんだので、既にお父様もお母様も住居棟でプログラムに入られていまして。本当はお父様から直接ご連絡してもらった方がよかったんでしょうが、それが難しいということで、私がこうして連絡した次第で──」


 経緯がわかり、私はあらためてほっとする。咄嗟のことで取り乱してしまったが、こうして状況を説明してもらえば、何の問題もなかったのだとわかる。いやむしろ、思った以上にうまくいっているのだ。電話で聞くだけで、母が既にオウルでの生活に興味を持っているのはよくわかった。


 思わずベッドの上で正座し、頭を下げる。


「小駒さん、何から何まで、ありがとうございます」


「いえいえ、そんな。私どもはいつも通りにやっているだけで──」


「でも、ありがとうございます。感謝しています」


 私が念を押すと、小駒は一瞬黙り、「こちらこそ」と優しい口調で言った。


「では、そういうことで、こちらできちんと対応させていただきますので、心配なさらないでくださいね。明日はもしかしたら、お二人と戸田さんはすれ違いになってしまうかもしれませんが」


 一瞬意味がわからなかったが、そうかと思う。


 明日は月曜で、私がオウルに出勤する日なのだ。確かに、父たちの出発時間によってはすれ違いになるだろう。


「わかりました。それではよろしくお願いします」


 私は再度頭を下げ、電話を切った。

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